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ナイン・テイルズ

或いは蜃気楼のように

作者: 穹向 水透

六作目の短編です。普段、空想しているものを書きました。



 夏であることを主張するように空が青い。遠くの方で大きく嵩張った白い雲が、城のように聳えているのが見える。

 昨日の夜、二時頃まで降り注いでいた雨は、少しだけ気配を残して、あの白い城の向こう、地平線の奥へ姿を消した。ペトリコールの残り香だけが、その雨を繋いでいるのだ。

 僕は電車に揺られている。始発に乗ったのだが、車内は明け方のように静かで、斜め前の席に座っている長髪でセーラー服の少女しか確認できなかった。少女は眠っているのか、音楽を聞いているのか、どちらにせよ深く眼を瞑って、窓の外の風景など気にもしないようだった。

 窓の外は、海のように一面の青が広がっている。空よりも深い青で、飲み込まれそうな印象がある。時折、小舟が通る。船頭と乗客のふたりのみが乗っており、棒のようなもので水を掻き混ぜているが、彼らは流れに身を任せているように思えた。しかし、そもそも、流れなどないようで、棒を使うしかないということもわかった。

 少し電車が走ると、水が消えて、陸地が現れた。眼を凝らして見ると、灰色の物体が規則正しく並んでいるのが見えた。恐らくは墓石だろう。その群れは何処までも続いていて、ついには次の駅まであった。駅の名前は「四方霊園前駅(よもれいえんまええき)」。自動販売機しかない無人駅で、花束を持った若い男だけがホームにいた。誰も乗り降りしないまま、電車は再び動き出した。花束の男が、すぐにぼんやりと青に歪んで溶けていく。墓石の灰色も流れるように溶けて、ひとつの塊のようになる。

 僕がいるのは二号車だったのだが、乗客は僕と例の少女、そして隅にひっそりと立っている男だけだった。男の顔が妙に紫色で、ずっと譫言を流しているのが気になったが、僕が干渉する必要性は感じなかった。先頭車両から車掌らしき人が出て来ると、その男に「乗る電車をお間違えですよ」と声を掛けて、奥の車両に行くように促した。車掌は先頭車両に消えて、二号車には僕と少女だけになった。

 僕は相変わらず窓の外を見ていた。景色は再び青一色に染まっている。遠くで鯨が跳ねた。白い鯨だ。その水飛沫と波が、近くを漂っていた小舟を弄んでいた。可哀想に何艘か転覆したようだ。ただ、それでもすぐに海は穏やかに戻って、空と同化していく。逆さまの舟、無人の舟が海に沈んでいく。まるで呑み込まれるように。

 僕が車内に眼を向けると、少女は眼を開けていた。大きくて、透き通った眼で、こちらを見ている。

「何か?」

「いえ、何も」

 彼女の声は、空に浮かべた泡のように冷たくて高かった。少し機械的な発音で、その時に覗く歯の白さが印象的だった。

「君は何処へ?」と訊ねた。

「あなたこそ何処へ?」と返される。

「僕は特に決めてないよ。行く宛なんかない」

「私は三つ先の駅で降りる」

「僕はどうしようか?」

「知らないけれど、一緒に降りる?」

「そうするよ。どうせ行く宛なんかない」

 少女は再び眼を閉じる。車内は再び凪いだように静まり返った。僕は窓の外を眺める。大きな船が煙を吐きながら進んでいるのが見える。吐き出された白い煙は、すぐに青い大気に溶けてしまって行方知らずだ。暫くすると、また陸地が見えて、今度は街が広がっていた。そして、アナウンス。次の駅が近いようだ。

 赤い屋根の街を突き進んで、電車は「灯街一丁目(ひまちいっちょうめ)」という駅で止まった。三号車からひとり降りて、三号車にひとりが乗った。降りたのはスーツケースを携えた若い女で、自分探しの真っ最中といった風貌をしていた。彼女は迷いなく歩き出して、赤い街に消えていった。

 相変わらずふたりだけの二号車。僕は加速して潰れていく街を、灯街一丁目を眺めていた。そして、また景色は青に切り替わる。遠く遠く、背景となっている積乱雲は、膨らんだり、縮んだりして、まるで遊んでいるようだった。

