愛しのモリアーティ
目を閉じると聞こえてくるのは、水の音。
飛沫の音、せせらぎの音、滝の音。
私に齎される破滅の音だ。
何とも愉快な音楽じゃないか。自然の中に死ぬというのも、存外、悪くない。
街は騒がしかった。不協和音しか紡ぎ出さない下手の横好きばかりだ。
なればこそ、それを整理しようとしただけであったのだが、唯一の理解者は、それでも私と戦った。
そして、勝利したのは、彼の方。
正義が勝ったのだ。まぁ、彼は、自分を正義と呼ぶまいが。
……長いな。もう、滝壺に叩きつけられてもいいはずだ。
あぁ、これが走馬灯というやつか。
こればっかりは、体験しなければわからんな。
そうだな。では、私の原点でも振り返るとするか。
そうあれは、私がまだ、ただの数学嫌いの学生に過ぎなかった頃のことだ。
……
「ジェームズ!」
母の怒声が響く。
「この成績は何!?あなたは、天才だったはずよ!」
天才、天才か。
それは、否だよ。私は、そう、私は、少しばかり要領が良かっただけさ。
「全部、Bじゃない!あなたなら、Aが取れるでしょう!」
それでは、面白くない。面白くないことに真摯な学生がどれほどいると思っているのだろうか?
私は、あなたの人形ではないのに。
「まぁまぁ、母さん。全てBならそれで良いじゃないか。遊べるのは、今のうちだけなんだ。ジェームズの好きにやらせようよ」
兄が取りなしてくれる。だが、私に期待し、私を自慢の人形にしたい、大きな童女には通じない。
「セバス!あなたは、黙ってなさい!これはジェームズのためを思って言っているの!」
そう、私のためを思って、そう思い込むことで、この女は、それを免罪符にしている。
母の説教は、それから小一時間続いた。そんなことをするくらいなら、勉強するのを見張ればよいのに。無駄な時間だ。
「大丈夫かい、ジェームズ?」
「うん、ありがとう、兄さん」
兄が様子を見に来た。そこにあるのは、人を安心させる柔らかな笑みだ。
しかし、その瞳の奥には、僅かな怯えが見える。兄は気づいてすらいないだろう。実の弟に、本能が怯えていることに。
それは、可愛がられる私への嫉妬であり、憎悪であり、それでも、認めざるを得ない私の能力によるものだ。
家に安らぎは無かった。
……
「やぁ、ジェームズ。良い朝だね。ナンパ日和だと思わないかい?」
「君は、どんな状況でもそう言うじゃないか」
フランス人の友の言葉は、常に軽薄で、紳士的だ。
「ふふ、そう言わないでくれよ。愛すべき者を見つけるのは、人間にとって最も神秘的で重要なことだろう?」
「それは、種の保存を図る本能、すなわち、性欲と、人間の半端な知性の混合物が生み出す幻想だ。世界は、既に決まっており、人間は、高尚では無く、低俗だ」
「ははは、全く、情緒のカケラもないセリフだ。それをわかった上で、僕らは綺麗事を述べなければならない。何故なら、それがーー」
「愛というものだ、かい?」
「そう、そういうこと」
フランス人の友は、私の回答に、満面の笑みを浮かべて、頷いた。
「ぉ……ょぅ」
「あぁ、おはよう、ジャック」
「おはよう、我が友」
か細い虫のような声で、もう一人の友と合流する。
ジャックは、複雑な家庭環境に身を置いている。だからなのか、極端に人見知りだ。そして、傷害事件を数度ほど起こしている。しかし、どれも母親を侮辱されたことが原因だ。
私たちは、それを知っている。
世界が醜いということを。
……
「貴方が、ジェームズ・モリアーティくん?」
声を掛けられる。
美しい女性だ。波打つような長髪は、艶やかな黒。猫のようなしなやかな肢体と見透かすような瞳をしていた。
手には、油絵具の汚れが目立つ。ただ、それも彼女の美貌を損なうことはなかった。その瑕疵が、彼女に親しみやすさを添えている。
「どなたでしょう?」
「私は、マリー・アドラー。お隣の芸術学校に属しているわ」
珍しい。未だ、女性が社会に出ることは稀だ。ただ、狩猟生活時代の名残のように、意味も無く家庭に縛りつけられるものだ。
芸術分野ならば、尚のこと。女性のそれは、ただのお遊びと軽んじられる。
それでも、なお、彼女はここに立ち、心からの笑みを浮かべているように見えた。
「ふむ?私に何の用向きでしょうか?」
「貴方に、絵を見てもらいたいの。私の絵をね」
最後に、ウィンクを決めて彼女は、私に鑑賞の依頼をする。しかし、何故?
「貴方のお友達に勧められたのよ?ほら、紳士的なフランス人の彼よ」
「あぁ、なるほど」
あぁ、なるほど。友のお節介か。
「わかりました。拝見致しましょう」
……
「これよ」
そう言って、彼女は真っ白な覆いを取り払う。
そこから、現れたのは、宇宙だ。
青と赤と白と黄色と黒と緑と、およそこの世の全ての色で塗られたかのように鮮やかな宇宙。
見たところ、地球は無い。
あるのは、いくつかの小惑星。
それが、私には、地球が崩壊した姿に映った。
「どう?」
不安げに、彼女が問う。
「……」
ただ、私は無言で、涙を流した。
……
それから、私は、一つの研究に没頭するとともに、彼女との交流を続けた。
彼女の絵を鑑賞するだけの、曖昧で、かけがえのない時間。
けれども、私は、大学を追放される。
そして、彼女は、その後、アメリカに渡った。その才を、花開かんがために。
腐敗した霧の街ロンドンで、私は、膿を取り除き。
私の研究を、実現する手段を模索した。
彼女は、風の便りで、結婚したことを知り、娘ができたことを知り。
たった一通だけ、手紙を送った。
知育玩具の設計図を。
……
頭が真っ白に。
滝壺に叩きつけられたようだ。
「バカね、ジェームズ。どうして、私について来て欲しいと言えなかったの?」
あぁ、これは幻聴だ。けれど、彼女の声だ。
すまなかった。ただ、私は不慣れだったんだ。こんなことなら、あの友に、教えを乞うべきだったな。
「ふふ、わかっているわ、ジェームズ。私の絵に感動した唯一の人」
さぁ、行きましょう。私も一緒に、堕ちてあげる。