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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
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トリトーンが勝利の確信と共に投げつけた、その禍々しく輝く紫色の液体がその身に触れた瞬間、コーラルの姿を包んでいた薄い膜のような、不自然に揺らめく蜃気楼が、剥がれ落ちる鱗のようにバラバラと音を立てて崩れ去っていきました。

しかし、そこに現れたのは、憎き魔女の断末魔に歪む表情でも、封印を恐れて許しを乞う罪人の姿でもありませんでした。現れたのは、自らの息子に腹部を貫かれ、あまりの衝撃と苦痛に声も出せずに顔を歪ませた、彼の実の母親であるパールだったのです。

彼女の穏やかだった瞳は驚愕で見開かれ、傷口から溢れ出る真紅の血が、夜の海をどこまでも深く、重苦しく染め上げていきました。


「母上……? なぜ、なぜあなたがここに、コーラルの姿をして……。まさか、私が今、この手で貫いたのは……」


トリトーンの脳内を、これまでの人生で感じたことのないほどの激しい戦慄と後悔が駆け巡りました。

彼が誇り高く握りしめていた黄金のトライデントは、今や母の命を奪うための呪われた凶器へと成り下がり、それを支える屈強な腕は、生まれたての小鹿のように無様に震え、力を失っていきました。

しかし、運命が彼に懺悔の時間を与えることはありませんでした。海底の底知れぬ闇から、飢えた蛇のように無数の黒い鎖が音もなく這い上がり、逃れようとする彼の両腕と巨体に、容赦のない冷徹さで絡みついたのです。

鉄の冷たさが彼の肌を氷のように焼き、底知れぬ深淵の引力が、海の王としての威厳をなぎ倒しながら、彼を奈落へと引きずり始めました。


「本当に馬鹿な子。なぜ私が貴方のような裏切り者に、正しい薬の使い方を教えると思ったのかしら? これで貴方も、愛する娘と同じ、闇に堕ちるべき立派な罪びとよ」


暗闇の静寂を切り裂くように、嘲笑を孕んだ透き通るほどに美しい声が、もがくトリトーンの背後から静かに響きました。

彼が必死に首を巡らせた先にいたのは、傷ひとつない完璧な美しさを湛え、月明かりをその身に浴びて優雅に浮かぶ、本物のコーラルでした。

彼女は冷ややかな、しかし憐れみさえ感じさせる瞳で、親子が互いに傷つけ合い、血を流し合うというこの世で最も無様な光景を、冷徹に見下ろしていました。


「本当に魔法がかかっていたのは、中身の薬なんかじゃない。その精巧に作られた小瓶の方なのよ。

中に入っていた液体なんて、ただ、貴方の心理的な穢れに合わせて色を変えるだけの、何の変飾もない、ただの海水に過ぎないわ。

貴方の心が濁れば濁るほど、その水は毒々しい色へと変わっていった。それが貴方の本性の色よ」


コーラルは、まるで勝利を確信した女神のように優雅に尾びれをしならせ、憎しみに顔を赤黒く染めて吠え、届くはずのない呪いの言葉を吐き散らすトリトーンの正面へと、ゆっくりと回り込みました。

鎖がギリギリと耳障りな音を立て、トリトーンの頑強な骨を軋ませ、肺を圧迫していく中、彼女は慈悲という名の絶望を最後通牒として突きつけました。


「あの小瓶に込められた真の力は『献身』よ。それは間違いないわ。

小瓶を持つ者が、自分以外の誰かのために、真実の献身を持って自らの血を注ぎ、痛みを分かち合おうとしたならば。その尊い心根と、犠牲を厭わない絆によって、娘を縛る呪いの鎖を断ち切ることができたはずだった。

つまりね、アトラス……貴方が自らの保身を捨てて、父としての真実の勇気を持ち、自己犠牲を払って娘を助けようとしていたら、今頃二人とも光の中へ解放されていたのよ。

自らの血を流さず、他人の血で、それも憎き敵の血で問題を解決しようとした貴方の傲慢さが、すべてを台無しにしたの。残念だったわね」


『さあ、自分が何を選び、何を失ったのか、永遠の闇の中で反芻し続けるがいいわ。貴方が貫いたその母の命も、救うことができたはずの娘の未来も、すべては貴方のその汚れた手が手放したのよ』


その言葉は、絶望の淵に立たされたトリトーンの魂を、いかなる刃よりも深く切り裂く残酷な宣告となりました。彼はもはや叫ぶ力さえ失い、ただ呆然と、力なく倒れ伏す母パールの姿を、そして己を飲み込もうとする暗黒の運命を受け入れるしかありませんでした。