「君は何処から?」と訊ねると、少女はゆっくりと眼を開けて、「あなたこそ何処から?」と返した。

「僕は東京駅からだよ」

「私は何処からだっけ」

「さぁ? 憶えてないの?」

「ずっと、この電車に乗ってるから」

「どうして降りないの?」

「降りたくないから」

「でも、あとふたつ先で降りるんだろう?」

「うん」

「何故?」

「東京駅はどんな様子だった?」

「混雑していて、少し不安だったね」

「何が?」

「この電車も満員だったら、って」

「有り得ないから大丈夫」

「で、あとふたつ先だろう?」

「漸く辿り着いただけよ」

「どのくらいかかった?」

「二年とちょっと」

「君はずっと何をしてた?」

「眼を閉じていた」

「何が見えた?」

「海と青空」

「ずっと?」

「変わらないまま」

「雨は?」

「降らなかった」

「喉は?」

「渇いてないから平気」

「涙は?」

「それは無粋」

 少女は眼を閉じる。アナウンスが聞こえて、次の駅が「海坂(うみさか)」だとわかった。駅の名前の通り、窓の外の青が段々と傾いて、水面が上昇していくのが見える。何艘もの舟がひっくり返らないように、慎重に慎重に坂を下っている。途中で転覆したものは、青に吸い込まれて戻らない。

 三号車から若い男が入ってきた。肩まである髪は手入れをしていないのか、ぐしゃぐしゃとしていた。彼は僕の近くに立ち、吊革を握った。

「すいません、次が海坂ですよね?」

 彼は見掛けよりも丁寧な口調だった。

「そうらしいです。すいません、僕、初めてなので」

「僕もですよ。あなたはどちらへ?」

「行く宛はありません」

「どうです? 海坂で降りませんか?」

「あぁ、申し訳ないのですが、もう先客がいるので」

 彼は後ろを振り返ると、そこには眼を瞑った少女がまるで幽霊みたいに座っている。

 彼は「そっか、残念だなぁ」と言って三号車に消えた。

「危なかった」と少女は言う。

「一緒に降りようって言葉は聞かない方がいいよ」

「どうして?」

「降りたら、もうそこから戻れないよ。特に海坂は降りちゃダメ」

「何かあるの?」

「船着き場だけ」

「そうなのか」

「良かったね。私と先に逢って」

「君は? 彼と同じ?」

「違う。あんな卑怯なことはしたくない」

 アナウンスが流れて、電車のスピードが落ち始めた。海坂駅だ。見渡しても、少女の言った通り、船着き場らしき建物しか見つからない。この駅で、十人近くの乗客が降りたようだ。さっきの男も降りていた。

 再びアナウンスが流れる。どうやら、電車にトラブルがあったらしく少しの間、この駅で停車するとのことだった。

「酷い話」と少女。

「きっと、海の所為ね。よく車輪が錆びてしまうの」

「改善しないの?」

「頭が空っぽだからしないと思う」

「どのくらい止まってる?」

「大体、二十分とか」

「どうする?」

「少し、歩くわ」

「戻れなくならないの?」

「誰かについていかなければ大丈夫」

 少女は鞄を持って、駅のホームに足を着いた。鞄には、水色の球体と銀色のリングからなるキーホルダーが付けられていた。

「僕も行くよ」と席を立って、ホームに足を着く。コンクリートの感触が靴を伝ってきて、気分的な疲労を引き起こした。少女はホームの端に立って、僕に手招きしている。

「見て」と彼女が指差した先には、少し赤くなった車輪があった。

「本当だ。錆びているんだね」

「定期的になるの。頭が空っぽだから」

 少女は歩き出して、ホームを出た。僕も見失わないように歩き出す。鞄のキーホルダーが揺れて、微弱な光を反射させる。銀色のリングがくるくると球体の周りで踊っている。少女のローファーが雲みたいにゆっくりと上下して、そのうちに止まった。僕らの眼前に広がるのは、凪いだ海。船着き場にすら波はない。

