獺祭 ~坂口さんの話~
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泥の中に墜ちる瞬間、自分だけ汚れることを恐れたぼくは、周りに泥を飛び散らせた。
遠くの方で、泥が付いたぞ!どうしてくれるんだ!と言う怒鳴り声が微かに聞こえたが、
泥の中でもがいていたぼくは、その声に反応する余裕など無く、必死で手を伸ばした。
誰かを道連れにする為に?
いや、そうじゃない。早くここから出して欲しかったのだ。
泥に墜ちる瞬間から。
ぼくはずっとSOSを送っていた。
もしかしたら本当に誰かを道連れにしてしまうかも知れない。
そう思い、徐々に抵抗するのを止めた。いつしか汚れにも鈍感となりぼくは泥になった。
ふと鏡を見ると、その姿はまるで別人であり、ただそれさえも時間が経てば肯定出来た。
サラリーマンをやっていた頃のぼくは。
ぼくの心は、泥の中で、泥として生きた。
無理矢理誰かを引きずり込むようなことはしなかったが、それでも。
足を踏み入れた者たちを、早く泥にまみれさせてやろうと助長した。
中途半端でいることの方が苦しいので、早く泥になれるように手助けをした。
きっとたくさんの人の心を奪ってしまったと思う。
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オフィスビルの1階がローソンになっていて、そこでハイボールを買うのが習慣になっていた。
音楽を聴きながら東京駅まで歩きながら飲む。
音楽に合わせて跳ねるように歩いていると、少量ながら全身にお酒を染み渡らせることができた。
今年は例年以上に梅雨明けが遅い為、1日の内に何回も雨が降ったり止んだりする。
雨がパラついている時に傘をささずに歩いていると、缶と口の間に雨が入り込む。
雨って酔っぱらうんだなぁと、自然のイタズラをそのまま受け入れることができた。
横浜に付く頃には雨も上がり、生ぬるい匂いが切ないくらいに愛しくて、夜に変わる前の僅かな光に身を委ねた。
さて、今日は内装業者さんと打ち合わせだ。
あと少しでBARをオープン出来る。
退職の日も決まり、新たなステージが出来上がる前に。
ぼくの心はとても穏やかに高揚していた。
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内装業者さんとの打ち合わせを終えると、ぼくは行きつけのスナックへ向かった。
週1回はスナックへ行き、1週間の活動報告をママにする為だ。
ママは相槌を打つだけで、アドバイスも無ければもちろん否定もしない。
ぼくは自分の行動を言葉に出すことで、それを客観視したかったのだ。
ママもそれをわかっていたので、ただただ相槌を打つだけに徹してくれた。
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ぼくの活動報告を聞いてくれている人が他にもいた。
以前から時々お見掛けしていたのだが、話したことは無かった。
いつも本を読まれているので、まさかぼくの話を聞いてくれているとは思わなかった。
後から聞いた話では、密かにぼくの活動報告を楽しみにしてくれていたらしい。
ママに「あの子は次いつ来るのかなぁ、楽しみだなぁ」と話してくれていたそうだ。
坂口さんのご年齢は80歳で、少し小太りで顔は強面だが、とても清楚な身なりをしていた。
ハイボールを2、3杯飲むと眼鏡を外し、両目の眼球を寄せるように強く押さえる。
しばらくすると「今日はこれで帰ります」と紺色のミルキーハットを被って帰っていく。
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ある日坂口さんから声を掛けられた。
「ぼくの方が後に来たのに先に帰ってすみません。どうぞ楽しんで行って下さい」
続けて
「ぼくの名前は坂口と言います。またお話を聞かせてください」
と言って帰られていった。
突然の話しかけられたので少しビックリしてしまった。
ぼくは「いえ。おやすみなさい」とだけ返事をした。
すると坂口さんはニッコリ微笑み、店を出た。
そろそろぼくも帰ろうかと思い、お会計をお願いした。
すると今日のお会計はすでに坂口さんから頂いていることを知らされた。
「あの子は夢に向かって頑張っているので今日はぼくが払います」と言ってくれたそうだ。
申し訳なく思っているぼくに、今度お礼を言えばいいじゃないとママが言ってくれたので、その言葉の通り、有難くご恩を頂くことにした。
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少し夏が顔を見せたかと思えば、夕方になると鉄筋コンクリートの間を風が駆け抜け、まもなく町は冷やされていった。
「お久しぶりです。先日はご馳走頂いてありがとうございました」
「お店の方は順調ですか?」
