第一玄義:正義2
アイテスと彼ら白の民にとっての「外」とは、言わずもがな白の民以外が住まう『穢土』のことではない。彼らに与えられた限りなく潔癖な巨大集合住宅『施設』の内部のことである。そこから一歩でも足を踏み出すことを、アイテスは夢にも思わないし、また、大概の白の民がそうであることは言うまでもない。
取り急ぎ彼らの感性を共有したところで、アイテスは外に出て、石製の腰掛けに座り込んで思い悩んでいた。
先ほどのノゼンダの反応がどうにも気になる。ぼんやりしていたにしても、具合が悪いにしても、アイテスから逃げるというのは違和感のある行動である。
周囲を施設に囲まれた先にある、果てしなく続く空は深い青色をしている。時折建物が作る地平線の外から訪れる白い雲が、心地よい青色に吸い込まれていく様はたいそう縁起がいい。アイテスは祈り石をしっかと掴み、心地よい青空に向かって漂う雲に自らを投影して祈りを捧げる。しばらくそうしているうちに、雲は彼の頭上をゆっくりと通り過ぎていく。
その際、僅かな雲が分離して空の上で霧散していく様を目にして、アイテスは残念そうに表情を曇らせた。
「あ・・・居残りだ・・・」
考えても仕方がないと思い直し、かぶりを振った彼は祈り石を掴んだまま椅子から立ち上がり、自分の住居へ戻ろうと歩き出した。
外から学士区居住棟へと入ると、彼は規則通りに受付に向けて挨拶をする。挨拶を受けた管理人は、ヴェールをふわりと風に浮かばせて振り返ると、アイテスに微笑みかけてペンと入棟簿を差し出した。アイテスはペンを取る前に自らの学生証を取り出し、管理人に示して、それを受付に置くと、ようやくペンを手に取り名簿にサインを残した。
「お帰り」
「はい、ただいま帰りました」
「ちょっと嫌なことがあったの?」
「うぅん、嫌と言いますか、違和感があることと言いますか・・・」
名前を書く間にアイテスはノゼンダの名前を伏せて管理人に相談をする。管理人は柔和な微笑みで彼の話を聞き、入棟簿を回収すると、彼の部屋の鍵を渡しながら答える。
「お友達も年頃なのだから、隠し事の一つや二つあるでしょう。気長に話してくれるのを待つというのもありますよ」
「はぁ」
管理人から鍵を受け取ると、それを祈り石のネックレスに取りつけ、アイテスは丁寧に祈りの仕草を管理人に送った。祈り石を優しく握り、空返事に続けて祝福の祝詞を唱えるのである。すると、管理人は有難そうに頭を下げ、両手を旋毛より上に持ち上げて、大きな盃でも拝領するように祈りを受け取る。
一連の決められた所作を終えると、アイテスはその爽やかな微笑みを管理人に向け、控え目に手を振った。廊下の奥へと向かって行く、眩いほどの愛らしさ、また美しい白い太腿を見届けると、管理人は満足げに息を漏らし、受付の奥へと戻っていく。彼女の作業机の上には、大量の毛糸と棒針が置かれている。それを早速手に取ると、彼女はせっせと編み物を再開した。
一方、アイテスは多くの学士の中でも極めて出入り口に近い位置にある自室の扉を開けた。扉を開けるなり、二段ベッドに囲まれた狭い部屋が彼の前に現れる。ほとんど通路と言ってよい部屋の突き当たりには小さな共用棚があり、その手前に背の低い小さな円卓がある。4つのベッドの壁面には制服を掛けるためのごく簡素なフックがあり、アイテスは右手のベッドの上段へと昇り、制服の上着を自らのフックに掛けた。
そのまま彼が向かいのベッドを見て、恒例となっているため息を一つこぼす。
「もぉー、グッズゥ・・・」
