Sex On The Beach ~麻衣の話~
仕事を一通り覚えるのに3 年が経過した。
上司にも頼られるようになり、後半にもアドバイスをして、自分の工夫で仕事を進められるようになると、モチベーションも上がり、とにかく仕事が楽しくなる。
20代後半男子の優先順位ランキング第1位が仕事となる確率はすこぶる高い。
一方、周りが結婚し始め、この波に乗り遅れまいと決死の求婚活動を行う20代後半女子も少なくない。
「仕事と私どっちが大事なの?」という問いかけに対し、恋愛教科書では「そんなに寂しい想いをさせてごめんね」というのが正解らしいが、男子の本心は仕事一択なのである。
段々レベルが上がってきて、雑魚は簡単に倒せるようになり、いよいよボスに挑んでやろうとしているところに、お母さんがファミコンの周りをガーガー掃除し始めたら邪魔以外の何者でもない。
掃除が終わるまで中断している間も、なるべくMP を消費せずにボスまでたどり着く方法や、攻撃役と回復役の役割分担をひたすらイメトレしている。
このような上の空状態の時に、「勉強しなさい」と言われても全く無意味なのである。
またセーブする前に、コードとコードが絡み合い、本体が僅かに動いたかと思えば、一瞬にして画面が灰色になろうものならば、全てを失ったかの如く泣き叫び、怒り狂うのだ。
男子の本質は子供の頃も大人の頃も変わっておらず、何かに夢中になっている時はとにかくは放っておいて欲しい生き物なのだ。
やらなきゃいけないのはわかってる。
その内勉強もするし、結婚もする。
が、今ではない。
頼むから放っておいてくれ。
この一言に尽きるのた。
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付き合っているか付き合っていないか曖昧な恋愛が多かったぼくだが、麻衣との恋愛は始まりと終わりがはっきりしている。
とかく終わりに関しては明確で、2008 年8月1日、神奈川新聞花火大会が別れの日だった。
結婚をするかしないかの話の末、結婚しない意思をはっきり伝えた為、別れることになった。
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2008年8月1日
ドラマのクライマックスシーンであれば涙に包まれて別れるところだが、別れ際に色濃く感情を残してしまうと、直後の喪失感に耐え切れず、場合によっては引き戻そうとしてしまうこともある為、当日は極力淡泊になるように努めた。
手も繋がず、もちろん涙のキッスもしていない。麻衣はたこ焼きを買って、ぼくはトウモロコシを買った。別々に並び、別々にお会計を済ませた。花火を見て別れると言う目的に向かい、淡々とデートを進め、そして終わりを迎えた。
「本日の工程はこれにて終了ですか」
「だね。お疲れ!ありがとう。」
麻衣の顔を見ずに返事をした。
「最後にキスさせろとか言われたら引っ叩いて帰るつもりだったのにな。」
「危なかったー。それじゃあ。元気で。」
帰りの電車に乗っている時メールが来た。
“やっぱり結婚は無理なのかな?”
次の日、“うん。ごめん。”とだけ返信した。
人目をはばからず号泣しながら書いた長文のメールを送信していたら、もしかしたら別の未来がやって来たかも知れない。
それから1 年後、友人から麻衣が結婚したことを聞いた。少し寂しさに似た感情があったのと、それ以外は純粋に麻衣が幸せになったことを嬉しく思った。
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麻衣との時間は過去になり、動きを止めた。新たな時間が重なることはもう無い。
過去は過去のままである。
思い出が美しく見えるのは、絶対的な不変性に安心感があるからであろう。
2008 年の夏の夜に終わった恋愛はとても美しかった。
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時間が動き出し、過去を共有すると新しい今と未来が創られ、それまであった過去は微かに形を変える。
過去は過去ではなくなる。
これが良いのか悪いのかは当人同士次第だろう。
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「いらっしゃい・・って麻衣?」
「久しぶりー。来ちゃった。」
「ビックリしたぁ」
「えへへっ。すぐ麻衣だってわかった?」
「一瞬でわかった。誰から聞いたの?」
「お店のこと?ソウくんからだよ。」
「そっかぁ、久しぶりだね」
「だねー。お酒飲んじゃおうかなー」
「麻衣お酒飲めるようになったの?」
「飲めないけど売上に貢献してあげる。」
「そいつはありがたい。」
「なんかおススメある?」
「あまり強くない方がいいよね。」
「うん。お酒知らないから名前で決める」
「そうだな。Precious heartなんてどう?」
「いいね!可愛い。でも刺激が足りない」
「After Midnight っていうのもあるよ」
「う〜ん。可愛さが無くなった。」
「Aroma trapなんてどう?」
「おっ!わかってきたね〜」
「Kiss Me Quick」
「あっ。それいいかも。」
「Sex On The Beach」
「はは~ん。さては麻衣を抱く気だな?」
「抱かねーよ」
「じゃあね、今日はKiss Me Quick」
「かしこまりました」
「Kiss Me Quick だけだよ。」
「だけって何だよ。」
「Sex On The Beach は無しだからね。」
「キスならいいの?」
「鼻の下伸びてますよ、マスター。」
「待って。2秒で冷静さを取り戻す。」
「最後のデートでキスしなかったよね。」
「そうですね。」
「1回分残ってるよ。」
「からかうなよ。」
「本当に残ってたらどーする?」
「冬のコートを出したらポケットに千円入っていた気持ちだよ。」
「あははっ。千円やす!」
「生きてりゃいい事もあるもんだって。」
「すごいね。自分のお店持つなんて」
「苦労したよ。今もしてるけど。」
「その点麻衣はダメ。何をかも中途半端」
「捉え方よ。中途半端は道半ばでもある」
「ううん。違う。やっぱり中途半端」
「荷物が多いのかも知れないね。」
「抱えているものってこと?」
「そう。不要な物を少し捨てた方がいい」
「例えば?」
「SNS。いらないでしょ。」
「ネットニュースも見てるんだよね。」
「感性が鈍るよ。量が多くて質が悪い」
「確かに。コメント蘭に左右されてる。」
「ニュースはNHKに限る」
「オモロくないしな〜。」
「情報の入手先は限定した方がいい」
「それはそうかもね。」
「あと会社の忘年会。」
「断れないよ、また職場で会うわけだし」
「行かないとウダウダ言う人いるの?」
「いるよ~特に女子は」
「何が忘年会だよ、昨日の事すら忘れてねーじゃねーかって。」
「あははっ。絶対言えない。」
「いらないもの捨てていけば、必要なものだけに時間を使うようになる」
「頭ではわかっているんだけどね。」
「モノが溢れる時代だからさ。不要なモノを捨てて行かないと押し潰されちゃうよ」
「捨てるのって勇気いるよね」
「ストレスで爆買い、爆食いする人いるけど、逆。ストレス溜まったら捨てまくる。」
「お金掛からなくていいね」
「心が疲れてるのに更に負担増やしてどうするのって。」
「確かに。服買って、インスタ上げて、いいね待ちして、いいね少ないと凹んでる。」
「疲れた時は断捨離、断食に限る」
「断捨離しようかな。」
「大切なモノだけ捨て間違えないように気をつけてね。」
「麻衣のことも捨て間違えた?」
「いや、捨てたなんて・・」
「マスター」
「はい。」
「Sex On The Beach」
「やめい。」
このBAR にはSex On The Beach を常備している。
10 年前に止まってしまった時間が再び動き出す瞬間に起こる、何とも言い知れない懐かしさと照れを隠す為のアイテムとして。