第一玄義:正義1
穢れ一つない白壁に囲まれた施設の学区棟には、白の民の御子らが集められて、その講義に聞き入っていた。
皆一様に透き通るような肌の色をして、また一様に澄んだ目をしている。それを穢に染まらぬように黒いローブを着て、女は黒のヴェールでさらに潔癖を守った。男は黒衣のローブの下に、穢から清浄を守らんとするかかとまで隠す黒の下衣か、あるいは清浄を示して祈りを担うために与えられた、透き通る肌の色を晒した黒い下衣、それも極めて丈の短いものを着ていた。
また、それぞれ服飾のいずれかに、水色に輝くターコイズを身に着けている。それらは幻想的な庭園が広がる採光窓から差し込む日の光を受けて、各々が眩いばかりの輝きを映していた。
その装いはまさしく清浄な白の民を守るに相応しく、御子らは行儀良く澄んだ目を講師に向けている。その眩さたるや、どうにも言い表しようもない。
彼らの視線は教壇に立つ講師へ向かっている。講師というのも、黒い修道服に黒のヴェールを被った妙齢の女性で、彼女の片耳ではターコイズのイヤリングが荘厳な佇まいで瞬いている。しかし髪は完全に隠してはおらず、それは聖職者でない女の証であった。
講師は青星のメダイを唱え終わると、手に持つ分厚い教書を音を立てて閉じ、ゆっくりと教壇の上を歩きながら言葉を繋げた。
「・・・という訳であります。それでは該当部分の解釈を・・・アイテスくん、お願いします」
端正な風貌の少年少女の中でも一際に整った容貌の少年が、立ち上がる。少し癖のある髪は左に流し、見事な藍眼は人を引きつける不思議な魅力がある。何より、程よく肉のついた健康的な脚部を外気に晒す様は言いようがないほど美しく、天人もかくやといった様相である。
アイテスははきはきと返事をすると、余裕のある表情で講師の目を見つめ、声変わり前の高い声で答えた。
「青星のメダイは我々白の民にとって重要な基礎経典であり、現在の信仰成立の黎明を記した教典であります。開祖老パオニアが信仰の箱を発見し、箱に描かれた秘法を世に知らしめたことにより、我々の先祖は行動規範を改め、やがて恒久の平安を約束されることとなりました」
アイテスが答えると、講師は満足そうに何度も頷き、余韻を噛み締めるように目を閉じた。そして、彼女は優しい声音で問い直す。
「では、該当部分から示される、我々の役割は?」
「はい。白の民である我々の役割は、いまだ行動規範を改めることのできない人々を導き、白の民へと招き入れることです。そして、役割を全うした暁には、青の民の導きによって、青の星へと牽き昇らしむことです」
アイテスが一切の滞りなく語りを終えると、講師が満足した様子でその声に酔いしれる。そして、余すことなく余韻を噛み締めた講師は、一同に微笑みかけて称賛を伝えた。
「素晴らしい。アイテスくん、あなたは善き白の民です。皆様の規範となるべく生まれたかのよう。皆様も、彼に盛大な拍手を」
御子らは半ば恒例となった拍手をアイテスへと送った。アイテスははにかみがちに笑い、よそよそしく席に着く。その姿も却って愛らしく、まことに隙のない様子である。
称賛の拍手の中、アイテスは少し低くなった視線の先で、たまたま窓際の席に焦点が向かった。
そこには、大人しそうな少年が座っており、拍手に気づかずにぼんやりと外を眺めていた。成長を見越してか、身長に合わない二回りほど大きい袖と裾を折り曲げて、華奢な体を綺麗に隠している。
アイテスの眼差しが人を魅了する美しさがあるように、この少年の眼差しは純朴で人の心を開くような輝きがある。それが、自分に向かっていないこと、彼にはそのことがわずかに気に掛かったようであった。
その後も、長い講義が続いたが、アイテスの視線は彼に釘付けになった。既に完全に予習済みのあらゆる科目のことよりも、どうにも少年の『上の空』のことが気懸りでならない。
別に苛立っているわけでもないが、彼はどうにも規律に厳しく、講師の指示したことを守らない彼が、本当に青の民に導かれ得るのかと、心の底から彼を心配したのであった。