向かいのベッドにはグッズの体格よりも大きめに作られた制服、しかもズボンと上着全てを、そのままベッドの上に捨てるように放り出してある。彼は改めてベッドから降り、向かいのベッドに上ると、グッズの制服を彼専用のフックに掛けてやる。ズボンの裾にあるくっきりとした折り跡に至るまで、アイテスには耐え難いものであったが、しかし、グッズの身長を思えば大きめの制服の裾を折るのは致し方ない事であった。アイテスは平らな壁を利用して折り跡を丁寧に指で伸ばしてから、改めて自分のベッドの上へと登った。
ヘッドボードの上に本立てを利用して規則正しく整頓された教書から、本日の宿題を取り出す。10分ほどで課題を終えてしまうと、彼は第四科を除く講義の復習を1科目20分、一時間きっかり行い、教書をしまった。翌日の講義を予習し始めた。
連日行われる第一科・神学は、今日の続きと、次の新嘗祭の儀式作法。第二科は文学と数学が交互に行われるので、次回は文学。第三科は神学に並ぶ重要科目である、天文学と修辞学、本日は修辞学であったので、翌日は天文学。第四科は選択制で、音楽、絵画、裁縫、調理と工学。アイテスは工学を選択している。
アイテスは連日この予習に一等力を入れている。復習も当然行うが、予習こそが彼にとっての肝である。何故なら、講義内容の深度が一層深まるように感じるからだ。予習には科目ごとの時間をさらに十分、追加でかけ、不明点を洗い出すのである。
彼がこうした予習を行っている間に、同室に住むグッズが戻ってくる。乱雑に扉を開け放ち、共有部分である狭いスペースの中に鞄を放り込むと、彼は陽気な声を上げた。
「たっだいまー!」
「もうちょっと静かにしてよ」
しょぼくれた目で瞬きをし、アイテスはベッドの下を覗く。グッズの放った鞄は見事に円卓の上に乗せられており、当人は目を輝かせて自慢げに鼻を鳴らす。アイテスの大きなため息が部屋中に響き渡った。
真横にある小さな窓からは西日が射しており、日の周りを除けばすでに闇の帳がかかっているらしい。アイテスは第三科の予習を終え、梯子を下りて行った。
グッズの鞄の具合を確認し、自慢げなグッズに冷淡な声で問いかける。
「門限には間に合ったね」
「完璧!」
「机と鞄の中身が壊れるから投げないでね」
「考えとく!!」
「・・・それは昨日聞いたよ」
丁寧に鞄や机の様子を確認した後、アイテスの手はグッズの肩に回された。無防備なグッズの肩はアイテスの近くに引き寄せられる。じゃれ合いと思ってけらけらと笑うグッズの耳元に、アイテスは出し得る限りの低い声で囁いた。
「次やったら寮長呼ぶからね・・・」
グッズの体から血の気が引く。すっかり冷え切った体を丸めて、「ぁぃ」と声にならない声を返すと、肩に回された手がぽん、と旋毛の上に置かれる。
「夕飯までに宿題終わらせて」
「えぇー」
唇を尖らせるグッズに、刺すような視線が襲い掛かる。彼はぎこちない動きでベッドの上へと向かうと、翌日の教書を取って再び円卓へと降りてきた。
彼にとっての、長い、長い勉強時間の始まりである。
一問目に視線を合わせたかと思えば、目を潤ませて、円卓の傍で仁王立ちするアイテスを見上げる。その零れ落ちそうな大きな目に一杯に溜まった涙に一度は目を逸らしたアイテスだったが、懇願の籠った視線にすっかり胸を射抜かれて、唸り声を上げて円卓の前に胡坐をかいた。
「・・・あぁ、もう!どれ!」
「全部・・・」
アイテスは渋々教鞭をとり、ほとんど答えと言ってよい部分まですっかり解説をした。ある時は懐から取り出したペンでヒントを指し示し、ある時は問題そのものを何度も唱和しながら、グッズの間違いを指摘した。
