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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
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02

紺碧のカーテンを幾重にも重ねたような、深みのある青が支配する海底の静寂の中で、セレーネは慣れた手つきで巨大な岩礁の裂け目へと身を滑り込ませました。そこは、潮の流れさえも届かない彼女だけの聖域であり、好奇心という名の乾きを癒やすための秘密の宝物庫です。

彼女は指先を器用に動かし、床に堆積したきめ細やかな白い砂を愛おしむように払い除けました。すると、かつて激しい嵐に翻弄され、この深淵へと堕ちてきた沈没船の遺物たちが、微かな燐光を受けて鈍い輝きを放ちながらその姿を現します。


錆びついて本来の銀色を失い、海水の塩気に蝕まれた無骨な燭台。ガラスが割れ、内部の針が虚しく空を指したまま動かない真鍮の羅針盤。そして、かつては高貴な誰かの肌を飾っていたであろう、ボロボロに引き裂かれた絹の布切れ。

それらは地上の人間たちが日々の営みの中で、当たり前のように手で触れ、温もりを与えていた道具の残骸であり、今の彼女にとっては未知なる天空の世界へと繋がる、唯一の頼りない鍵でもありました。


セレーネは、細長く鋭い、ナイフのような形状をした鉄の道具をそっと掌に乗せました。その冷たく硬い感触を指の腹でなぞりながら、彼女はあのバルコニーに立っていた王子の、骨張った指先や、自分を抱きしめてくれるであろう手の温もりを、痛みを感じるほどの強さで空想します。

どれほど長い時間が過ぎ去り、王宮の日常に身を浸そうとも、地上への渇望は消えるどころか、満ち引きを繰り返す潮汐のように彼女の胸を激しく揺さぶり、その魂を削り続けていました。


『あんなに美しい人が住んでいる場所が、恐ろしい地獄であるはずがないわ』


甘く、とろけるような毒を含んだささやきが、彼女の脳裏で静かに響きました。それは、彼女自身の願望を肯定し、背中を優しく押すような誘惑の声でした。

居ても立ってもいられなくなったセレーネは、宝物を再び砂の下へと隠すと、秘密の場所を勢いよく飛び出しました。彼女は尾びれを激しくしならせ、水中に一条の泡の航跡を残しながら、王宮の奥まった一角にある珊瑚の庭へと急ぎました。


そこには、淡い桃色の珊瑚に囲まれ、一族の中でも唯一地上という異世界に足を踏み入れたことがあるという祖母、パールが静かに佇んでいました。

パールの尾びれは、年月を経てなお真珠のような気品ある乳白色を保っていましたが、その瞳の奥には、濁った海流の下に沈んだ古い記憶を掘り起こすような、重く深い色が宿っています。

セレーネは、パールの膝元に愛猫のように身を寄せると、皺が幾筋も刻まれた、しかし驚くほど温かなその手を両手で包み込みました。そして、これまで幾度となく繰り返してきた、しかし決して満たされることのない問いを、堰を切ったように投げかけました。


「ねえ、おばあ様。お願い、隠さずにもっと教えて。地上は、あの方たちが住む世界は、本当はどんなに素晴らしいところなの? 空の色は、この海よりももっと透き通っているって本当かしら。人間たちの手は、この水よりも温かくて、包み込まれると夢の中にいるような気持ちになれるの?」


パールは、孫娘の金の瞳に宿る、燃え盛る炎のような危うい輝きを見つめ、静かに、そして長く重い吐息をつきました。その脳裏には、数十年という歳月を経てもなお色褪せることのない、鮮烈な罪の記憶が昨日のことのように蘇ってきます。


「私の母、あなたにとっては曾祖母からも、地上は恐ろしい場所だから決して近づいてはならないと、耳にたこができるほど言い聞かされてきたわ。海こそが、私たち人魚にとって唯一の揺りかごであり、魂の安息を得られる聖域なのだと。

けれど、若さというものは時に、あまりにも無謀で恐ろしいものね。今のあなたを見ていると、かつての自分を鏡で見ているような心地がするわ。私も、外の世界が放つ抗いがたい誘惑の断片に、心を完全に奪われてしまったのよ」


パールは視線を、はるか遠く、白く霞む水面へと向けました。その声は微かに震え、過去という名の鎖に引きずられるように語り継がれました。

それは、世界を揺るがすような激しい嵐が去った、ある静かな朝のことでした。天からの大雨が地を穿ち、地上から溢れ出した濁流が海へと流れ込んだ際、波間に揺られながら漂う、見たこともない鮮やかな紅色の果実が、彼女の目に飛び込んできたのです。


「おばあ様、その赤い果実って、どんな形をしていたの? 宝石のようにキラキラしていたのかしら」


セレーネはパールの指を強く握りしめ、身を乗り出して尋ねました。パールは、その問いに苦い微笑みを浮かべます。


「それはリンゴという名だったわ。流されてきたその果実の美しさは、まるですべての罪を覆い隠すような輝きを放っていた。そして、禁じられた誘惑に抗いきれず、その皮を噛み切り、果肉を口にした時の感覚といったら……。あの、舌の上で弾ける甘酸っぱく、瑞々しい、暴力的なまでの美味しさ。

私はその一口で、魂ごと地上という名の魔物に囚われてしまったのよ。周囲が必死になって制止するのも聞かず、私はどうしてもその実が実る源を見てみたくなって、たまらなくなった。だから……私の一番親しかった友人を、嫌がるのを無理やり連れ出すようにして、禁じられた川を遡り始めたのよ」


