第11話 皆の希望なんだってば…。
森が、ふっと開けた。
今までぎゅうぎゅうに生えていた木々が途切れて、そこだけぽっかりと空が見える。
ちょっとした広場みたいになっていて、地面はところどころえぐれている。
その真ん中に――祈りの像が、立っていた。
両手を胸の前で組み、空を仰ぐ女性の像。
長いローブが風に揺れているように見える、繊細な彫刻。
石で出来ているはずなのに、どこか柔らかい光をまとっているように感じた。
そして、その像の向こう側で。
巨大な“何か”と戦っている騎士たちの姿が見えた。
「……!」
思わず息を飲む。
魔物の数匹が、騎士たちを取り囲むように動いている。
そのさらに中心に――
黒い、山みたいな塊。
「瘴皮熊……?」
あれは、今まで見てきたどの魔物とも違う“圧”を持っていた。
樹皮みたいにゴツゴツした毛皮が、瘴気で黒く染まっている。
背中からは、まるで枯れた木の枝みたいなものが何本も突き出ていて、そこから黒い霧がゆらゆらと立ち上っている。
一歩踏み出すごとに、地面が揺れた。
その巨体の前で、必死に剣を振るっている人がいる。
「ダンテ……!」
思わず名前を呼んでいた。
その少し後ろ――地面に倒れ込んでいる騎士の姿が見えた。
胸当てが大きく凹み、鎧が砕けかけている。
「レオンハルト団長!」
「こいつはただの瘴皮熊じゃねぇ!」
ダンテの怒鳴り声が、こちらまで聞こえてくる。
「その上だ! 倒せねぇ!」
瘴皮熊の“上”。
その時、第1騎士団の一人が、こちらに駆け寄ってきた。
鎧は傷だらけで、肩から血が流れている。
「報告します!」
アレクシスの前で膝をつき、息を切らしながら声を張る。
「ダンテ副団長とレオンハルト団長が、なんとか像から引き離そうとしたんですが……やつが動こうとしません!」
第1騎士団の副団長――オリヴァーさんは、その他の魔物と戦う指揮をとっていた。
瘴王熊と戦っている騎士たちに、他の魔物を近付けさせないように、次々と指示を飛ばしている。
「アレクシス様!」
別の騎士が叫ぶ。
「周囲の瘴気が濃く、これ以上の長期戦は――!」
「分かってる」
アレクシスが、短く答えた。
「ガイン、頼めるか?」
その声に、ガウェインが前に出た。
剣を構えたまま、アレクシスへ視線だけ向ける。
「勿論だ」
ユリウスが私の方へ一歩出て、穏やかな声で言う。
「聖女様の護衛は任せて下さい」
オーウェンが、ガウェインへ向けて小さく笑った。
「……死ぬなよ」
「お前に泣かれるのはごめんだ」
ガウェインも、ほんの少しだけ口元を緩める。
次の瞬間には、その表情は鋭い戦士のものに戻っていた。
ガウェインが、数名の騎士を引き連れて戦場へ走る。
瘴王熊の周りで戦っている騎士の輪の中に飛び込み、そのまま動きの流れに組み込まれていった。
治癒術師たちは、負傷者の元へ散っていく。
倒れている騎士のところへ膝をつき、魔法の光と薬で慣れた手つきで処置を始める。
私は――アレクシス、オーウェン、ユリウスと共に、祈りの像の元へ向かう。
あちこちで、騎士たちが戦っている。
地面に倒れている人。
うめき声をあげている人。
立ち上がろうとして、また崩れ落ちる人。
胸がぎゅっと苦しくなった。
祈りの像に近づこうとすると、その前に立ちはだかるように魔物が数体現れた。
「危ない!」
ユリウスさんが素早く手を掲げ、短い詠唱を呟く。
「風よ、裂け」
鋭い風の刃が、魔物の足元を切り裂き、体勢を崩させる。
その隙に、オーウェンとアレクシスが飛び出す。
「どけ」
オーウェンの剣が、迷いなく魔物の首筋を断つ。
アレクシスの突きが、胸を貫く。
この混乱の中で、祈りを……
本当にできるの……? 不完全な魔法を、こんな中で?
