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人形姫 -海溝の魔女-  作者: コーラル
1/11

01

天から降り注ぐ月光は、冷たく透き通った銀色の帯となって海面を滑り、波頭が砕けるたびに砕け散った真珠のような飛沫を夜の帳に撒き散らしていました。


切り立った岸壁の影、湿った岩の隙間に身を潜めるセレーネの瞳には、その美しい夜景さえも、手の届かない別世界の象徴として映っていました。

彼女の黒髪は、波に揺れるたびに海中の闇を吸い込んで重くたなびき、その隙間から覗く金の彩彩は、焦がれるような熱を帯びて高台の城へと注がれています。


彼女の腰から下に連なる青い鱗は、深海の静寂を裏切るように鮮やかな輝きを放ち、まるで陸の人間たちが仰ぎ見る昼間の晴天を、そのまま自身の体に閉じ込めたかのようでした。

岩肌に指先をかけ、鋭い爪が石を削り微かな音を立てるのを、彼女は荒い呼吸と共に噛み締めます。


城の最上階、夜の風が吹き抜けるバルコニーの重い扉が、音もなく静かに開かれました。

現れたのは、セレーネが幾夜も眠れぬ夜を重ね、幻視し続けてきた主、その人でした。若き王子の端正な横顔は、月の光を浴びて、熟練の職人が精魂込めて磨き上げた白磁の彫像のように滑らかに浮かび上がっています。


しかし、その額のなだらかな曲線には、若さに不釣り合いな苦悩の影が濃く落ち、眉間に刻まれた深い皺が、彼が背負う責任の重さを物語っていました。

彼は手すりに力なく腕を預け、ただ一点、海と空が溶け合う遠い水平線を見つめています。

その瞳の奥には、出口のない迷宮に迷い込んだ者のような、底知れぬ孤独と愁いが淀んでいました。

彼が静かに吐き出したため息は、冷え切った夜の空気に白く混じり、束の間、彼の唇の震えを視覚化しては消えていきました。


「ああ、王子様。あなたの憂いを癒してさし上げられたら。その凍てついた心を、私の腕の中で温めて差し上げられたのに」


セレーネは、切なさに胸がはち切れんばかりになりながら、誰に届くともない祈りのような声を漏らしました。

そのささやきは、無情に打ち寄せる波の轟音にかき消され、王子の耳に届くどころか、空中に溶ける暇さえ与えられません。

彼女はもどかしさに耐えかね、水面下で力強く尾びれをしならせました。打ち付けられた飛沫が彼女の頬を濡らしますが、それが海の雫なのか、彼女の目から溢れた涙なのか、もはや判別はつきませんでした。


