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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
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婚礼を祝う荘厳な鐘の音が遠い街並みから響き渡り、西の地平線に傾き始めた太陽が、空を燃えるような、あるいは不吉な血の色を思わせる茜色へと染め上げていました。

セレーネは、豪華な刺繍が施された絹のドレスを身に纏いながらも、華やかな宴の喧騒から逃れるように、誰もいないバルコニーの隅にひっそりと立ち尽くしていました。足元に広がる海の波音さえも、今の彼女には自分をなじる怨嗟の声のように聞こえてなりません。

重いドレスの裾の下、彼女の指先は海鳥から授かったあの黒曜石のナイフの柄を、白くなるほど強く握りしめていました。冷たく滑らかな刃の感触が、迷いと恐怖の渦中にいる彼女の柔らかな肌を、警告するようにチリリと刺します。


「この刃で、罪びとを切ればいい。そうすれば、私は元の姿に戻り、海の加護を取り戻せる。でも、もしそうしてしまったら、この温かな太陽の下での生活は、あの方との輝かしい未来は、すべて泡となって消えてしまうのね」


声にならぬ、しかし引き裂かれそうな葛藤を胸に抱くセレーネの背後に、静かで、しかし確かな意思を持った足音が近づいてきました。

振り返ると、そこには純白の婚礼衣装に身を包み、まるで天から降り立った天使のような神々しさを放つ隣国の王女が立っていました。彼女はどこまでも慈愛に満ちた、柔和な微笑みをその美しい顔に浮かべ、迷いの中にいるセレーネのすぐ隣に、寄り添うように並びました。


「貴女が、あの荒れ狂う嵐の夜に、海へと投げ出された王子を救ってくださったのね? 卑しい身分を装いながらも、あの方を支えてくださったこと、同じ女性として本当に感謝いたしますわ。

おかげで、私と彼はこうして結ばれることができたのですもの。貴女の献身は、私たちの愛の礎となったのです」


その聖母のような言葉とは裏腹に、王女の顔はセレーネの視界の中で、みるみるうちに悍ましい邪悪な歪みを見せ始めました。先ほどまで澄んでいた彼女の瞳には、全てを見下し、嘲弄するような凍り付く冷酷さが宿っています。

王女はセレーネの耳元にその冷たい唇を寄せると、周囲の衛兵や招待客には決して届かない、低く這うような蛇のような声でささやき続けました。


『お陰で、私の計画は完璧に進みましたわ。この国を血縁という名の鎖で縛り上げ、私の支配下に置く。喋ることすらできない憐れな貴女には、王子に真実を伝えるすべなど残されていないでしょうけれど。

この肥沃な大地も、貴女が恋い慕ったあの男も、すべては私の手の中でゆっくりと、美しく朽ちていくのです』


『今よ、セレーネ。この女こそが、貴女からすべてを奪い、国を滅ぼそうとする真の罪人だわ。その刃を振るいなさい。正義は貴女の側にあるのだから』


その瞬間、セレーネの脳裏で何かが決定的に弾けました。正義感という名の義憤か、あるいは唯一残された絆を汚されたことへの激しい執着か。彼女は反射的に、袖に隠し持っていた黒曜石のナイフを、閃光のごとき速さで抜き放ちました。

そして、王女の細い腕を、迷いなく切り付けたのです。鮮紅の血が、純白のドレスに毒々しい模様を描いて飛び散ったその刹那、あたりの空気が凍り付いたように一変しました。虚空から、現実のものとは思えない不気味な軋みを立てて現れたのは、深い海溝の底から這い出してきたかのような、重々しく錆びついた鉄の鎖でした。

それは凄まじい意志を持っているかのように、セレーネの両腕に冷酷に絡みつきました。彼女が悲鳴を上げ、逃れる間もなく、鎖は抗いようのない力で彼女の体をバルコニーの外へと引きずり出し、激しく波打つ夜の海の奥底、光の届かぬ奈落へと、凄まじい速さで引きずり落としていきました。


「どうして……どうしてこんなことに! 私は間違ったことなどしていない! あの女の邪悪な真実を暴き、正義を貫こうとしただけなのに!」


霞のように消えていく意識の中で、セレーネはただ、自分が嵌まった罠の深さに気づかぬまま、暗黒の底へと沈んでいきました。


暗く冷たい海中に没しながら、セレーネは必死に声を上げようともがきましたが、無慈悲な海水が彼女の喉を塞ぎ、気泡となって消えていくだけでした。腕に食い込む鉄の鎖は、彼女がこれまで背負ってきた罪の重さを体現するかのように、容赦なく彼女を光の届かぬ深淵へと引きずり込んでゆきます。