海底の亀裂から伸びる無限の鎖は、もはや抵抗を止めた海の王を、光の一切届かない死の深淵へと、一気に引きずり込んでいきました。


諦めと共に海の王が深淵へと引きずり込まれ、再び静寂が戻った海中で、コーラルは自らの身代わりとなって傷つき、力なく海流に漂うパールへと、ゆっくりと優雅に近づきました。

かつて人魚たちの慈愛の象徴であったパールの瞳からは、言葉にならないほどの深い悲しみと、最愛の息子に裏切られ、その手で貫かれたことへの絶望が、真珠のような涙となって絶え間なく溢れ出していました。その涙は海水に溶けることなく、彼女の最期の命の輝きを宿して、暗い海底へと静かに落ちていきます。


「孫娘を救いたい一心で、人魚としての最後の誇りであるその美しい声を差し出し、自らの命を削って作らせた『献身の小瓶』も、結局はこれっぽっちの役にも立たなかったわね。

お気の毒に。貴女が死ぬ間際まで縋り付くように信じたかった『優しい息子』なんて、最初からこの世界のどこにも居なかったのよ。あの子の中にあったのは、いつだって自分を正当化するための独善的な愛だけだったわ」


パールは深い、あまりに深い、底知れぬ悲しみをたたえた目でコーラルを見つめ、震える唇で何かを、かつて妹のように愛した娘への許しか、あるいは謝罪を伝えようとしましたが、失われた声はもはや形を成すことはありませんでした。ただ、かすれた気泡が彼女の口元から漏れ、空虚に昇っていくだけでした。


「賭けは私の勝ちよ。約束通り、貴女の残された最後の生命力、すべて私がもらっていくわね。……さようなら、お義姉ちゃん。この暗い海の中で、せめて夢だけは安らかに」


コーラルが懐から取り出した別の小瓶から、淡く、どこか不気味な光を放つ薬を静かに振りかけると、パールの体は次第にその輪郭を失い、無数の白い泡となって暗い海に溶けるように消えていきました。

かつて固く結ばれていたはずの絆も、血塗られた裏切りも、すべてを等しく飲み込んで、海は不気味なほど再び静まり返りました。


水平線の彼方で、太陽が最後の一片を沈ませようと、空を燃え残りの灰のような色に染め上げる中、コーラルは自由を謳歌する掠れた歌を小さく口ずさみながら、誰もいない、永久の静謐が支配する極北の氷海を目指して泳ぎ始めました。

そのしなやかな背中には、かつての恋人を葬り、一族を破滅させたことに対する後悔も未練も、一欠片すら存在しませんでした。


「憎んだ女の一番大切な末娘は、私が植え付けた『心の声』に突き動かされて、自ら進んで破滅の道へ堕ちていった。

あの子が夢見た地上への憧れも、あの嵐の中で見たトリトーンの冷酷な姿も、すべては私が鏡合わせに見せた都合の良い蜃気楼。

操られたことさえ、自分の意志だと信じ込んだまま、深淵に沈んでいった……本当にかわいそうなお人形さんだったわ」


彼女は冷ややかな独り言を続けながら、水平線の向こうにある、今頃は婚礼の悲劇に揺れているであろう地上の王国を、一度だけ冷淡に振り返りました。


「王子はあの王女を、自分を救ってくれた真実の運命の相手だと誤認したまま、偽りの愛の中で一生を終えるでしょう。

あの砂浜にいた無関係な修道女に、一瞬だけ王女の顔をかぶせて見せただけだというのに、人間とはなんと脆く、愚かな生き物なのかしら。

私を裏切ったアトラスは娘と共に深淵の底。息子の不義を正そうともせず、ただ沈黙という罪を重ねたパールも泡と消えた。これでようやく、私の心は凪の状態に戻れるわ」


冷たく澄んだ海流が、新しく生まれ変わった彼女の滑らかな肌を撫で、新しい孤独な旅立ちを祝福しているかのようでした。彼女の脇腹に残る古い傷跡だけが、かつてそこにあった激しい愛憎と、奪われた歳月の残り香を微かに漂わせています。


「今となっては、すべては遠い昔の話。もう終わったことなのよ。誰も恨んでなどいないわ。私はただ、私自身の魂を奪い返し、本当の自由を手に入れただけなのだから」


人魚の魔女は、残酷なまでに美しい、そして虚無的な微笑みをその唇に浮かべると、二度と過去を振り返ることなく、白く凍てつく氷の海へ向けて、吸い込まれるように姿を消していきました。






『可哀想に。貴方もあの子たちと同じように、この物語こそが真実だと信じてしまったのね』

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