「寂しくなるでしょ?」

「波がないことが?」

「そう。この海には変化がないの」

 彼女は近くに落ちていた棒切れを拾って、海に突き刺した。

「永遠って言ったら聞こえはいいかもしれないけれど、漠然としてて怠慢だから、この海は嫌い」

「僕はどうだろう」

「あなた、ずっと窓の外を眺めてたけれど、何かあった?」

「何も。ただ凪いでいる海が広がっていた。あぁ、でも、鯨を見たよ。モビーディックみたいに白くて大きい鯨を」

「『白鯨』ね? 生憎だけれど、読んでないの」

「奇遇だね。僕も読んでない」

 彼女が棒切れを突き刺したまま手離すと、それは沈まず、倒れもせず、その場で浮かんでいた。というより、固定された、と言った方が適切に思えた。

「ほらね、これが永遠」

「酷いもんだ」

「でもね、大丈夫。じきに沈んでいくから」

 彼女がそう言った傍から、棒切れは誰かに吸われたように、立ったまま沈んでいった。まるで、瀝青のようだ。

「この下には何があるの?」

「さぁ? 海底じゃない?」

「何だ、それだけか」

「何を期待してたの?」

「地獄かな」

「現実的な考えで好きだよ」

 彼女は笑って、鞄の中から腕時計を出した。

「戻ろうか」

「うん」

 さっきの道を再び通って、ホームへ戻る途中、電車の男を見た。男は高校生くらいの少年と肩を組んでいたので、目的は達成されたのだろう。同時に少年の行方が気になったが、それは空の青に浮かべて割った。呼吸をすると、空気が抜けて、萎むような感じがする。後ろを振り返ると、誰かが海に飛び込んだようで、派手な音と騒ぐ声が聞こえた。少女が「自殺?」と呟くので、「好きなんだよ、きっと」と言った。「物好きなんだ? あんなの一回で満たされると思うけれど」と彼女は笑う。今更だが、彼女の笑みは幼い時の面影が色濃く残っていて、可愛らしかった。

 僕らが電車に乗り込んで、元々いた席に座り込むと、アナウンスが流れた。トラブルが解決したとのことで、五分後に発車だそうだ。確かに、五分後でトラブルからちょうど二十分だ。少女を見ると、眼を瞑っていた。それは、何も見たくない、という意志の現れのように感じられた。

 電車が揺れて、僕も少女も揺れる。

 海坂駅が遠くに霞んでいく。

 そして、また青い青い凪いだ海が漠然と広がるばかりになった。

 永遠と言ったら聞こえはいいけれど。

 そんな少女の言葉を思い出す。この海は永遠に続くが、そこに希望など存在しない。浸かれば沈み、浮いても行く宛はなく、小舟のみが、宇宙に浮かぶ地球のように、唯一の居場所となる。また一艘、ひっくり返って、海に呑まれていく。そして、海は穏やかになる。

 がたんがたん、と心地好い音の中、半ば呑み込まれたように海を見ている。海坂からどのくらい経っただろう。いくつかの小島が見えた。どれも草木の乏しさが遠く離れた電車から判別できる。唯一、高い椰子が立っている島があり、そこに人が座っているのが見える。確かに、島にいれば沈まず、呑み込まれない。けれども、舟もなく、それを作る道具も材料も満足にないということは、もう何処にも行けないということなのだ。海に呑み込まれなくとも、いずれは、あの青い青い空に呑み込まれてしまうだろう。それも人世だ、と思ったが、すぐに考え直した。

 段々と海が浅くなり、陸地が見えてきた。緑が一面に広がっていて、街も船着き場も見えない。電車がスピードを緩め始めたので、駅が近いということだ。つまり、僕らの降りる駅なのだろう。

 電車は、荒れ果てたホームに入っていく。

「座ってて」

 僕が席を立とうとすると、少女が言った。

「どうして? ここじゃないの?」

「違う」

 アナウンスが流れ、一時停車をするとのことだった。また錆びたのだろうか?