やがて講義の終了を告げるベルの音が鐘楼から響くと、学生達は姿勢を崩した。
即座に、講師は彼らを諫めて言う。
「はい、皆様。まだですよ。祈り石に手を当てて」
ざわつきながら御子らの手が自らのターコイズへと向かう。アイテスは視線をはじめて机上に落とし、首元に掛けたネックレスをそっと握りしめた。
「青の星へ縋らんと欲す。もっとも尊き青の民よ、その弘誓を以て我らを牽きて昇らし給え」
祝祷の長い静寂の後、講師が「はい」と声を掛けるのと同時に、まずはやんちゃな御子が動き出し、続けて多くの御子らが友人のところへ向かった。
アイテスは座して待つだけで、周りに友人が集まってくる。そして、彼の友人の肩越しに、多くの巫女たちの眼差しが集まった。
「アイテス、やるぅ」
背の低いアイテスよりもほんの僅かに背の高い、短髪の少年が彼にじゃれついてくる。アイテスは苦笑いを浮かべつつも、きわめて穏やかな口調で諫めた。
「はいはい、ありがとうね」
二人の少年は仲睦まじげにじゃれ合いながらも、アイテスは他の友人たちにも気配りを忘れない。彼は弟をあやすようにして少年の頭を撫で、視線を少し持ち上げて、集まってきた友人たちに声を掛けた。
「午後の講義は算術だったね」
「やべ、宿題やってね。アイテスぅ・・・」
「だーめ。ちゃんと自分でやるんだよ。ほら、紙とペン持ってきて」
アイテスは太い教書を片手で器用に開くと、戻ってきた友人にペンの背側で該当の解説部分を示す。
「ほら、ここが問題のヒントだからね。この項目の公式を使ってやれば宿題は全問解けるよ。最後の二問だけ引っ掛け問題だから気をつけてね」
アイテスは片手で少年をあやしながら、丁寧に宿題を教えてやる。どうにもつまらないのか、じゃれつく少年がアイテスの肩に思い切り体重をかけてきた。
「えい、えい!アイテスこっち見ろ!」
「ちょ、重たいって・・・グッズ後でね、後で」
アイテスは困ったように笑う。宿題を解く友人が少年を諫めた。
「おおい、グッズやめとけ。肩痛めるだろ」
グッズと呼ばれた少年は、不服そうに頬を膨らませながら手を離した。ようやく肩の荷が下りたアイテスが姿勢を正したものの、一気に解放されたために、一瞬だけ眩暈がする。それを笑顔でやり過ごすと、彼はようやく両手を使って宿題の手助けを再開することができた。
アイテスの周りに人が集まる中、がらんどうになった窓際の席には、一人の少年が座っていた。椅子も机も微動だにせず、青空の様をぼんやりと眺めている。ただ、無意識のうちに風に靡く髪だけが、そこに同じ空間の共有を感じさせるだけである。
アイテスは友人の肩越しに時折視線を少年に向け、そして、声を掛けられて再びペンを動かす。自分の忙しい指の動きに反して、その少年の周辺だけが時間が止まったように静寂に包まれている。彼がふっ、と一つ息をつくと、これをかき消すように、友人が声を上げた。
「うおぉぉぉ、おわったぁぁぁ!!」
「うっせ!」
「ははは・・・。お疲れ」
手を思い切り持ち上げる友人に、アイテスの視線を阻まれる。大きく伸びをした手からペンを紙の上に放ると、かしゃん、と大きな音を立ててアイテスの机の上をペンが転がっていく。
「物は大事にしなさい!」
小さな体のアイテスが、少しむっとして友人を諫めた。アイテスの周囲に集まった友人が、寮母さんかよ、とケタケタと声を上げて笑った。
それと同時に、甲高いベルの音が響く。「やべっ」という言葉を合図にして、アイテスを囲んでいた喧騒が一気に解き放たれ、慌ただしく自分の席へ戻っていく中、窓際の少年だけが、ただ、その喧騒に髪を靡かせるだけで静寂を保っていた。
少し遅れて講師が教壇に立った時、その場にいる御子達は安堵と共に講師へ対する不服の感情を抱いた。アイテスと窓際の少年を除いて。
「それでは、講義をはじめます。何度でも申し上げますが、算術はあなた方の未来の役割・・・政に必要な知識です。今の役割では不要と感じるとしても、心して学ぶようになさい」