そして、夕飯の時間までに宿題を終えたのだが、二人は兄弟のように同時に大きく背伸びをした。
「「終わったぁ・・・!」」
グッズは苦行の終わりに安堵し、アイテスはどっと押し寄せた疲労に体を解した。
そして、学士区域の時計塔が二人を呼ぶや否や、二人は慌てて食堂へ向かって走り出した。グッズが先行し、アイテスは彼を叱りながら鍵を閉める。そして、彼に遅れて狭い廊下を駆け抜けて、食堂に着いた時にはすでに学士が一堂に会していた。
二人は向かい合った席に座ると、同時に机に突っ伏し、「間に合ったぁ・・・!」と安どの声をこぼす。寮長が二人の名前を呼ぶと、エプロンを身に着けたノゼンダがグッズの脇に入ってお盆に乗った食事を配膳する。
まずは手前のグッズに「ごめんね」と一つ呟いて、顔の横にスライドさせるように食事を置く。食欲をそそる良い匂いを嗅ぎ、グッズは先程の拾う具合が嘘のように顔を起こした。
そして、彼はアイテスに視線を合わせずに、丁寧に料理を配膳する。アイテスがお礼を返すと、彼ははにかみがちに微笑んだかと思うと、やはりその場から逃げるように立ち去った。彼が寮長の隣に戻ると、一同は身に着けた祈り石をしっかり握りしめ、祈りの口上を唱える。
学士たちにとっては程よく食欲をそそる料理を前にしてするこの時間は苦痛極まりないものであるが、少しでも心を乱せば食事から遠ざかると、皆一様に心を合わせて祝詞を唱える。その一種異様にも見える様は、言い換えれば神秘的と言えるかもしれないが、それはやはり食事とは元来儀式的なものであるということを暗に示しているだろう。
そして、寮長の合図と共に、学生達が一斉に食器を取り、貪り食らう。食堂に充満する極上の料理の混ざり合うにおいと、温かい湯気、そしてそれに当てられて流す汗から生じる異様な熱気は、この聖域において最も野蛮な欲望に満ちている。さながら競い合うように食事を口へと運ぶ御子たちの有様は、それほど意欲的で、また精力的である。
とはいえ、それが全ての御子の姿勢でないことは事実であり、例えばこれは非常に損な役回りと言えるが、給仕係であるノゼンダなどは、食堂の隅に控えて、食事を掻き込む学士達の間を忙しく回って、すぐに空になる水を注いで回る。ゆったりと歩きつつも、席と席の間に入っては素早く水を注ぐのである。
そのような特殊な例でなくても、例えば祈りの口上が作る儀式的な厳かさに任せたまま、優雅に食事をする御子もいる。それは例えばアイテスなどであり、純朴な彼が貪るように食事をすることはない。丁寧に食器を手に取り、行儀よく、またテンポよく食事を口に運んでいく。口の中でさえ階級を気にする彼は、先ずはパンを、そしてオレンジを食べ、次に口直しに水を飲んでから野菜を食べる。そして、これは彼にとっては至福の時であるのだが、青々とした鯖を食べる。この色は非常に高貴な食料であることを示すが、それはアイテスにとっても喜ばしい事である。白の民として、『青』魚を口にすることは名誉なことであるからだ。
もっとも、そう意図を理解するには、御子達は若すぎる訳であるが。
調理時間に対して非常に短い20分ほどの間に、ほとんどの学生が綺麗に食事を平らげてしまう。心地よい汗を拭い、コップを口に運びながら談笑をする学生達の間を、梯子するようにノゼンダが水を注いで回る。
アイテスは周囲から少し遅れて、音を立てずに食器を盆の上に置く。口を拭い、水を口の中に含むと、少しの間舌で歯間に挟まった食事などを取り除く。満足がいくとそのまま水を飲み込み、ふっ、と半笑いのような吐息をこぼして椅子に深く腰掛けた。