 駅のホームには「朝瀬(あさせ)」とある。

「ここで降りたらダメ」

「どうして?」

「ここは廃駅なの。廃駅で降りたら、もう戻れない」

 見ると、四人ほど降りていた。彼らは足早に駅から消えて、遠くの何もない緑一面の平原に向かっていった。

「この駅、何があると思う?」

「何もない?」

「そう、何もないの」

「……?」

「文字通りね」

「彼らはどうなる?」

「海に飛び込むか、平原で永遠を過ごすか」

「君なら?」

「どうしようかな」

「僕は飛び込むよ」

「意外」

「え?」

「あなたは、平原で無為に過ごすのかと思ってた」

「心外だな。僕だって変化が欲しいよ」

「ずっと、海を眺めてるのに?」

「それなりに変化はあるさ」

 僕は窓を指差して言った。

「君だって、眼を閉じて何をしてるの?」

「夢を見てる」

「どんな?」

「青い空と海」

「他は思い出せる?」

「残念だけど」

「そうか。ところで、君はここに来たことがあるの?」

 彼女は頷く。

「何回か巡って、ようやく降りたいと思える場所を見つけたの」

「ちょっと、楽しみだなぁ」

「それは良かった」

 彼女は眼を閉じる。夢を見るようだ。

 アナウンスが流れて、二分後に発車するということだった。さっきの四人は戻らない。僕は知らなかったら降りていたかもしれない。この少女に出逢わなかったら。

 電車が揺れる。加速する。あの廃駅を置いていくように。少女が眼を開けて、「次だからね」と言う。「わかってるよ」と返す。僕はいつも通り、海を眺めている。さっきまでの景色とは変わって、海から沢山の柱のようなものが伸びている。どれも錆びが酷く、今にも崩れそうだ。

「崩れそう、って思った?」

 少女が突然言う。

「思った」と僕が返す。

「崩れないよ」

「どうして?」

「永遠だから」

「なるほどね」

「簡単でしょう? どんなに錆びても、軋んでも、崩れることはできない。ずっと、無為に永遠を過ごすの」

「可哀想なものだね」

「そうかな?」

 彼女は再び眼を閉じる。錆びた柱の群れが視界を流れて消えていく。また青ばかりが広がり、僕は眼を離せないでいる。遠くで水飛沫が上がったように見えたのも、光と熱の錯覚なのだろう。幼い頃に見た、まるで黄泉の入り口のような陽炎を思い出した。あの頃の僕は、陽炎を通りたくて、陽が落ちても追い掛けていた。当然ながら、陽炎は逃げに逃げて、宵闇の到来とともに姿を晦ませるのだった。純粋無垢な僕は、どうして陽炎を追っていたのだろう。その時から僕は変わらないのかもしれない。

 廃駅を出て、青を眺めてから三十分ほどが過ぎた。まだ、降りる駅が見えない。

 さらに三十分。アナウンスが流れる。漸く、漸くだ。

 電車が止まったのは、コンクリートの簡素なホームだけの駅だった。屋根すらなく、ぽつんと自動販売機が立っているのみだった。

 その駅は「空ヶ池(そらがいけ)」という名前だった。

「降りるよ」と少女。

 僕は頷いて、立ち上がった。

 僕ら以外には誰も降りていない。電車の窓から覗いていた少年が不思議そうな顔をしているのが見えた。電車はすぐに空ヶ池を去った。

「やっと着いたのね」と少女は言って、腕を伸ばす。彼女の腕は、太陽とは無縁の白さで、とても細く、動かすことすら躊躇われるほどだった。セーラー服と彼女の髪が海風に靡いて、夏の色を作り出す。

 彼女は自動販売機に寄って、何かを買って戻ってきた。彼女はサイダーをふたつ、手に持っていた。

「一本あげるよ」

「ありがとう」

 僕らはホームの白線より外側に腰掛けた。サイダーは淡い青をしている。それはきっと、夏の青い空が溶け込んだからなのだろう。

「そういえば、名前は?」と訊ねた。

「あなたこそ名前は?」と返される。

「僕はセイ。君は?」

「私はユウ」

「いい名前じゃないか」

「あなたこそね」

「随分と時間がかかったね」

「そうね。でも、一瞬」

「一瞬?」

「うん。思い出でしょう?」

「まぁ、そうかもしれない」

「何か憶えてる?」

「東京駅は人だらけだったことかな。それに煙草の臭いが充満してた」

「私は煙草は嫌いじゃない」

「高校生だろう?」

「誰も吸うとは言ってない」

「副流煙って知ってる?」

「間接キスみたいなものよね?」

「あぁ、それはいいね」

「でしょう?」

 ユウはサイダーを飲んだ。

「私、炭酸が苦手なの」

「何でサイダーなんかを?」

「今なら飲めるかなって」

「多分、死んでも人は変わらないよ」

「私もそう思う」

「死んで変わるのは?」

「周りだけ」

「そうなんだよな」

「うん。結局、自分が死ぬことなんて、誰も気にしない。死んだら、自分には何が残る? お金だって、名誉だって、死んだらただの記憶になってしまう」

「でも、肉体が残る」

「世界が違う」

「話だって出来る。風景だって見れる」

「でも、誰も知らないでしょう?」

「世界って狭いよね」

「私はそうは思わなかった」

「そうなの?」

「私には充分過ぎるくらい広かった。だって、行ったことも、見たこともない場所なんて両手両足の指で数えきれる? 私は無理。自分の部屋でさえ、知らないことがあるんだもの」