薄れゆく意識の中で、彼女が最後に見たのは、自分が憧れ、愛した地上の世界が、揺らめく水面のはるか彼方へと遠ざかっていく絶望的な光景でした。

それと入れ替わるように、海底の泥の中から、銀色の泡を伴って一人の女性が優雅に浮上してきました。それは、数刻前まで深海の牢獄で老いさらばえていた、あの忌まわしき魔女コーラルの姿でした。


彼女の姿は、もはや死灰の色をした老婆ではありませんでした。

かつての瑞々しい薔薇色の輝きを取り戻した髪は、潮の流れに乗って深紅のカーテンのように長くたなびき、その肌に並ぶ鱗は、最高級の漆黒の宝石のように艶やかに光り輝いています。脇腹には、かつての裏切りの象徴である痛々しい古傷が白く残っていましたが、セレーネの姉たちの若き生命力と、セレーネ自身から呪いのナイフを通じて吸い上げた濃厚な「海の加護」を貪ったことで、彼女は全盛期の美しさを完全に、そして不気味なほど完璧に再生させていました。


『ああ、この感覚……。自由よ。数十年ぶりに浴びる月の光、この肺を満たす冷たい水の感触。私はついに、地獄の底から這い上がってきたわ!』


コーラルが歓喜に満ちた勝利の歌声を上げ、自由を謳歌しようとしたその瞬間でした。海面を爆発させるような凄まじい衝撃と共に、背後から海そのものが激怒したかのような、怒号に満ちた声が響き渡りました。


「貴様、我が愛しき娘、セレーネをどこへやった! その汚れた手で何をしたのだ!」


凄まじい水圧を伴って現れたのは、黄金の冠を戴き、巨大な三叉槍、トライデントを構えた海の王トリトーンでした。

かつての婚約者であり、自らが奈落へと葬り去った女性の、変わり果てた、しかし記憶の底に刻み込まれたかつての面影を宿す姿を目にし、彼の顔には困惑と、それ以上に激しい殺意が入り混じった歪な表情が浮かびました。

コーラルは怯むことなく、むしろ獲物を待っていた蜘蛛のような優雅さで身を翻し、薄紅色の唇に冷酷な笑みを浮かべて彼を見つめ返しました。


『アトラス。いえ、今は偉大なる王、トリトーン様と呼ぶべきかしら。貴方の愛しい、甘やかされたお姫様なら、人化の薬を使用した禁忌の罪と、自らの欲望のために罪なき人間を傷つけた報いによって、私の代わりにあの暗く寂しい海溝の底に繋がれているわ。

彼女は誰に強制されるでもなく、自らの醜い執着によって、深淵に落ちることを自ら選んだのよ。因果応報だと思わない?』


最愛の娘が封印されたという事実に、トリトーンは理性を失い、吠えるようにトライデントを突き出しました。しかし、コーラルはそれを嘲笑うかのように、懐から一つの小さな瓶を差し出し、挑発的な眼差しを向けました。


『落ち着きなさいな、王様。ここに入っているのは、私が長い年月をかけて完成させた、魂を入れ替える「身代わりの薬」よ。

この薬に、セレーネの身代わりとなりうる血縁の者の血を溶かし込み、その者の体に振りかければ、その者は罪を肩代わりして封印され、その高潔な献身によって娘は呪縛から解き放たれる。

まあ、王位と権力のためにかつての愛を平気で踏みにじった貴方に、娘一人のために命を捨てるほどの献身も勇気も、残っているはずはないでしょうけれど』


コーラルは、まるで背中を見せて立ち去るかのように無防備な仕草で泳ぎ出しましたが、その瞳の奥には、すべてを見透かしたような冷徹な光が宿っていました。そして、トリトーンはその挑発に、あまりにも鮮やかに、そして無様に嵌まり込みました。


「黙れ! 犠牲になるのはお前だ! 再びあの牢獄の中で、今度こそ永遠に朽ち果ててゆけ!」


トリトーンは咆哮と共に、コーラルの無防備な背中、それも脇腹にあるあの古傷を正確に狙って、海神の力を宿したトライデントを深々と突き刺しました。

鮮紅の血が、煙のように冷たい海水へと急速に広がっていきます。彼はコーラルの苦悶の表情に満足することさえなく、その溢れ出た血を素早く小瓶の中に受け止めました。

紫色の禍々しい色調へと変色したその薬を、彼は自らの娘への愛情よりも、魔女を排除し自らの正義を証明したいという醜い独占欲に突き動かされ、勝利を確信しながら、悶絶するコーラルの体に一気に浴びせかけました。


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