梅雨と出会いのアフォガード
春の衣替えが始まった。
今まで袖を通していた制服のブレザーをしまって、シャツとベストを着るようになった。
肩にかかっていた重みが無くなって、軽くなったのが嬉しい反面、結構好きだったから寂しい気持ちも少しある。
「あっづぅ……きもちわるいよぉ……」
それはそれとして今は梅雨時期。先日降った雨は容赦なく空気に紛れて私を蝕む。
今は上着への感傷より、じめじめとしたこの空気感から少しでも逃れたい。
季節特融の雨の多さ、そして日差しの温かさによる相乗効果で、どこに行っても最悪な気分。
シャツの胸元を軽く開けて風を通すも、大して効果はない。むしろ悪化した気すらする。
友達と予定の合わなかった帰り道、1人歩いていてふと思う。
「はー……アイスでも食べたいなー……」
そう思った途端、なんだか急に口寂しい気もしてくる。
家になにかあったっけ?コンビニでも寄ろうかなーなんて考えると、ふと視界の端におかしなものが映る。
「……んー?んっ!?」
私の見間違えじゃなければ、あれはメイドさんだ。このとんでもない湿度の中できっちりと着こんでいる。
それもお屋敷とかに務めてそうな、素敵で綺麗なメイドさん。
それが家?お店?の前で竹ぼうきで掃除している。その建物はとてもじゃないけどお屋敷には見えない。
「へー……いるもんなんだなぁ」
生まれて初めてメイドを見たという衝撃もそこそこに、落ち着いてその周りも見てみる。
メイドさんの背後にあるのは家かとも思ったけど、木の柵や入口周りの整い方を見るに喫茶店みたいだ。
控えめに咲いている紫陽花が、外観と良く合っていて綺麗だ、なんてぼんやりと考える。
そんな時、私に天啓が舞い降りた。
(メイドさんなら、美味しいアイスの食べ方とか知ってるんじゃない?)
うーん、我ながらナイスアイディア。
喫茶店で働いているメイドさんだし、料理の腕は確かなはず。
きっとこの人の手にかかれば、普段食べているアイスも何か違うものに変わるんじゃなかろうか。
ならばこうしちゃいられない。離れていては声が聞こえないのだからまずは近づかなきゃ。
私が近づいていることに気が付いたメイドさんと目が合う。
「あのー、すみませーん」
「はい、なんでしょうか?」
「美味しいアイスの食べ方、知りませんー?」
「……はい?」
立ち話もなんだということで、店内のカウンター席に案内してもらった。
中はエアコンが効いてて外と比べるととても過ごしやすい。控えめにかかってる音楽もなんだか落ち着く。
周りを見渡しても、他にお客さんはいない。貸し切りみたいで、なんだかちょっと得した気分。
「美味しいアイスの食べ方、ですか。もちろんございます」
「ほんと?」
「はい。当店は喫茶店ですので、有料のメニューとなってしまいますが、それでもよろしければお出しさせていただきます」
「大丈夫でーす」
お小遣いにはそこそこ余裕があるし、ある程度は大丈夫……の筈!
あっ、ちょっと心配になってきた。お財布持ってきてるよね?