「僕の見てた世界は狭かったからなぁ」

「私より?」

「多分、六畳くらい」

「変わらないよ」

 ユウが笑う。

「私だって、その程度の世界。でも、私には広かった。窓から空を見た時、私には勿体ない世界だって何度も思った。息をして、私の世界を二酸化炭素で埋めてみようと思った。けれども、無理だったな」

「自分探しって大変だよな」

「何処にもないからね」

「あったら楽なのに」

「あったら探さないよ」

 僕は空っぽになったサイダーの缶を転がす。缶が線路に転げ落ちた。僕は拾うために線路に飛び降りた。水が足首辺りまであって、線路はその底にある。

「電車が来たらどうする?」

「振り出しに戻りそうだから勘弁だよ」

「私なら、受け入れる」

「君ほど僕は完成した人間じゃないよ」

「完成? 違う違う。全然。ずっと、完成しそうになっては、崩れるだけだよ。ずっと、振り出しに戻るの」

「慣れっこなわけだ?」

「もう何とも思わない」

 ユウが缶を転がす。残っていたサイダーが少し零れて、コンクリート上で泡を弾かせて、すぐに黒い染みになった。缶は止まることなく、線路に転げ落ちる。

「拾えって?」

「いいえ」

 そう言って、ユウは線路に飛び降りた。水がばしゃん、と飛沫を上げる。ローファーと靴下は脱いだようで、真っ白で陶器みたいな足がぎこちなく動いている。

「歩くの下手?」

「そうかも」

「走るのは?」

「上手かも」

 彼女は僕の元へ向かって走り出した。戦風(そよかぜ)のようなスピードだった。途中、水の所為で、転びそうになったりもしたが、無事に僕の元へやって来ることができた。

「疲れた」

「お疲れ様」

「嘘」

「知ってるよ」

 彼女は少しだけ舌を出す。

「あなたは私に似ているのかな」

「多分、僕も君に似ていると思うよ」

「運命って言葉は知ってる?」

「少なくも僕は知らない」

「奇遇だね。私だって」

 僕らは駅の端の階段からホームに上って、仰向けになった。空はずっと変わらない青だ。

「青いね」

「そうだね」

「食べられちゃいそう」

「怖い?」

「いや、別に。食べられても構わないよ」

「どうして?」

「心残りなんてないから」

「僕はまだあるかな」

「ダメだなぁ」

 ユウがくすくすと笑う。終わりのない青い空に響き渡って、雨のように聞こえた。

「ねぇ、セイ」

「何?」

「これ、何だと思う?」

 彼女は鞄の水色の球体と銀色のリングを指差した。

「星?」

「うんうん」

「天王星?」

「そうそう」

 彼女は嬉しそうに微笑む。

「綺麗だよね。私がいつか行ってみたい場所」

「行けるさ」

「そうかな?」

「行けるよ。ジャンプしてみなよ」

「うん」

 彼女はジャンプした。長い髪が、夏の風みたいに柔らかく揺れた。

「少しだけ、届きそうかな」とユウは笑う。

「届いたらどうする?」

「友達に逢ってくる」

「友達?」

「そう。少し前にいなくなっちゃったけど、彼女は言ってた。私がいなくなったら、天王星で待ってるからって」

「じゃあ、行けるよ。大丈夫」

「そうかな?」

「友達もきっと待ってるよ。君がその子を忘れない限りは」

「忘れるわけないよ。これから先、私が得るものなんて何もないんだから、大丈夫だよ」

 彼女は空き缶を投げた。僕も投げた。誰もあの青いサイダーの缶の行方は知らない。

 遠くで音がする。「次の電車だ」とユウが言った。その通りで、すぐに電車が視界に入った。電車は駅でゆっくりと止まったが、やはり、降りる人はいない。電車の先頭を見ると「病専」とあった。何のことだろう、とユウに訊ねようとしたら、彼女は乗客と話していた。