食事を終えた御子達が続々と退席を始める中、アイテスは一人祈り石を握り、祈りの口上をしっかと唱える。その声は雑踏に混ざって周囲には聞き取れなかったが、寮母が感心した風に頷きながらそれを見守っていた。
アイテスが祈りを終えるのとほぼ同時に、ノゼンダは食器の片づけをはじめる。テーブルの上に「散乱」した食器を盆の上で重ねて回収しては、席1つごとに食器を流し台へと置く。学士区にある一つの居住棟の人数分の食器を纏めて洗うのは相当な労力であるが、これを寮母と管理人、そして清掃員と成人した女性の聖職者たち(すなわち、講師と、学士区の管理に携わらない全ての女性たち)が共同で行っている。その間に、食器の片づけや机の拭き掃除、ごみ拾い、床掃除などをノゼンダが行っている。
食器の片づけが終わると、女性たちが次々とノゼンダの手伝いにやってくる。みなこの純朴な少年がかわいくて仕方がないという様子で、ちょっと小突いて弄ってみたり、掃除のすれ違い際に頭を撫でてみたりと色々なちょっかいを出す。ノゼンダはそのたびに素朴な反応を繰り出し、それがかえって面白いのか、女性たちは勢いづいて彼を弄って笑う。
アイテスは席を立ち、しばらくその様子を眺めていたのだが、やがて仕事の邪魔をしてはならないと思い直し、素早く棟内にある小さな共有スペースへと向かった。
共有スペースにはやかんと小さな暖炉があり、四人掛けの机と椅子がある。食後の雑踏が済むとだいたいここに学生が数名屯して、カード遊びや談笑などをしているのだが、アイテスはその様子を覗き込んでは、寮の規則違反がないこと、つまりは学生達がみだりに棟を出ないこと、また、遊びに節制が重んじられていること、外域、つまりは穢土に向く窓などから顔を乗り出して、穢れを体に受けることのないことを確認して回る。
これはアイテスにとっては重要な日課である。仲間達から白の民としての不適格者が出ないこと、また出た場合に即座に罰を与え、穢土へと追放すること。そうすることで青の民の導きを受ける者を少しでも残すことこそ、アイテスにとっての最重要事項であったからだ。
きわめて品行方正なアイテスの行動を知ってか知らずか、学生達は談合に熱中している。これは幸いなことに、彼らの思考には、そもそも「窓の外を覗き見る」という考えがすっかり抜け落ちていた。
それをアイテスは喜ばしいことと思った。各階にあるこうした小さな共有スペースを回り、穢れに触れる者のないことを確かめたアイテスは、ようやく自室へと戻り、中断されてしまった予習の続きをしようとする。
グッズをはじめ、彼の同室人三人がすでに円卓を囲んで、厚紙を一定の大きさに切ったものに、何かを描き込んでいる。アイテスが不思議に思って覗き込むと、その紙には手書きの下手な怪物や戦士の絵、聖職者が盃を持つ絵などが描かれ、その上部には名前らしき文字列、下部にはいくつかの数字と、意味ありげな言葉の羅列が書かれていた。
「なに、それ?」
「新しいカードゲーム考えてるんだよ。戦わせて優劣を競うんだ。部屋のみんなで案を出し合って、俺達で作った山札で他の部屋の作った山札と戦うんだよ」
「ふーん・・・」
グッズの説明にいまいち想像力が追いつかないアイテスは、生返事を返して梯子に手をかけた。すると、グッズがアイテスの肩に全体重をかけて圧し掛かってくる。
「ぉぉ・・・!」
グッズは小柄だが、アイテスよりわずかに背が高く、体重は細身ながら比較的重い。庭遊びが好きなだけあって、小柄な体の中に健康な代謝の素が綺麗に納まっているのであるから、ある種当然と言える。グッズはアイテスが自分よりいくらか非力なことを分かっていて、肩に顎を乗せ、無邪気に笑いながら耳元で姦しい声を掛けた。
