めちゃくちゃ酸っぱいレモンサワー〜小暮の話〜
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ヘドロのように纏わりつき、蒸発したかと思えばやがて黒煙となったそれは、ゆっくりとぼくの体に入り込み、そして徐々に支配していった。
この違和感に耐え、全てを受け入れてしまえば、存在意義などと言うことに縛られもせず、ヘドロとして思考停止したまま人生を全う出来たと思う。
このまま受け入れるべきか抵抗すべきか、その葛藤には随分時間を費やした。
結果、小さなBAR を経営することを選んだわけだが、黒煙から抜け出せた安堵と、そのまま支配された方が案外楽だったかもしれないと言う後悔が、20倍速のさざ波動画のように行ったり来たりした。
BARの経営は刺激的ではあるが決して楽ではなかった。お客さんの悩みを聞いて、粋な返しでもするもんだと思っていたが、悩みを聞いて欲しいのはこっちの方だ。
確かに黒煙は晴れ、毎日新鮮な空気を思いっきり吸い込めるようになった。ただ、立っているそこは断崖絶壁で、踏み間違えれば死すらあり得る。呑気に新鮮な空気を吸っている場合じゃない。落ちないように、しかしなるべく早く次の場所に行かなくてはならない。
“行動力”や“自分時間”、“成功の法則”と言ったような、黒煙生活者にとってはとても煌びやかで、羨むような言葉を投げ掛ける商売人を見かけるが、それらは入念に編集された成功パターンを見せているだけで、実際の独立/起業は過酷を極める。確かに人間関係に悩むことは無くなったものの、それと引き換えにこの飽食時代において、もれなく餓死と向き合うことになった。
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小暮が入社したのは、ぼくがサラリーマンを辞める1 年ぐらい前だったと思う。
中途社員は半年間の工場研修を受けるのだが、研修先の先輩社員は通常業務と掛け持ちで教育を行う為、教育に割ける時間は1日1.2 時間しかなかった。
この為、研修生の主たるミッションは睡魔との闘いとなり、新卒はともかく今までそれなりに仕事をしてきた中途採用者は、時間の浪費に耐えられず研修期間中に辞めてしまうことも少なくなかった。
何とか研修に耐えた者は、ようやく実践投入されることになるのだが、その頃にはすっかりモチベーションが低下している。その状態から残業100時間の業務を背負わされることになるので、心と体を壊してしまう人をよく見かけた。
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小暮の研修期間中に2回程工場へ行く機会があった。彼は2回とも筋トレに汗を流していた。
ソリティアの腕前だけ向上する毎日に嫌気が差し、どうせならと言う事で筋トレを始めたらしい。
午前、午後に2時間ずつウォーキングを行い、上半身と下半身を丁寧に鍛え上げているそうだ。
「こんなに自分の体と向き合ったことは初めてですよ。」と笑顔で語る小菅に、何とも言えないたくましさ感じた。
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小暮が来てくれたのはBARをオープンして間もなくの頃だった。
相変わらずの明るさはあったものの、逆境を乗り越えて行く以前のようなたくましさはすっかり消えていた。小菅もまた黒煙に耐え切れずにいた。
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「どもっお久ぶりです」
「おぉ、来てくれたのか、ありがとう。」
「そりゃ来ますよ、脱サラの星ですから」
「かっこ悪いなそれ。何飲む?」
「ビールで。どうですかお店の方は。」
「ご祝儀来店様様だな。勝負はこれから」
「いいなぁ。おれもお店やろうかな。」
「やっちゃいなよ。」
「結構マジで考えてて。」
「何のお店?」
「ガールズBAR に近い感じですね。」
「意外に安定感あるよな。ガールズBAR」
「ガールズBARの進化系ですかね。」
「そう言うのは流行り廃りがあるよ」
「脇BAR ってどう思いますか?」
「脇BAR?」
「おれ脇フェチじゃないですか。」
「知らねーよ」
「脇を見ながらお酒飲みたいなって」
「わからなくはなくもない。」
「いろいろコースとかもあって。」
「どんな?」
「チラ見コースとか、ガン見コースとか」
「ほう。」
「情けないリーマンだいたいチラ見!」
「なんでラップ調なんだよ」
「金払えば出来るよ、堂々ガン見!」
「ちょっとオモロイ。」
「チラ見もガン見も1時間3,000円です。」
「同じ値段なの?」
「サービスは基本同じなんで。」
「まぁ、コースって言うか客次第だしな」
「ガン見コースは女の子が『ガン見しないで下さいよぉ』って言ってくれます。」
「それは中々いいね。」
「チラ見コースは『チラチラ見てんじゃねーよ、クソジジイ!』ってキレられます。」
「なるほど。SかMかでわかれるんだね。」
「この前、指原莉乃が脇見られるぐらいなら死ぬって言ってました。」
「嫌な子はホント嫌みたいだよね。」
「それをお金払えば見られるってめちゃくちゃ興奮しませんか?」
「発想はいいと思うけどな。」
「ですよね。イケそうですかね。」
「女の子の募集とか、トラブルとか課題は多いだろうな。あと事務所との絡みかさ」
「思いついた人は他にもいると思います。やらなかった理由もたくさんあるはずで。」
「課題は知恵で乗り切れるけど、リスクの排除は金が掛かるからな。金は重要だよ。」
「借金します。車買うと思って。」
「前のめってるな〜」
「今の会社にいるとヤバイ気がするんですよ。生きている意味を失うというか。」
「すごくよくわかる。」
「恐怖心がおれを突き動かしてます」
「そこだな。好奇心で動いた方がいい。好奇心を止めるのが恐怖心。恐怖心で動いてもうまくいかない。いい方向にいかない」
「あっ、何かしっくり来ました。」
「会社の言い表しようの無い闇は知っている。でもこっちも別の意味で残酷だよ。」
「好奇心が無いと乗り切れないってことっすね。」
「そゆこと。」
「すんません。めちゃくちゃ酸っぱいレモンサワーありますか?超酸っぱいやつ。」
「後輩不安よな。マスター作ります。」
「若干古いですね。」
BAR にはめちゃくちゃ酸っぱいレモンサワーを常備している。
恐怖心を少しだけ和らげ、好奇心がたくさん生まれますようにと願いを込めて。