アレクシスが、祈りの像のすぐ横まで来て、私を振り返る。
「美鈴!」
その目はまっすぐで、迷いがない。
「やってくれ!」
オーウェンも、剣を血振りしてからこちらを見る。
「あなたには、1歩も近づけさせない」
い、祈る……やらなきゃ。
私がやらなきゃ。
ここまで来て。
こんなにたくさんの人が戦ってくれているのに。
祈りの像の前に立ち、目を閉じる。
深呼吸。
息を吸って、吐く。
集中しなくちゃ。
胸の奥にある光を思い出す。
ユリウスさんと一緒に何度も練習した、“魔力の流れ”。
胸の真ん中から、腕へ、指先へ。
そこから、祈りの像へ――
森の奥へ、広がっていくイメージを……
「うっ……」
集中しようと思えば思うほど、周りの音が大きく聞こえる気がした。
金属音。
怒鳴り声。
悲鳴。
瘴王熊の咆哮。
全部が、一気に押し寄せてくる。
焦って、手が震える。
ダメだ、こんなんじゃ……
その時だった。
「伏せろぉぉぉぉ!!!」
ガウェインの叫び声が、広場全体に響いた。
顔を上げる。
瘴王熊が、こちらを見ている。
真っ赤な目。
口の端から黒い涎を垂らしながら、太い腕を横薙ぎに振る。
その動きに合わせて、黒い爪から横一直線の斬撃のような魔法が放たれた。
空気が裂ける。
黒い刃が、地面をえぐりながら、まっすぐこちらに向かって飛んでくる。
その軌道上には、戦っている騎士たち、祈りの像、そして――私たち。
「っ……!」
「させるかよおおおお!!」
ダンテが、斬撃の軌道に飛び込んだ。
大剣を両手で構え、真正面から受け止めるように。
黒い刃と剣がぶつかった瞬間、爆発したみたいな衝撃が走った。
「ダンテ!!」
叫ぼうとした声より早く、アレクシスとオーウェンが私に飛びかかってきた。
「美鈴!」
「伏せて!」
二人が、私に被さるように身をかがめさせる。
視界が地面とマントでいっぱいになる。
ユリウスは、そのすぐ横で短く詠唱を終えた。
「守りの盾よ!」
無数の空気の粒が集まり、私たちの周囲に薄い膜のようなものが形を成す。
見えない壁に、何かがぶつかるような重い衝撃が続く。
ドンッ、ドンッ、ドンッ――!
耳がキーンと痛む。
体ごと地面に押し付けられる。
やがて、衝撃が止まった。
恐る恐る顔を上げる。
私たちは、無事だった。
……祈りの像を除いては。
目の前で、像が砕けていた。
ガラガラと大きな音を立てて、頭が、腕が、胸元が、バラバラに崩れ落ちていく。
長い時間をかけて磨かれたであろう石の肌が、容赦なく地面に叩きつけられた。
「そんな……」
言葉が、勝手に口からこぼれる。
そして、その向こうには――
血塗れで倒れているダンテがいた。
大剣は、手から離れて地面に突き刺さっている。
胸当てはひび割れ、肩から腹にかけて深い傷が走っていた。
血が、地面に大きな染みを作っている。
「ダンテ!!」
誰かが叫ぶ。
ガウェインか、オリヴァーか、それとも私自身か。
「……ここまで来たのに」
喉の奥が焼けるみたいに痛かった。
胸の真ん中が、ぎゅっと掴まれている。
うおおおおおおおお――!
ガウェインの雄叫びが、獣の咆哮みたいに響いた。
瘴王熊に斬りかかりながら、怒りと悔しさを全部乗せた声。
オーウェンが、顔を歪めていた。
アレクシスは、唇を噛み締めて、砕けた像と倒れた仲間を交互に見ている。
その目には、はっきりと“絶望”が浮かんでいた。
私が――
私がモタモタしているせいで。
祈りをすぐに捧げられなくて。
集中できなくて。
怖がって、震えて。
その間に、像が壊されて。
ダンテが、あんな傷を負って。
もし、最初の一歩をもっと早く踏み出せていたら。
もし、迷わず祈れていたら。
こんなことには――
「っ……」
視界が滲んだ。
涙が、頬を伝って零れ落ちる。
その涙が、砕け散った像の破片に落ちた。
――瞬間。
像だったものが、ふっと光った気がした。
「え……?」
私だけが、それを見たようだった。
誰も、気付いていない。
戦場の喧騒の中で、ほんの一瞬だけ、瓦礫の隙間から柔らかな光が漏れた。
「いまっ…。」
足が、勝手に動いた。
フラフラと、砕けた像の方へ歩いていく。
「美鈴様!」
誰かが呼ぶ声が聞こえた。
でも、足は止まらなかった。
瓦礫の前に膝をつく。
お願い…。私は未熟だ。何もかも。
一生懸命、精一杯やったつもりになっていた。
もし、もっと死に物狂いで練習していたら…。
もし、私がちゃんとした聖女なら。
手を伸ばす。
「……どうか、お願い」
掠れた声が出る。
誰に向けてなのか、自分でも分からない。
神様か、この像の中にいた誰かか。
それとも、森そのものか。
「みんなを、助けたいの…」
世界が、スローモーションになったみたいだった。
周りの音が、急に遠くなる。
金属音も、咆哮も、叫びも、全部水の底から聞こえてくるみたいにぼやけていく。
代わりに――森の音が、耳の奥に流れ込んできた。
木々が揺れる音。
葉が擦れ合う音。
土の中を流れる水の気配。
遠くで、まだ生きている小さな鳥の鼓動。
全部が一つになって、私の中に入ってくる。
不思議な感覚だった。まるで森と一体化しているような。
私の体の輪郭が、曖昧になっていく。
皮膚の境界線が溶けて、周りの空気に溶けていく。
何も考えられなくなった。
ただ、ひたすらに――
そして
ぷつん、と何かが切れた。
自分の体と世界を繋いでいた何かが。
遠くで、誰かが叫んでいる。
「美鈴!!」
最後に見えたのは、闇だ。




