休日出勤のモカマタリ 2
目の前に差し出されたのは、湯気の立つホカホカのホットサンド二切れ。
中からは丁度いい塩梅で焼かれたハム、目玉焼きが顔を覗かせる。
トロリと流れた黄身がまた、なんとも食欲をそそる。
さて、隣のコーヒーだが……なんというか、紅い?
紅茶程透き通っているわけではないが、普段飲んでる物に比べればかなり赤みがかっている。
コーヒーってこんな明るい色になるものか?本当は紅茶なんじゃないのか?
淹れるところを目の前で見ておきながら、そんな疑問が湧いてしまう。
「ミルクとお砂糖はこちらをご利用ください」
そっとミルク入りの陶器と角砂糖入りのポットを置かれる。
ブラックに慣れてるし、多分使わない。けどこの角砂糖のポット、キラキラしてておしゃれだな。
こういうところも見て楽しいのは面白い。
見てばかりじゃなく、実際に食べてみなきゃな。
早速一口、焼けたばかりのホットサンドに齧り付く。
「うおっ、うまっ」
一口目に感じたのは、パンのザクリとした食感に白身の柔らかさ、それにベーコンのしょっぱさ。
そこにチーズの風味が重なって、いかにも軽食といった心地よさ。
もう一口齧れば、マヨネーズが塗ってあった場所に辿りつく。これもまた淡泊な卵の白身との相性がいい。
当然だがパン、ベーコン、チーズ、卵、マヨネーズ。これらは全て、互いに相性がいい。
当然、全て重ねても美味いというわけだ。付け合わせのレタスもシャキっとしてて歯ごたえがいい。
ピリッと辛いのは黒胡椒か、いつの間に入れてたんだ。
喫茶店でメイドさんが出すには少々チープな気がするが、忙しい男の食事としては満点を出してもいいくらいに満足感がある。
そして……こっちこそ本命。
モカコーヒー、俺の注文した『苦くないコーヒー』だ。
温かいコーヒーから立ち上るのは事前に説明を受けていた通り、甘い香りがする。
好みは分かれるだろうが、俺は好きな香りだ。早速口に含んでみる。
「……え、甘っ!?」
砂糖のような直接的な甘みではない。が、確かに甘いと感じる。
しかも、苦くない。舌の上で感じるのはほんのりと舌を刺激する酸っぱさと、口内を満たす甘い香り。
飲み込んだ後の余韻もいい。この後味に近いのは……黒糖かな。
ただの甘みではなく、コクのある甘みだ。あまりの驚きにコーヒーカップを手に持ったまま固まってしまった。
「お気に召されたようで何よりです」
「す、すっげぇ……モカってこんなに甘いんだ……」
「挽き方も淹れ方も、こだわらせていただいておりますので」
そう言うと、さっきの『モカマタリ』と書かれたラベルの張られたビンを手に取る。
挽き方……粉に挽いた時から?とすると何か加工しているのか?
それに淹れ方?そんなに変な動作はしてなかったと思うんだが。
「珈琲の粉は、その粒が細かい程味や成分は抽出されやすくなり、逆に荒い程抽出されにくくなります。この『成分』というのは豆本来の香り、苦味。それだけでなく、えぐ味、雑味も指します」
「あっ、じゃあその豆はもしかして……」
「はい。通常使う物よりも荒めに挽いております。こうすることで、あえて苦味や雑味を抑え、豆の香りや甘みを引き立たせています」
なるほど、あえて成分を出さないことで味を調整する。
そういう手法もあるのか。目から鱗だ。
「じゃあ、淹れ方は?変なことはしてなかったように見えたけど」
「通常よりも長い時間をかけ、かつ使用するお湯の量を僅かに増やしました」
「えぇっ?でも、薄まっているとは全然思えない味ですよ」
「香り高い豆、その代表であるモカだからこその淹れ方です。お湯の割合が増えたとしても、その深い甘みと香りは失われません」
思わず呆けてしまった。
あえて薄くコーヒーを淹れて、さらにそれをお湯で薄めることでその個性を引き立たせる。
コーヒーを飲む上で、濃くて苦いことこそが一番重要だと考えていた自分の常識が、土台からひっくり返ったような気分だ。
「そっか。そういう飲み方もあるんだなぁ」
「良いものを、心から。趣向品とはそのようにして楽しむものと存じます」
「目から鱗が落ちたような気分ですよ。……そっかぁ」
ほっと一息つくと、長いこと失っていた余裕を取り戻した気がする。
毎日仕事に忙殺され、何かを楽しんで摂取するということを忘れていた。
疲労は溜まるし、健康診断だってそろそろ怪しい。その上で精神的に余裕のない生活を送ってれば、いつか気を病んでしまっていたかもしれない。
その心配の種がなくなって、心がふっと、軽くなった気がする。
「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」
「はい!……あっ。い、いただきます」
その時になってようやく、いただきますも言わないで食べていたことを思い出す。
思えば最近、外食をしても言っていなかった気がする。
……ひょっとして俺、かなり追い詰められていたんじゃないか?