「アイテスならすごい強い作戦を考えつくんじゃないか!!特殊効果作りを手伝ってくれよ!」
「ごめん、明日の予習が途中だから・・・」
何とか梯子を登ろうとするアイテスだったが、グッズはごねて勢いよく左右に揺れる。このままでは手を離して二人とも頭を打ちかねないと思ったアイテスは、観念してゆっくりと梯子に掛けた脚を床に下ろした。
グッズが円卓へと戻って、アイテスを手招きする。グッズの無邪気な笑顔と比べれば、幾らかは大人びたほかの二人の同室人も期待の眼差しで待っている。アイテスは不満に思いつつも、円卓の前へと座りこんだ。
カードの内容は実に多様である。「纏まりがない」と言っても良い。アイテスはコストに見合った効果や能力の目安となる、点数表を片手に、散りばめられたカード群を眺めた。
本筋とはまるで関係のない話ではあるので、仔細なことは省略しなければならないが、アイテスが出した案は実にシンプルなものであった。散らばっているカード群が高いコストで性能の向上にばかり関心が向いているので、『序盤から支払うコストを貯める軽量なコストのカード群を作って高コストのカードを早期に出す』山札としてまとめるか、やたら点数表で評価の低い『山札からカードを引く効果』でリソースを確保して、相手の消耗をじっくり待つ堅牢なカード群で山札を纏めるかである。三人の同室人は前者を選んだが、アイテスは後者の方が安定して強いだろうと勝手に考えていた。
ともかく、アイデアだけを出したらさっさとベッドに登ってしまったアイテスは、子供らしく盛り上がる同室人たちの声を耳栓で留め、予習の続きを始めた。
殊の外盛り上がるカードづくりは、耳栓越しでもしっかりとアイテスの耳に届いてくる。さすがの彼も集中力を乱され、騒々しい声が止んだかと思えば、あたりには夜の帳が下ろされていた。
耳栓をようやく外し、柄にもなくため息などをこぼすアイテスは、ベッドから円卓を見おろす。グッズが机に突っ伏して眠りこけ、同室人は下のベッドで仮眠を取るつもりでそのまま眠ってしまったらしい。円卓の上にはきっちり手書きのカードが散乱していた。
眉間を押さえ、目を労いながら、再び小さなため息をこぼす。ベッドから降りていき、纏まった札がどうやら山札と決まったらしいと見るや、彼はその周辺にある選外となったカードたちを纏めて円卓の隅に置く。山札らしき方は厚紙の入っていたらしい箱にまとめて、壁際の共用棚の上へと置く。筆記用具はきちんとペン先を拭い取り、インクの蓋もして、グッズの手が届かない彼の鞄の中へと入れた。
そうして、円卓の上にはグッズと僅かなカードだけが取り残され、概ね元の状態へともどった。アイテスは満足げ鼻を鳴らすと、最後に、向かいのベッドの梯子を登り、毛布を持ってグッズの肩に掛けてやった。
グッズの口が俄かに動く。気だるげな欠伸と、少しの涎がこぼれた。
最後にアイテスが気に留めたのが窓から差し込む月光である。月光はちょうど円卓の辺りに差し込んでおり、グッズの顔には光がかかっている。彼はカーテンを閉めようと窓際へと向かった。
明月は淡い群青の空を低姿勢で渡り、散りばめられた星々が月に道を譲る。外界と接する学士棟の部屋からは、小さな建物がひしめく工場や、異国から渡航した者たちが羽を伸ばす宿場町の小さな明かり、また市場の閑散としたさまなどが見渡せる。彼ら白の民のが生きる施設の直下にあり、月に最も近いのが農民の住まう田園風景で、多くの田畑が『より強い穢』を纏った外界の町並みから白の民を隔てるように連なっている。目にも優しい緑の園はアイテスの目にも心地よく映り、月光の下に在っては仄暗く妖しく騒めいていた。
