表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
4/11

04

セレーネは、追っ手の影を振り切るように尾びれを鋭くしならせ、誰の目も届かない秘密の岩礁の奥深くへと滑り込みました。そこは、かつて彼女が波間から拾い集めた地上の遺物たちが、静かな時の堆積の中で眠る、彼女だけの不可侵な聖域です。

周囲を囲む複雑な形状の岩肌が、外の世界の喧騒を遮断し、心地よい静寂を彼女に与えていました。彼女は胸元に隠していた、あの古びた革表紙の手帳を、壊れ物を扱うような手つきで慎重に取り出しました。

背中で感じる海水の微かな揺らぎを頼りに、誰かに見られていないかを何度も執拗に確かめてから、彼女は期待と恐怖が入り混じった溜息をつき、震える指先でその頁をゆっくりと開きました。


手帳の最初の頁には、細密な線で描かれた薬草の図解や、常人には理解しがたい複雑な魔法薬の組成数式が整然と並んでいました。しかし、頁をめくるごとに、それらの学術的な記録を侵食するようにして、若き日のコーラルが書き留めた、感情の滲む日記が姿を現しました。そこに綴られていたのは、セレーネが想像もしていなかった、温かく穏やかな光に満ちた日々の記憶でした。


当時の王妃であり、実の姉のように慕っていたパールとの、他愛もない会話の記録。そして、コーラルがその魂のすべてを捧げるようにして深く愛していた、一人の従兄の存在。その従兄の名が記された行をなぞった瞬間、セレーネは冷たい水を肺に吸い込んだかのような衝撃に襲われ、呼吸を忘れて立ち尽くしました。


「アトラス……そんな。これは、お父様の元の名だわ......」


名はアトラス。それは、母の死後に王位を継承し、偉大なるトリトーンの名を受け継いで今や海の王国を統べる、彼女の厳格な父の若き日の名に他なりませんでした。

手帳の中でのアトラスは、現在の威圧的な王の姿とは程遠く、コーラルの研究を誰よりも理解して支え、共に輝かしい未来を語り合う、誠実で優しい青年として描かれていました。セレーネは信じがたい思いで、その名が綴られたインクの跡を何度も指でなぞり、父がかつて抱いていたはずの温かな愛情の断片を探そうとしました。


読み進めていくうちに、記述はあの運命の、そして凄惨な結果を招いた「地上への旅」の詳報へと至ります。

そこには、海の掟を破ってでも外の世界を見たいと、幼子のように無邪気に、しかし強硬に希望する王妃パールに、コーラルが不安を抱きながらも、渋々ながら同行を決意した経緯が、少しの呆れと深い親愛を交えて記されていました。しかし、その先の頁をめくった瞬間、筆致は一転して乱れ、血の匂いと絶望の悲鳴を想起させる、生々しい傷跡のような記述へと変貌しました。


地上へ辿り着いた彼女たちを待っていたのは、幻想の中に描かれたような優しい人々ではなく、異形を排斥しようとする蛮族たちの、血に飢えた容赦ない攻撃でした。パニックに陥り、身動きの取れなくなった王妃パールの身を守るため、コーラルは自らを盾にして前に飛び出したのです。

手帳の文字は、人間の兵士が突き出した鋭い槍の穂先が、彼女の柔らかな脇腹を深く、無慈悲に貫いた時の情景を語っていました。その瞬間に走った、肉が焦げるような激痛と、海水に混じって失われていく自身の血の、不気味なほどの熱さ。掠れた筆跡からは、死を覚悟した瞬間のコーラルの荒い息遣いまでもが聞こえてくるようでした。


「おばあ様……あなたが言っていた『恐ろしい人間』とは、自分を守って傷ついたコーラルを見捨てた後の免罪符だったの?」


セレーネは唇を噛み締め、さらに驚愕の事実を突きつけられます。コーラルは、その致命的な傷の痛みに耐えながら、あろうことか「再び地上へ行きたい」というパールの、執念じみた残酷なまでの渇望を叶えるため、人間へと擬態する究極の薬の製作に着手していたのです。

その薬は、人魚の誇りであり、命を繋ぐ母なる海の守護でもある「海の加護」を一時的に、そして強制的に断ち切るという、極めて危うい禁忌の性質を孕んでいました。コーラルは、その副作用がもたらす肉体への負担や倫理的な問題を、専門家として慎重に調査し尽くしていました。

