初めてのブラジルNO.1 1
その喫茶店に行こうと思ったのは見栄だった。
僕の住む町の目立たないところ、普段使う通り道から一本ズレた路地にある喫茶店。
木造建築で、何も知らなければ古民家と勘違いしてしまいそうになる外観。
いつ見ても周りに車は停まってなくて、お客さんがいるようには見えない。
誰が経営してて、どんな人が働いてて、いつからあるのかも知らない喫茶店。
古びてて入るのには勇気がいる……正に僕の思い描いた、憧れの喫茶店そのものだ。
(……緊張する!)
今僕はその喫茶店を前まで、普段は臆病な足を引っ張ってきた。
一人で喫茶店に入る。それは大人への階段。
……だと僕は勝手に思ってる。
カウンターでマスターのおすすめのコーヒーを訳知り顔で飲んだり。
香りがなんとか、深みがなんとかって大人同士で話したり。
そういうのは僕みたいな、見栄っ張りな高校生にとっての一つの憧れだ。
「ここまで来たんだ……よしっ、入るぞ……!」
いつまでもうじうじしていては、いずれ他のお客さんが来てしまうかもしれない。
その時になって笑われるのは嫌だし、意を決して扉を開き、店内へと歩みを進める。
開いたドアに取り付けられたベルがチリンチリンと鳴り、店内に響く。
……思ってたよりも、狭いと感じた。
入って手前左側には四人掛けのテーブル席、奥には五人掛けのカウンター席。
と言っても、行ったことのあるお店がファミレスとかだから、当てにならない気もする。
内装は木造、椅子や机なんかも全部綺麗に統一されている。
それからどこかで聞いたことがあるような、古い邦楽のオルゴールアレンジが流れている。
「え……あれ……」
僕はというと、入ってからどうすればいいか分からず足を止めてしまっている。
店内にもカウンターにも、店員らしき人はいない。
ベルは鳴ったけど誰も来ないし。かと言って勝手に席に座るのも行儀が良くない気がする。
ならいっそ、今なら誰も見てないし帰る?今なら恥ずかしい思いもしなくて済むし……。
(し、仕方ない、仕方ないんだこれは。よし、お邪魔しまし───)
そう考えて店内に背を向けて出ていこうとした時だった。
「いらっしゃいませ」
リン、と鈴が鳴るような高い声が店内に響く。
一番マズいタイミングで店員さんが戻ってきてしまった!と慌てて振りむく。
「……?」
声は高いのに、凄く落ち着いた声だなと思った。
左右非対称の前髪はいわゆる「片メカクレ」に近いが、綺麗な黒緑色の目を覆うほどではなく、ゆるやかに流れている。
後ろ髪は仕事の邪魔にならないように纏めているみたいだ。
しかし何より目を引くのはそこではなかった。
その服装だ。
黒を基調とした厚手の服に白いエプロン、ひらひらとしたフリルのついたカチューシャ。
足首近くまですっと伸びたスカートには、白いエプロンが広がっている。
手には白い布手袋をはめていて、清潔感がある。
足音がしなかったのは靴のせいだろうか?気づいたらそこに立っていた。
誰もが知ってる、けど実物を見るのは初めて。
メイドだ。
喫茶店にメイドさんがいる。
小首を傾げ、可愛らしく僕を見ている。
「本日はご来店いただきありがとうございます。こちらが、メニューでございます」
「あっ、ありがとうございます」
席に着いてから、そっとメニューが手渡される。あまりのインパクトに席に着くまでの記憶が飛びそうになった。
いや、誘導されるがままではあったけど、カウンター席に座ったところまでは覚えてる、大丈夫だ。
どちらにせよ、店員さんが来て、しかも声までかけてきてくれたのに帰るなんて僕にはできない。
あそこで帰れるのは余程事情があるか薄情者だろう。頑張った、無意識の僕。
……見れば見るほど、本物のメイドさんだ。家を管理したりする、本物の。
だって、一つ一つの仕草が憧れてしまうほどに綺麗なんだ。
メイド喫茶なんて行ったことはないけど、それに引っ張られて可愛いものってイメージがあったけれどとんでもない。
目の前の人はもちろん可愛い。けれどそれ以上に、綺麗だって印象が強い。
とはいえ、メイドさんばかり見ていてはなにも始まらない。何か注文してこの沈黙を紛らわせたい。
メニューの装飾は……茶色の革みたいな、いかにも高級そうな気配がする。
いけない、こんなところでも尻込みしてる!
こういうところでちょっといい感じにコーヒーを頼んで、大人になるんだ……!
自分を奮い立たせ、パラリとメニューを開く。
(……?分からない、なにこれ)
一ページ目、そこには恐らく淹れてくれるコーヒーの品種が書いてある……んだと思う。
ブラジルNO.2、コロンビアスプレモ、キリマンジャロ、エメラルドマウンテン。
この辺りはなんとなく分かる。ちょっと付け足されてるけど、国とか山の名前だ。テレビやネットで見たことある。
問題はその他。
マンデリン、グアテマラSHB、ホンジュラス?
国の名前なのかもしれないけれど、聞いたこともない。
いやそれよりも!値段が書いてない!
これは全部同じ値段なのか?ひょっとして凄い金額を取られるんじゃ……?
「……」
カウンターの向こうではさっきのメイドさんが器具を準備しているのだろう。
屈んで何かを取る音、カチャカチャと器具が擦れる音がする。
あまり待たせるのも悪い、けど何を選んだらいいのか分からない。
意を決して声をかけるとメイドさんは手を止め、しゃんと背筋を伸ばしてこちらをじっと見る。
「あ、あの……」
「はい、いかがなさいましたか?」
「おすすめ、ってありますか?」
たどたどしくなってしまうが、なんとか注文を伝える。
多分、これが最善なんじゃないか?