うん、ある。大丈夫。
「かしこまりました。ではご用意させていただきます。少々お待ちくださいませ」
「はーい」
一礼してメイドさんはカウンターの方へとトコトコ歩いていく。
歩く後ろ姿も可愛いなー。さすがメイド。
あ、あれ。確かパパが持ってる奴に似たようなのが……確か……
「グ〇ンギ」
「違います。それを言うならデロンギです」
「違ったかー」
「加えて、これはデロンギではなくマルゾッコです」
違うらしい。似てるから間違っちゃった。
というか、メイドさんもそういうの知ってるんだ。意外。
「違うの?」
「エスプレッソマシンとしての仕組みは同じです。エスプレッソとは深く焙煎した珈琲豆をポンプや蒸気を用いて、ぐっと圧力をかけて抽出する方式を指しますので。メーカーや用途、サイズ等によって呼称が変わるのです。中でもデロンギは家庭用、マルゾッコは業務用として多く世に出ております」
「へー。高い?」
「比較的安価な家庭用のものでも数万円。高価な物、業務用ともなれば数十万円です」
「うっそぉ!?そんな高いのっ!?」
「最高級ともなれば、100万円を超えます。当店に置いているものは業務用のもので、20万円程と聞いています」
「ひえー……」
触るのも躊躇しちゃうよ、そんなの。
パパあれ買った時どんな気持ちだったんだろう。今はあんまり使ってなさそうだったけど。
しかしメイドさんは臆することなく冷静に、持ち手のついた専用の受け皿にコーヒーの粉を落とす。
そして落とした粉の上から、小さな銀色のハンコみたいなもので思いっきりグッと押し込む。
ひとしきり均したら、それをエスプレッソマシンの抽出口らしき場所にガチャリとはめ込み、その真下にガラスでできたカップを置く。
「なにしてるの?」
「エスプレッソを立てています。……言葉足らずでしたね、失礼しました。とても濃く、苦い珈琲を淹れています」
正面に付いたボタンを押すとピッと音がして、ブー、という振動音が鳴る。
そしたらさっきはめ込んだ受け皿から少しずつ、ガラスのカップへとコーヒーが注がれていく。
「先に申し上げましたが、エスプレッソというのは珈琲豆に強い圧力をかけて抽出する方式を指します。一回に使用する粉の量が15グラムに対し、通常のコーヒーが一回の抽出で200ml用意できます。しかしエスプレッソは80ml程。単純計算で、2.5倍の濃度の珈琲です」
話している間にもエスプレッソコーヒーが注がれていく。
不思議なことに、その色は想像していたような真っ黒ではない。
白い、クリーム色?みたいな層がたくさん積もっていって、底の方から少しずつ黒い部分になっていく。
「この白く重なった層は『クレマ』と呼ばれます。高い圧力をかける過程で、本来豆から出る炭酸ガスが圧縮され、珈琲と一緒に落ちて積もります。エスプレッソならではの現象です」
「ちょっと綺麗かも。クリームみたいだね」
「クレマの語源はクリームですので、その認識で合っていますよ」
カップの淵ギリギリまで積もり切ると、抽出が止まる。
そこには二杯分のエスプレッソコーヒーが出来上がっていた。
上から7割くらいにクレマが積もり、底には重なって落ちたコーヒーがグラデーションになっている。
「これがエスプレッソコーヒー……でも、私苦いの飲めないよ?」
「ご安心ください。直接飲むわけではございません」
エスプレッソはそのままに、メイドさんはお店の奥へと歩いていき、ちょっとしたら戻ってきた。
その手には白いお皿に乗ったガラスの器が収まっていて、それを私の目の前に置く。
カップの上にはまん丸の、甘い香りの冷たいお菓子。間違いない。バニラアイスだ!
そしてさらに、先ほど立てておいたエスプレッソを持ってきて、流し込んだ。
「お待たせしました。エスプレッソアフォガードでございます」
「ふおぉぉぉ……!」
乳白色のバニラアイスが、エスプレッソコーヒーで覆われて溶け出す。
溶けたバニラがその下に溜まるコーヒーと混ざり、ブラウンとホワイトの二色が鮮やか。
間違いなく、これは美味しい!