遅れた食事の挨拶を気にすることなく、メイドさんは静かに微笑んで調理器具の片づけをしている。
その事に感謝しつつ、残りのホットサンドに手を付けた。
「冷めても美味しいですね、このコーヒー」
「豆にも寄りますが、良い豆は冷めても酸味が濃くなりにくいのです」
「へぇー」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ありがとうございます。お皿をお下げしますね」
昼下がりの軽食には随分上等なものを食べた気分だ。
ホットサンドメーカー買おうかな……いや、ここで食べるからこその特別感もあるのかもしれない。
もう少し考えよう。棚の肥やしにしたくないしな。
「どうぞ」
「あっ、どうも」
ここのコーヒーの価格は二杯分の値段だ。
食事中にじっくり飲んだ分、食後にもう一杯飲めるのはちょっと得した気分だ。
いや代金には含まれているんだが。気分だ、気分。
「こんなにコーヒーを美味しく感じたのは初めてです」
「普段は缶コーヒーとおっしゃられておりましたね。濃い味になるのも、無理はないかと」
「そうなんです?」
皿を洗う手を止め、少し目を閉じて考えた後話し出す。
内容は、市販されているコーヒーについてだ。
「珈琲豆は生豆の状態から焼き上げる『焙煎』という作業を行います。そしてそれを粉末にすることで珈琲として抽出できるのです」
「あぁー、なんか缶コーヒーの謳い文句で見たことあるかも。深煎りとか直火式とか」
「理由は様々ですが、缶コーヒーなどに使われる珈琲豆の多くは深煎りされており、かなり苦味が深いです」
「なるほど、深く焼けば苦味が強くなるから、味もそれにしたがって濃くなるわけですか」
「その通りです。元々コクの深いものや香り高いものをあえて深煎りすることで、個性を伸ばしたり引き立てることもできるのです。その為、缶コーヒーやカップコーヒーの自販機は味、とりわけ苦味の濃いものが多いです」
これもまた関心が湧いてくる。
あえて焼く時間を延ばすことで、深いコクを更に深くする。なるほど、これもコーヒーとしての楽しみ方というわけだ。
薄めて飲むのも、濃くして飲むのもコーヒー。
なんだか少し、視野が広がったような気がする。
「ここに来てよかったです。俺、なんだかいいものを貰った気分ですよ」
「そうおっしゃっていただけると、冥利に尽きます。しかし、それは……」
時折思うけど、この人はまるで俺よりずっと長生きしてるかのような雰囲気で話すことがある。
落ち着きようや佇まいが、俺よりずっと大人なんじゃないかとすら見える。
「貰ったのではなく、偶然落としてしまっていたものを、もう一度拾い上げた。それだけのことかもしれませんよ」
「えぇー、そうですかね?」
数年前に比べると俺は、私生活でも仕事でもずっと余裕がなくなっていたような気もする。
一日の時間がどうとか、帰って寝たいとか。残った時間をどう楽しむかなんてさっぱり抜け落ちていた。
ここで昼食を取って、コーヒーを二杯も飲んだらそんな悩みもどこかへ消えてしまったみたいだ。
我ながらなんて単純な頭だ。
「差し支えなければ、本日はどうして当店へお越しくださったか、聞いてもよろしいですか?」
「ああ、もちろんいいですよ。と言っても大した理由じゃないです。なんか昔からあるなーって思ったら寄ってみたくなって」
そう切り出すと、なんとなく身の上話の一つでもしたくなる。
どうせこの人しか聞いてる人もいないし、ちょっと付き合ってもらおう。
「普段は営業で外回りか、社で事務方やってるんです。が今日に限って後輩がトラブっちゃって、その事後処理で休日出勤だったんです」
「お勤め、お疲れ様です」
「ありがとうございます。それで帰り道だったんですが、いつだったかこの店の事聞いたの思い出して……そうだ、これを」
一応、メイドさんには縁のない話だとは思うが、名刺をそっと渡しておく。
休み時に仕事の話なんてしたくはなかったが、なんのことはない。これも気分ってやつだ。
「何か入り用でしたらぜひご連絡を。何分、普段は建築業者さんとか回ってますもんで」
「ありがたく頂戴いたします。……足立様とおっしゃるのですね。私、カヤネと申します。申し訳ございません、名刺は持ち合わせがなく」
「ああいえいえ、ご丁寧にすみません。よろしくどうぞ、カヤネさん」
名刺や店舗案内のような用紙は置いていないらしい。
飲食店としてはあれだが、この店の辺鄙さにちょっとだけ納得がいった。
同時に、そんな店と出会えた幸運さを噛み締める。
(コーヒーって、奥深いんだな……)
これからは、もう少し意識して飲んでみようかな。
口の中に残る甘い香りと酸味の余韻を楽しみつつ、懐から時折振動していた携帯電話を取り出す。
上司から飲みの誘いの連絡が来ていた。今日の慰労も兼ねて……とのことらしい。
無視した。
少しは休ませやがれっての。
春 天気:曇り
本日来店された方は、背の高いスーツの、少しお鬚の見られるやつれた男性でした。
いつかの旦那様も繁忙期のお仕事からお戻りになられると、あんなお顔だったような。どこか懐かしい気持ちになりました。
目の下に隈が見受けられましたが、あまり眠れていないのでしょうか。
日常的に濃い珈琲を飲んでいらっしゃるであろうと判断し、苦くない珈琲というお客様の提案にも合わせてモカマタリをご提供しました。
甘みの強いモカに、ずいぶん驚かれていたご様子でした。プレゼンした身としては、大成功と言えたと思います。
今後、モカコーヒーへ興味を寄せてくださるかもしれません。モカの良い豆を仕入れることを検討したいと思います。
私も飲みたいから、というのは、この日記だけの秘密です。