先ほどの講師とは異なり、数学の講師は粛々とそう述べると、厳かに教書を開き、壇上で語り始めた。
アイテスは真面目に講師の所作を追いかけ、公式の解説を聞く。とはいえ、多くの御子が講義に退屈するように、アイテスも講義には退屈を感じている。教団の講師の滔々とした解説は、耳には程よく心地よい眠りを誘う。アイテスが少し視線を動かすと、グッズは舟を漕ぎ、隣の巫女に肘で起こされている。その様子を確かめながら、アイテスは口の端で笑い、視線を講師へと戻した。
講師は変わらずに耳に心地よいリズムを刻みながら、御子らに視線を一切寄越さずに解説を続けている。
メモ用紙の先端が少し捲れているのが気になり、彼はペンを持つ手で肘をつき、文鎮代わりにした。その一瞬の油断を察したかのように、講師は突然振り返った。
「グッズくん。ここは分かるかな」
「・・・へぇ?」
グッズは涎を机上に垂らし、半開きの瞼を持ち上げた。講師と数秒睨み合った後、彼は誤魔化すように笑いかける。教壇からは大きなため息がこぼれた。
「アイテスくん」
「はい。この問題についてはこの公式を用いることで、解くことができると思います。それを利用すると、回答は300と96になります」
講師は表情一つ変えずに、はきはきと答えるアイテスから視線を教書に戻した。
「よろしい。座りなさい」
御子達の中から歓声が上がる。アイテスは少しだけ口角を持ち上げて、そのまま席に着いた。
講師がすぐに解説に戻る。それと同時に御子達の視線がアイテスから離れる中、アイテスの視線は自然と窓際の席へと向かった。
やはり、外を見ている。
アイテスの腹の底にある確固たる正義感が、沸々と沸き立つ。それは大釜でじっくりと煮込まれた粘度の高いスープのようにぼうぼうと音を立てて泡立ったのである。
彼はまず、講師が視線を動かさないことを確認すると、メモ用紙を丁寧に千切って、そこに以下のように書き出した。
『ノゼンダくんの集中が途切れています。回してあげてください』
アイテスはそれを隣席の巫女に渡す。すると、思わずときめいてしまった巫女が顔を赤らめてそれを受け取るので、アイテスは困ったような微笑を浮かべて、謝罪のジェスチャーをする。用紙を開いた巫女があからさまに落胆して、隣席へと用紙を渡していく。
講師の視線の動きを気にしながら、用紙は時間をかけてリレーを続け、窓際の少年へと届けられた。彼が隣席の御子に肩を叩かれた時、彼は思わず肩を竦めて、はじめて視線を教室の内部へと向けたのであった。
アイテスはそれを見届けると、窓際の少年、ノゼンダを表情で諫め、首で視線を正すように要求する。ノゼンダはとぼけた表情で頷き、ようやく講師に視線を向けたのである。
「ノゼンダくん。集中力が足りませんね」
「あ、え、っと・・・」
講師はそれだけを告げると、再び滔々と解説を続ける。時間きっちりに予定の頁まで解説を終えると、講師はベルの音とともに解説書を閉じ、御子達の方を向いて「以上です」と結ぶ。御子達の祈りの口上を待たず、彼女はすたすたと教室を後にした。
御子達は大きな背伸びをして開放の時間を喜び合う。友人と集まって席を着き合わせる者、隣席と距離を取って鞄を漁る御子などがある中、アイテスはすっと立ち上がり、放心状態のノゼンダへと向かって行く。ノゼンダはそれに気づかず、算術の教科書をやっと探し当てて、先ほどの問題をぼんやりと見つめていた。
「復習?」
アイテスがあくまで友好的に声を掛けると、ノゼンダは一瞬びくりと肩を竦ませると、苦笑交じりに頷いた。
「ちょっとぼんやりしていたよね。風邪でも引いたの?大丈夫?」
ノゼンダは無遠慮に額へと伸びてくる手を避けるように立ち上がり、逃げるようにその場を立ち去った。
呆気にとられたアイテスは視線で彼の背中を追いかける。乱暴に閉ざされた扉を暫く目で追いかけ、怪訝に思って首を傾げた。
「風邪・・・じゃないよね・・・」
この時、アイテスが感じた『違和感』こそが、彼とそれを取り巻く人々を巻き込んだ原罪であったなどとは、彼自身予想もできないことであった。