当時の王国法をくまなく照らし合わせ、将来的にそれが禁じられる可能性を考慮しつつも、現時点での違法性がないことを幾度も確認する記述が並んでいます。彼女はただ、愛するアトラスやパールのために、持てる才能のすべてを捧げて、細心の注意を払いながら調合の準備を進めていたのです。


しかし、ある頁を境にして、日記は唐突に終わりを告げていました。まるで、幸福な夢を強制的に断ち切るかのように、あるいは高所から奈落へと突き落とされたかのように、空白の頁だけがその先に虚しく続いていたのです。


『真実は、この空白の後に隠されているのよ。貴女を騙し、恩人を踏み台にした者たちの真実がね』


水の底から響いてくるような不気味なささやきが、セレーネの脳内に直接染み込んできました。彼女は震える手で空白の頁を握りしめ、かつてこの手帳に希望を綴っていた若き女性の運命に、言いようのない憤りと悲しみを感じずにはいられませんでした。


手帳に残されたあまりにも虚しい空白は、口に出すことさえ憚られるような、血を吐くような悲劇を無言で暗示しているようでした。セレーネは、岩礁の冷たい壁に背を預け、手帳を抱きしめる腕に力を込めます。

かつては絶対的な正義であり、揺るぎない愛情の対象であった父や祖母。しかし今、彼女の瞳に映るのは、美辞麗句で塗り固められた分厚い嘘の仮面を被った、見知らぬ他人の姿でした。

彼らに直接尋ねたところで、都合のいい虚飾で塗りつぶされた答えしか返ってこないことは、もはや火を見るよりも明らかでした。セレーネは金の瞳に鋭い光を宿し、再び迷宮のような王宮図書館の深淵へと、水の抵抗を切り裂くようにして急ぎました。


『裁判の記録と法律の制定年を詳しく調べてみなくては。真実が葬られた、その忌まわしい年にあった出来事のすべてをね』


耳元でささやく内なる声は、冷徹な導き手となって彼女の思考を研ぎ澄ませていきました。図書館の最奥部、誰の目にも触れぬよう放置された埃を被った公的な記録の束を、彼女は一心不乱にあさり始めました。

指先はケルプ紙の端をかすめ、古いインクの匂いが淀んだ海水に溶け出していきます。そして、ついに彼女は、喉を締め付けられるような冷徹な事実を突き止めました。そこには、コーラルが「海の加護を断つ薬」を精製したとして、神を冒涜した大罪で裁かれた裁判の記録が残されていました。

驚くべきことに、その判決は即日執行され、彼女が暗い奈落へと封印されたわずか数ヶ月後に、その行為を厳罰とする新しい法が制定されていたのです。さらに、時を同じくして、父アトラスと今は亡き母との婚約、そして国中を挙げての電撃的な結婚式が執り行われていたという事実が、無慈悲な日付と共に並んでいました。


「つまり、コーラルは後から作られた法律によって、遡って罪人に仕立て上げられたというの? すべては、お父様の結婚を、その地位を揺るぎないものにするための、醜い生贄として?」


セレーネは戦慄し、全身の血の気が引いていくのを感じました。かつて心から愛し、人生を共に歩むと誓い合ったはずの男と、実の姉のように慕っていた存在。その最も信頼していた二人によって、名誉を奪われ、都合のいい口封じのために暗く冷たい海の底へ葬られた一人の女性の絶望。

そのあまりの無残さに、彼女の心臓は激しく脈打ち、喉の奥が熱く焼けるような怒りに支配されました。父と祖母に対する猛烈な不信感が、氷のような冷たさで彼女の心を満たし、それまでの家族像を音を立てて崩壊させていきます。


「おばあ様たちが隠したかったのは、人間の恐ろしさだけじゃなかったのね。自分たちの手が、仲間の血でどれほど汚れているか、その汚れを私が知らないまま、操り人形として生きてほしかっただけなのよ」


セレーネは決然と顔を上げ、重苦しい図書館の天井を見上げました。もはや、家族が口にする甘い言葉を鵜呑みにすることはできません。彼らの愛は、自分たちの保身と欺瞞を守るための殻に過ぎなかったのです。

彼女は、深い闇の底で今もなお、世界への、そして裏切り者への底知れぬ恨みを募らせているであろうコーラルと直接会い、歪められた歴史の真の姿をこの目で見届けることを、固く心に誓いました。

その先に、自分が愛してやまない王子へと続く道が、どれほど険しく、どれほど血塗られたものであったとしても。彼女の金の瞳には、もはや少女の夢見がちな光ではなく、真実を求める者の、鋭く凍てついた決意が宿っていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