「おばあ様と一緒に旅をした、そのお友達は今どこにいるの? その人も、地上で素敵な王子様に出会ったのかしら。もっと、もっと聞かせて!」


セレーネの瞳は好奇心で爛々と輝き、パールの言葉を一言も聞き漏らすまいと顔を近づけました。しかし、パールの顔から温度が消え、深い陰影が差し込むのを、彼女はまだ気づいていませんでした。


パールの語る物語は、静かな潮の流れに乗りながら、次第に暗い影を帯びていきました。セレーネは瞬きをすることさえ惜しむように、祖母の唇から零れる一語一句を逃すまいと聞き入ります。彼女の金の瞳には、パールの言葉によって構築されていく未知の世界が、鮮烈な色彩を伴って映し出されていました。


「辿り着いた地上には、目に眩しいほどの溢れる緑の木々があり、空には自由奔放に、重力さえ忘れたかのように飛び交う鳥たちがいたわ。それは、私たちの想像を絶するほど夢のような光景だった。けれどセレーネ、光が強ければ強いほど、その裏に潜む影もまた深く、濃いのよ。

瑞々しい草木に覆われた岸辺には、私たちの柔らかなヒレを食いちぎろうと牙を剥く、獰猛な四つ脚の獣が潜んでいた。

そして何より恐ろしいのは、人間という名の蛮族だったわ。彼らは私たちの姿を見るなり、船を沈める邪悪な化け物が現れたと叫んで、鋭い槍を容赦なく、迷いもなく振り下ろしてきたのよ。彼らの瞳にあるのは慈悲ではなく、異物に対する純粋な拒絶だったわ」


パールの節くれ立った手には、無意識のうちに力が入り、握りしめられたセレーネの手を微かに震わせました。彼女は言い聞かせるように、逃げ場のない真剣な眼差しでセレーネの瞳をじっと見つめました。その表情には、愛する孫を失いたくないという切実な祈りと、二度と思い出したくない記憶を抉り出した痛みが混濁しています。


「いい、セレーネ。海の中にいれば、私たちは母なる海の慈愛に守られている。この偉大なる海の加護がある限り、恐ろしいサメの鋭い牙も、海に潜む毒針やウニの棘も、決して私たちの命を深く傷つけることはできないの。

この水そのものが、私たちの盾であり鎧なのよ。だからこそ、私たちはこの安全で豊かな海の中で、平穏に生涯を過ごさなければならない。外の世界は、私たちのために用意された場所ではないのだから」


パールの言葉は、海底に沈む重い石のように、ずしりと重苦しく締めくくられました。警告と拒絶を含んだその教えに、セレーネは一瞬だけ、冷たい水を浴びせられたように身をすくめました。しかし、彼女の胸の奥で燃え上がる好奇心の火は、その程度の忠告では消え去るどころか、さらに酸素を求めて激しく爆ぜるばかりでした。


「でも、おばあ様。人間がみんな恐ろしいなんて、信じられないわ。私が見たあの方は……バルコニーに立っていた王子様は、誰かを傷つけるような人には見えなかった。むしろ、今にも壊れてしまいそうなほど、悲しげな瞳をしていたの。どうしてそんなに優しい顔ができる人が、槍を投げたりするの?

それに、おばあ様……その時、一緒に行ったお友達は誰なの? その人は、今どこにいるの? まさか、人間に捕まってしまったわけではないでしょう?」


セレーネは畳みかけるように問いかけ、縋るようにパールの顔を覗き込みました。その問いを聞いた瞬間、パールの穏やかだった表情が、北の氷海に閉ざされたかのように硬く凍りついたのを、セレーネは見逃しませんでした。

パールの瞳には一瞬だけ、言葉にすることさえ恐ろしいような、筆舌に尽くしがたい苦悶と、拭い去れない後悔の色がよぎりました。パールの喉が微かに震え、何かを言いかけましたが、彼女はすぐに視線を逸らし、自らの乳白色の尾を優雅にしならせて、逃げるように泳ぎだしました。


「さあ、古い話はもうおしまい。これ以上話しても、あなたの毒になるだけだわ。夕食の準備を始めなくてはね。今夜は美味しい海藻のサラダを作りましょう」


パールの言葉は、先ほどまでの情熱的な語りとは対照的に、事務的で明らかな拒絶を含んではぐらかされました。セレーネは、泡を立てて去っていく祖母の背中を、一人取り残された珊瑚の庭でじっと見送りながら、パールの語らなかった空白の部分に、何か底知れぬ巨大な闇が隠されているのを感じずにはいられませんでした。


『語れないのは、後ろめたいことがあるからよ。隠しているのは、私をここに縛り付けるためだわ』


どこからともなく響いてきたその不気味なささやきに、セレーネはびくりと肩を震わせました。しかし、その不安や恐怖さえも、地上への燃えるような、狂おしいほどの好奇心を消し去るまでには至りませんでした。むしろ、秘密があるという確信が、彼女を真実の深淵へとさらに強く引き寄せていくのでした。


「隠せば隠すほど、私はもっと知りたくなるわ。おばあ様。あなたが何を恐れているのか、私が必ず暴いてみせる」


セレーネは拳を固く握りしめ、静まり返った海底で、誰にも聞こえない誓いを立てました。



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