さて、そんな風景を遮ろうとカーテンに手をかけた折、アイテスは寮の窓が一つ開け放たれているのを見つけた。その『異常性』に全身に鳥肌が立ったアイテスは、思わず目を凝らして窓の方を凝視する。次の瞬間、アイテスは驚くべきものを目にしたのである。
人が、窓からわずかに身を乗り出して見えたのである。アイテスは自らの全身に鳥肌が立っただけでなく、冷たい感覚が背筋をすっかり突き抜けていくのを感じた。
悍ましさに声も出せなかった。学士の中に、『穢土』に触れたものがいるなど。看過し難い、筆舌に尽くし難いことこの上ない。
アイテスは動揺して後退りし、円卓に思い切り足をぶつける。バランスを崩して円卓の上に倒れ込むと、凄まじい音と共に外界の緑のようなカードたちが周囲に舞い散った。
脂汗で濡れた背中がべっとりとアイテスの衣服に纏わりつく。心臓が危機を感知して激しく猛り、眠気でしょぼくれた視界が一気に開かれたようだった。
彼は再び窓に駆け寄る。両手と額を狭いガラスに貼り付けて、その光景を確かめようとする。
あってはならないことである。穢れに触れて、祭儀に携わることなど。あってはならぬことである。潔白な白の民の中に、穢を運ばんとする者があることなど。
彼の恐怖と絶望は身を切る覚悟と迸る正義感へと置き換わった。全ての覚悟で穢れを取り払わなければならない。その穢れとは、確かめれば・・・。
男性にしては長く伸ばした襟足、はっとするような綺麗な金髪、藍の光を湛える純朴で大きな瞳。窓の桟に手をかけた華奢な指先は、体に不釣り合いな大きな制服の袖からほんの僅かに覗いている。
闇の中にあってなお、アイテスは『それ』のことを知っていたが、殆ど信じがたいことで、かえって動揺と深い絶望とに心を苛まれた。
とても信じがたいことであるが、学友ノゼンダが、穢土に触れてしまったのではないか。アイテスはそのような結論に至った。同時に、強烈な懊悩に見舞われたのである。
ノゼンダらしき少年は何食わぬ顔で窓を閉ざした。あろうことか穢を纏ったまま白の民の居住区に入ってしまった。
「はっ、はぁっ、はぁ・・・。うぇ、おぇぇぇ・・・!」
アイテスは口を押え、強烈な吐き気からえづき始めた。迸る汗が顎を伝い零れ、舞い散ったカードに雫が落ちる。彼は耐えかねて部屋を飛び出し、深夜の光のない廊下を駆け抜けて、洗面桶の置かれた流し台へと向かった。
ずっと口の中で堪えていたものを吐き出す。目尻から涙がはらりと零れ落ちた。荒い呼吸を繰り返し、口を濯ぐ。顔を持ち上げると、血走った目が、開き切った瞳孔が、激しく揺らいでいた。
口の中の苦みを取り除くと、徐々に鮮明になる思考が、ようやく彼に為すべきことを伝える。
「まず、まず・・・本人に確認をしよう。罪を認めれば、彼を穢土に追放するだけで済む。認めなければきっと僕の見間違いさ。そうだ、きっと、大丈夫、だ・・・。」
そう言い聞かせても、闇の中で見た光景は彼の脳裏にしっかりと焼き付いてしまっていた。わずかな身体的特徴だけで、彼を追放するのは時期尚早だ、そう動揺する自分に言い聞かせて、彼は自室へと戻った。
室内は静まり返っていた。整えたばかりのカードが彼方此方に散乱している。彼は「そうだ・・・整理・・・」と、鈍重な動きでカードを拾い集め始めた。
グッズの寝息が聞こえる。心臓の鼓動が少しずつ落ち着き、口の中の酸味が引いていく。纏めたカードを円卓の隅に置くと、彼は大きな深呼吸の後、ベッドの梯子を登った。