自分ではどれがいいのかさっぱり分からないし、ならメイドさんに一番いいのを入れてもらう、これ以外ない。
分からないものは分からないし、いつまでも待たせてしまうのも悪いから。
「かしこまりました。では……ブラジルのNO.2をご用意させていただきます。酸味が少なく、深みのある苦みが特徴的で、最も王道に近い珈琲と思われます。いかがでしょうか?」
「じゃ、じゃあそれでお願いします」
「かしこまりました。ご用意させていただきます」
そう言うとメイドさんは、背後の戸棚からコーヒーの粉が入っているであろうビンを取り出す。
白い手袋をしてるからだろうか、流れるように用意する姿がなんだか凄く、かっこいい。
洗練されてるっていうのか、コーヒーを淹れるところまで含めて、絵になる。
……言った後でなんだけど、凄く恥ずかしい気分になってきた。
もっと考えて自分で決めた方がよかったんじゃないか?考えれば考えるほど、ああすればよかったんじゃないか?となってしまう。
いつか慣れてきたら、これが自分で選んだ最初のコーヒーなんだっ!……って言えたんじゃないか?
そう思っても後の祭り、既にメイドさんの手元には色んな器具がある。
いくつかは見たことがある。こういうのを使ってかっこよくコーヒーを淹れてるのをテレビかアニメで見たような気がする。
「お客様」
「はいっ!?」
「失礼しました。驚かせてしまいましたね」
じ-っと手元を眺めていたせいで反応が遅れて変な声出てしまう。
メイドさんから見れば、手元をじっと見られて嫌な気分だったんじゃないだろうか。
そう思って顔を見ても、メイドさんは少し申し訳なさそうに眉を寄せているだけだった。
「よろしければ、淹れているところをご覧になられますか?」
「いいんですか?」
「はい、お客様さえよろしければ」
どうぞ、と促されて軽くカウンターに身を乗り出す。
元々見ていたとはいえ、許可を得て改めて見るとなんだか違う気がする。
「ブラジルのNO.2、こちらは文字通りブラジル産の珈琲豆です。NO.2は豆の等級を表します」
メイドさんの手元にはガラス製のコーヒーを受け止める容器、そこに円錐形の金属でできた抽出器具。
抽出器の底に、傍のケースに入ったブラウンの紙でできたろ紙を敷く。
すぐ隣のコンロには、これもまた見たことがあるような、注ぎ口がとても細くなったケトルが蓋から湯気を漏らしている。
「このブラジルのNO.2という珈琲豆ですが……ブラジルのNO.1という商品は存在しません。何故か分かりますか?」
「え?それ、は……」
急に話題を振られてしまい、咄嗟に答えられない。
いくつか考えてみるけど……どれもしっくりこない。
「希少性が高すぎるから……とか?」
「いいえ。ですが、正解に近いです」
メイドさんはその答えを予想していたのか、ふるふると首を振る。
沸かした熱湯を、何も入っていない紙だけ敷いた抽出器からガラスの容器に注ぐ。
ひょっとして、冷めないように熱を通してるのかな。
「理由は二つ。一つ目は、収穫した豆を選別する際に欠点豆と呼ばれる物を除去するからです」
「欠点豆?」
「粒の大きさが規定に満たない、欠け、割れ、未成熟。味わいに雑味を与える要因となる豆です。豆を収穫し、精製してからこれらを除去するのですが……」
下まで熱を通し終わったのか、通したお湯を捨て、抽出器に粉を入れる。
計量スプーン二杯分の粉を入れ、机にトントン抽出器を当てて、ろ紙内の粉を平らに均してる。
「ブラジルは世界で最も珈琲豆を生産している国です。当然、膨大な量の豆の中には欠点豆は多く含まれます」
「それはそうですよね。母数が多いんですし」
「おっしゃる通りです。風力で重さを測り、網の目を通るかで大きさを。そして電子的なセンサーに、最後は肉眼。これだけの工程を通っても、欠点豆は含まれてしまいます」
キッチン秤の上にガラスの容器に抽出器重ねた一式を置き、お湯を注ぎ始める。
均された豆の丁度中心から円を描くように、少しずつお湯が注がれると、ポコポコと音を立ててコーヒーの粉が膨らみ始める。
全体に満遍なくお湯が染み渡るのを見たら注ぐのを止め、手元のタイマーを起動する。
「ブラジルではそれを『欠点豆が含まれない完全な豆など無い』と考え、敢えてグレード1、つまり『ブラジルのNO.1』という枠を作っていないのです」
「へぇー……なんというか、シビアなんですね」
「珈琲大国ですからね。そして、二つ目の理由。聞いた話ですので、真実かは分かりかねますが」
30秒程経ったくらいで、もう一度お湯を注ぎ始める。
今度は膨らんだ粉の中心から膨らみを崩すように、けど抽出器外縁の円を描くように付着したところは崩さないように、丁寧に注ぐ。
「『私達は常に一番を目指し続ける』という想いが込められているそうです」
1分程かけてじっくりとお湯を通して、その後は少しずつ、お湯が落ち切る前にまたお湯を注ぐ。
そんな工程を4、5回程繰り返しただろうか。
ガラスの容器の中には、なみなみとコーヒーが注がれていた。
抽出器を外す際に鳴ったカチャリという音が、何故か耳に残る。
慣れた手つきでガラスの容器を軽く揺らしてコーヒーを攪拌し、カップに注ぎ、ソーサーに乗せて差し出す。
「お待たせしました、ブラジルNO.2でございます」