「はい。早ければ年内にオープン出来ると思います」
「お店はこの近くなの?ぼくも行ってもいいのかな?」
「はい、是非いらしてください」
「ぼくはお友だちがいないからね。あなたのお話を聞くの楽しみにしていたんです」
「じゃあ、是非お友だちになってください。いつでもお話を聞いて下さい」
「ぼくとお友だちになってくれるの?それは嬉しいな」
日中、アクセル全開で走り、ひと段落してお酒の飲み始める頃。
マフラーが冷えた時になるチッチッチという金属音が鳴り響いている気がした。
そこに坂口さんの丁寧で紳士的な言葉が重なると、尚心地よかった。
「ママさん。ぼくはこの子とお友だちになりました。この子はとてもいい子なのでぼくとお友だちになってくれました」と坂口さんは嬉しそうに笑っていた。
お友だちという響きが何だかとても新鮮で、泥の中からぼくの心を救い上げ、綺麗な水で丁寧に洗ってくれているような気がした。
それからスナックで会う度、坂口さんの現役時代の仕事の話や、奥さんやお子さん、お孫さんの話を聞かせてもらった。10月頃、福島に住んでいる親戚が美味しい桃を送ってくれたとのことで、大きな桃を5個もくれた。
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年明けの1月に念願のBARをオープンすることが出来た。
オープンしてから激動の半年を過ごし、夏の初めにようやくいつものスナックに顔を出すことが出来た。
坂口さんから預かったとご祝儀を渡された。
ご祝儀袋の中にはご祝儀と手紙が入っていた。
坂口さんは2月に亡くなっていた。
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-親愛なるお友だちへ-
まず初めに。ぼくとお友だちになってくれてどうもありがとう。
あなたが話してくれた夢に、老人ながらとても心が躍りました。
ぼくはお友だちとして、あなたに何が出来るのかなと考えていたのだけれど、
本当は会社時代の仲間に声を掛けて、お店にいくことが一番だと思いましたが、
最近少し元気が無くなって来たので、僅かですが開店祝いを送りたいと思います。
それから神田明神で商売繁盛のお祈りをしてきました。
その時の御守りも一緒に入れておきます。
ある夜、あなたは社会人として生きて来た中で、たくさんの人を傷つけてしまったかも知れないと落ち込んでおりましたね。それはぼくも全く同じで、ぼくも社会人人生の中で、たくさんの人を傷つけてしまったと思います。
ただぼくの場合は途中でそのことに気づかず、人を傷つけ、自分もたくさん傷ついたまま、会社人生を終えることになりました。ぼくは、朝から晩まで、土曜日も日曜日も、血も骨も全て会社に捧げて仕事をしておりました。そういう時代でした。その為、学生の頃の友だちとは疎遠になり、人間関係は会社の中が全てとなっていました。
定年を迎えると会社の仲間とも疎遠となりました。
そこで初めてぼくはお友だちがいないんだということに気づきました。
ぼくはお金を稼ぐことと引き換えに、大切なものを失ってしまったのです。
本を読むことが好きだったので、毎日本を読んでおりました。
お酒も好きで、毎日は飲みませんが、たまに飲んでいました。
でも、独りで飲んでいるととても寂しい気持ちになってしまうので、
スナックに行き、そこで本を読みながらお酒を飲んでいました。
そこであなたと出会い、本を読むふりをしてずっとあなたの話に耳を傾けておりました。
うまくいったことやいかなかったこと、嬉しそうに話したり悔しがったり。
ぼくもあなたのように仕事が出来たら良かったなととても羨ましく思いました。
そして、勇気を持って声を掛けた後。
その後、あなたからお友だちになってくれると言われた時はとても嬉しかったです。
どうもありがとう。
あなたが思う通り、もしかしたらあなたは誰かを傷つけてしまったことがあるのかも知れません。
でも、あなたに救われたお友だちがここにいたことも、どうか忘れないでください。
ぼくの故郷は山口県の岩国というところにあります。
獺祭という美味しいお酒があります。
獺祭をあなたのお店で飲めたら嬉しいなぁ。
元気になってあなたのお店に行きたいです。
あなたのことだからきっと素晴らしいお店になると思います。
お客さん商売は体が資本です。
決して無理はせず、たくさんの人を幸せにしてあげてください。
あなたのお友だち坂口より
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このBARには獺祭を常備している。
泥の中にまみれ、泥に染まり、自分を見失い、そこから抜け出したあと、
優しい言葉でぼくの心を綺麗にしてくれた、大切なお友だちの為に。
いつかそのお友だちと一緒に獺祭を飲めますように。
出逢えたことを心から感謝しています。