自由に泳ぎ回れるはずのこの青い尾が、今は自分を愛しい人のもとから隔てる、呪わしい鎖のように感じられてなりません。

彼が悲しみの淵に立たされているその瞬間に、隣へ歩み寄ってその震える肩を抱きしめることさえ叶わないという事実が、彼女の心に氷のような冷たさで染み渡っていきました。


『地上に行きたい』


その瞬間、耳の奥からではなく、魂の最も深い裂け目から、抗いようのない熱い衝撃が突き上げてきました。

それは単なる夢想や幼い好奇心といった生ぬるいものではなく、自らの存在そのものを否定してでも成し遂げたい、あまりに切実な飢餓感でした。

彼女は岩場をさらに強く鷲掴みにし、岩の角が柔らかい腹部や指先を傷つけ、そこから滲む赤い血が冷たい海水に混じるのも気づかないほど、身を乗り出しました。

視界の端で揺れる海面が、彼女を引き止める牢獄の鉄格子のようにも見えました。


『あの方に愛され共に暮らしたい』


頭蓋の中で幾重にも反響し、増幅されるその言葉は、セレーネの理性を焼き尽くす烈火となって広がっていきました。

かつて自慢だった大理石の輝きを放つ宮殿の回廊も、父王から授かった宝石の数々も、今や彼女の瞳には色あせた瓦礫のようにしか映りません。


彼女が求めているのは、濡れた冷たい岩ではなく、あの方の足元に広がる乾いた大地の温もりでした。

バルコニーで独り、夜風にさらされる王子の背中を見つめる彼女の視線は、執着と情熱によって、夜の冷気さえも焼き切るような鋭さを帯びていきます。

足元の波が彼女の体を何度も海へと引き戻そうと執拗に打ち寄せますが、彼女の意識はすでに海を離れていました。

二つの足でしっかりと大地を踏みしめ、重力さえも味方につけて愛する人のもとへ駆け寄る、自分自身の眩い姿を、彼女は痛みを感じるほどの鮮明さで空想し続けていました。


太陽の恩恵を拒絶し、永遠の静寂が支配する深海。

そこは、降り注ぐ光さえも重苦しい水圧に押し潰され、奈落の底へと溶けていく場所でした。

周囲にはかつて海を蹂躙したであろう巨大な海蛇の白骨が、あたかも不浄な聖域を守る肋骨の檻のようにそびえ立ち、その中心に置かれた古びた祭壇の前で、魔女コーラルは幽霊のように揺らめく水鏡を見つめていました。

鏡面には、はるか遠い海面で柔らかな月光に包まれるセレーネと王子の姿が、蜃気楼のように儚く、それでいて残酷なほど鮮明に映し出されています。


かつては国中の人魚たちがその美しさに溜息をつき、海の至宝とまで謳われたコーラルの美貌は、今や見る影もありません。

濁った海水に漂う長く伸びた白髪は、生気を失った死んだ海藻のように力なく広がり、陶器のようだった肌に刻まれた無数の深い皺は、彼女がこの闇の中で積み重ねてきた呪詛と、消えることのない憎悪の歳月を克明に物語っていました。

かつてバラ色に輝き、若さの象徴であった髪は、枯れ果てた糸のように白く、しなやかな肢体を守っていたはずの濡烏色の鱗は、光を吸い込む死の灰のような灰色へと変色し、剥がれ落ちるのを待つばかりの惨めな姿を晒しています。


彼女の細く、流木のように枯れ果てた腕には、重々しい鉄の手かせが食い込んでおり、彼女がわずかに身じろぎをするたびに、冷たい鎖の音が重低音となって奈落に鈍く響き渡ります。

それは、かつて彼女が犯したとされる罪に対する、決して許されることのない仕置きの証でした。

そして、無造作に晒された脇腹に走る、巨大な古傷が時折焼けるように疼くたびに、彼女の濁った瞳の奥には暗い業火が宿ります。


彼女は震える指先をゆっくりと伸ばし、水鏡に映る王子の端正な顔を愛おしむようになぞりましたが、次の瞬間、その指に力を込め、鋭い爪を立てて鏡面をかき乱しました。波紋によって歪む王子の顔を、彼女は歪んだ愉悦を持って見つめます。


「あどけない夢を見るがいいわ、小さな人魚。その無垢な恋心が、いつか自分自身と、愛する男のすべてを焼き尽くす火種になるとも知らずに」


コーラルは、喉の奥にこびりついた砂を吐き出すような、しわがれた低い声で独り言ちました。

その瞳は、恋の熱に浮かされるセレーネへの冷徹な嘲笑と、かつて自分を排斥した世界そのものへの、海よりも深い怨嗟で満たされていました。

彼女は、もはや見る価値もないとばかりに鏡から視線を逸らし、ゆっくりと重厚な祭壇に向き直りました。細く節くれ立った指先に、自身の魂を削り出すかのような魔力を凝縮させていきます。


『渇き、ひび割れ、全ての作物は枯れ果てろ。』


何十年経とうとも消えることのない、マグマのように煮え繰り返る怒りと恨みが、重苦しい呪詛となって深海の底に沈殿していきます。

彼女が指を複雑に振るうたびに、祭壇からは墨汁を垂らしたような黒い澱みのような魔力が立ち上がり、それは底流となって静かに、しかし確実に地上の王国へと向かって這い出していきました。

それはあたかも一人の少女が地上を想い、その胸を高鳴らせるのと呼応するように、タイミングを合わせてコーラルの呪いはその勢いを増していきます。

王子の治める国では、とうとう川の水がわずかに細り、瑞々しかった若葉が、病に侵されたかのように不自然に黄色く変色し始めていました。

彼女の邪悪な魔力は、無垢なセレーネの憧れを皮肉な餌として、じわじわと地上の王国を救いのない絶望の淵へと追い詰めていくのでした。


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