赴任
将軍就任を目指す足利義昭を奉じ、無事その役を果たした織田信長は京の復興に着手。天皇の内裏を修理するため家臣に上洛を指示。その京に入る手前にある近江国瀬田の橋に関所を設けた織田信長は
「関所を通る際は馬を下り、名前を名乗るよう。」
指示。身分を問わず誰もが信長の命令に従う中、
「急いでおる!下馬する時間等無い!!」
「しかしこれは上からの御命令で……。」
「ん!?そんなの知った事では無い。」
と制止する関守を討ち果たし、
「門を開けぬと京を焼き払うぞ!!」
と脅す人物が……。その人物の名は森長可。森家は美濃に本拠地を構えるも、早い段階から織田信長に通じ長可の父可成は信長の飛躍に一役買った人物でありました。しかし森可成は近江国でのいくさで討ち死に。13歳の若さで急遽跡を継ぐ事になったのが森長可でありました。
森家は織田信長の発展に無くてはならなかった家であり、長可自身。数多のいくさで武功を立てる等信長から重用される人物でありましたが、信長様の命を破り。しかも関守を斬り捨ててしまい。更には……
(「京を焼く。」は流石に言い過ぎだったな……。)
と言う事に気付いた森長可は織田信長の下を訪ねるなり
「切腹してお詫びします。」
と言上するのでありました。
これを聞いた信長は大笑い。口頭で注意するに留めたのでありました。
時は下り天正10年。織田信長は甲州征伐を決意。その先陣を担ったのが森長可でありました。その際長可は、織田家の当主となっていた信長の息子信忠から
「織田信忠率いる本隊が到着するまで、南信濃の要衝高遠城を攻めるのは控えるように。」
と命じられるも森長可はこれを無視。この事は即座に織田信長の下に報告されるも信長は……。
「長可。落ち着け!」
と言った内容が認められた書面で注意されるだけ。これに気を良くしたのか長可は、信忠の命を再び無視。今度は
「こっちへ来なさい。」
と信長から注意される長可でありました。
このような軍律違反を繰り返した森長可。良くて現状維持。減封は当たり前。場合によっては放逐ないし切腹になってもおかしくない長可でありましたが、織田信長は武田征伐後。彼に対し20万石を加増したのでありました。
たとえ織田信長の命であったとしても、織田信長以外の者からの指示には従わず。信長の嫡男であり、家督を譲られている信忠の命令も平気で無視をする。信長に事と次第を訴え出るも相手は信長のお気に入り。行いを改める事はあり得ない。斯様な危険な人物が……川中島にやって来る。