「いただきますっ!」
備え付けてあった銀のスプーンで一口分掬い、口に運ぶ。
広がるのは濃い苦みとぶわっと広がる香ばしさ、それに濃厚なアイスの甘み。
このアイス、普段私が食べているのよりもバニラの香りが強い。ちょっぴり高級なアイスだ。
「おいしいっ!これすっごい美味しいよっ!」
「ありがとうございます」
思っていたよりも苦味自体は濃くなく、ほろ苦いよりもちょっと濃いくらい。
苦味よりも匂いの方が濃く感じるくらい。
この鼻に広がるような香ばしい、素敵な香りはなんと例えたもんか。
もちろんバニラアイスを多めにとって、甘みだけを楽しむのも悪くない。
けど、この苦味がよりバニラの香りや甘さを引き立てている。
「エスプレッソで抽出した珈琲はかなり深い焙煎、長い時間焼いた豆を使用します。その為、深い苦みと香ばしさを引き立てているのです。そして深みのある濃い苦味は、バニラアイスと相性がとてもいいのです」
「おいしーね。えへへ、底の方のこれ、かなり好きかも」
カップの底に溜まった、アイスと珈琲の入り混じった液体。
濃い苦みと甘い香り、混ざりあってお互いのいい所が一緒くたになってる。
もうこれがたまらない。行儀の悪さを無視していいならカップに口をつけてすすりたい。
流石にお店だし人前だしでやらないけど。
「夏の楽しみの先取りですね」
「梅雨過ぎたら、暑くなってくばっかりだもんねぇ」
はーたまらない。まだ夏というには少し早いけど、この湿気と暑さの中、エアコンの利いた空間でアイスを食べる贅沢。
それも他に人がいない、静かな場所で。いいね、すごくいい。
クラスの賑やかな空気もいいんだけど。ここ、好きになったかも。
「……口調、このままでもいい?」
「もちろんです」
「……ありがとー、です」
ひとしきり話して、ずっとメイドさんにタメ口だったことを思い出す。
私を見る雰囲気がお姉ちゃんっぽくて、つい。
なんだか恥ずかしくなっちゃって、ちょっとだけ敬語も使う。どっちつかずなことするくらいなら、始めからしなきゃいいのに。私のばか。
チラッとメイドさんを見ても、微笑みながら器具の手入れをするばかりだ。姉のような、大人の女性のような。不思議な雰囲気の人だなぁ。
ちょっとの憧れと喜びをそんな時感じていたそんな時、カランコロンと来客を告げるベルがなる。
あーあ、せっかく貸し切りだったのに、と思うもたまたま他に人がいなかっただけ、とすぐに反省。
「こんにちはー!カヤネさんっ!」
「いらっしゃいませ、水樹様。お席へどうぞ」
「はーい。……あっ」
「ありゃ」
お店に入ってきたのは、同じ学校の制服。この人見たことある、隣のクラスの人だ。
なんてこった、早くも静かな場所じゃなくなってしまう予感。
ついでに、メイドさんのお名前はカヤネさんというらしい。素敵な名前だ。
「こんにちは、えっと、秋山さん?」
「どーもー。そういうあなたは水樹さん」
「ど、どうも?」
参ったなぁ、あんまり知らない他クラスの人とすぐ隣だなんて。
うぅ、気まずいや。食べ終わったらすぐ出ていこうかな。
そう考えて黙々と食べ進めていると、とても強い視線を感じる。
言うまでもなく、隣の水樹さんから、私の手元へ。
「……」
「……」
「あげないよ?」
「えっ!?いやいやいや!取りませんよっ!?気になっただけでっ!」
よかった。これで一口ちょうだい?とか言われてしまったら距離感怖っ、ってなってた。
凄く美味しいもんね、アフォガード。気持ちは分かる。
あっ、そうじゃん。家にエスプレッソマシンあるんだから作れるじゃん。
どうせお父さんも使ってないんだし、いいよね?
(珈琲豆ってどこで買えるんだろ)
「うー……エスプレッソって濃そう……」
「よろしければ、コーヒーフロートにいたしましょうか?」
「あっ!いいですね、それでお願いします!」
フロート、聞いたことはある。
アイスコーヒーやメロンソーダにアイスを乗せた、凄く美味しそうなやつ。
いいな、私も次はそれにしよう。
あーでもなー。同じ学校の人が来るのかー……
「じー……」
「……?え、えへへ。よろしくね、秋山さん」
「ん?んー……うん、よろしく」
まっ、いっか。
初夏 天気:雨のち晴れ
本日ご来店されたお客様は、まるで家に慣れた猫のような方でした。
お名前は秋山様。話している内に緊張がほぐれるような、柔らかい印象を感じました。
メイド服だからか、外にいても声をかけられることは稀なのですが……あまり物怖じしない方のよ
うです。人見知りなどはしないのでしょうか?羨ましいです。
道を聞くでもなく、まさかアイスの美味しい食べ方を聞かれるとは。
なんとはなしに、彼女は大成しそうだと感じさせます。
お出ししたアフォガードはお気に召されたようです。そして、それを物欲しそうに眺める水樹様が可愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまったことは反省しなくてはなりません。
いずれ、秋山様ご自身がエスプレッソマシンを買い、水樹様と珈琲のことを語らう日が来るのでしょうか。
年甲斐もなく、ワクワクしますね。