「どうして、こんな駅に?」と中年の女。

「気に入ったので」

「でも、ここからだと舟に乗れないだろう?」と、今度は老いた男。

「舟に乗るつもりはありません」

 彼女がそう言うと、乗客たちがざわめいた。

「そりゃあ、考え直しなよ」

「ずっと、このままになっちまうよ?」

 乗客たちがユウを諭そうとするが、彼女は眼を閉じて、黙ったまま。

「もう、決めたことなんです。私には天国も地獄も似合いません」

「似合わないってよりさ、生まれ変われないよ?」

「私は、今の私が好きです。生まれ変わって、私じゃなくなるのなら、このまま、漠然と怠慢に過ごしていきます」

 乗客たちは顔を見合わせ、「そうまで言うんなら、仕方ないか……」と諦めたような表情をしていた。そして、ドアが閉まり、電車が動き出す。ユウは去っていく電車に手を振っていた。

「ねぇ」

「何?」

「生まれ変わるって何?」

「知らずに来たの? 変わってるね」

「……」

「知ってると思うけど、私たちは、もう死んだ身。本来なら、舟に乗って、天国か地獄に行って、生まれ変わるのを待つの」

「そうなのか。人間って、そんなサイクルをしてたんだね」

「でも、そんなの嫌でしょう?」

「そうだね、僕も今の僕がいい」

「永遠だとしても、私は私がいい。たとえ、それが漠然としていて怠慢でも構わない」

「ところで、さっきの電車に病専って文字があったけど」

「あなた、本当に何も知らずに来たのね……。病専は、病死者専用」

「僕らは?」

「他専。つまり、他殺者専用」

「僕は殺されたの?」

「そういうことなんでしょう? 憶えてないの?」

「知らなかったなぁ。じゃあ、君も?」

「そう。ちょっと、通り魔にね」

「それはお気の毒に」

「死んだ理由さえ知らない方が気の毒だと思う」

 彼女は微笑む。戦風(そよかぜ)が髪を揺らす。透き通った瞳は、夏の暑さとは程遠い冷たさを湛えている。

 自分が殺されたこと。受け入れるとか、受け入れないとか、もうそんな話ではない。死んだことしか知らなかった。

「どうして、ここで降りたの?」

「ここには舟がないの。だから、何処へも行けないんだ。巧く流れていって天国にも、転覆して地獄にも、ここはあの世とこの世の狭間にある世界だから」

 彼女は髪を掻き上げる。

「それに、私の友達がいるのは天王星。天国にも地獄にもいないんだから、私がそこに行く理由はない」

 髪を元のように下ろして、彼女は言った。

「自分から言ったことなんだけど……、あなたはここで降りてしまっても大丈夫? 本当に降りると思わなかったから……」

「問題ないよ。行く宛なんかないし、逢いたい人もいない。だったら、この凪いだ海を、永遠の世界を眺めていたい」

「もう、電車にも乗れないし、本当に、ずっとここにいるだけになってしまうんだけど……」

「あの切符が片道切符だってことは知ってたから大丈夫。それもわかってて、ここで降りてるんだから。君は心配とか、後悔とかしないで」

「それなら、私も何も言わないよ」

 僕は思い出したことを言う。

「そういえばさ、なんであの廃駅で降りちゃダメって言ったの?」

「あの廃駅には、まだ舟があるから。でも、あなたを引き留める必要なんてなかったよね」

「まぁ、気にしないで」

 ユウはホームを歩き出して、反対側の線路へ降りた。どうやら、反対側は廃線のようで、線路は荒れ果てていた。僕も線路へ降りて、彼女の姿を追う。線路を外れると、すぐ青だけの海。

「足を踏み外したら地獄行きだからね」

 彼女はローファーを持って笑う。僕は手で水を掬って、彼女に飛ばした。水滴のひとつひとつが宝石のように、夏の青に染まって、光を帯びて消えていく。彼女は「やめて」と笑いながら言って、「お返し」と僕に水を飛ばした。

「ねぇ、これからどうするの?」

 僕が言う。

「天王星まで届くように、跳ねるの」

 彼女は言う。

「僕も一緒に行っていいかな?」

「勿論。ここまで来たんだもの。一緒に行きましょう?」

「行けるかな?」

「行けると思う」

「届くかな?」

「届くと思う」

 白い花弁が海風に運ばれて、僕らの視界で舞い始めた。その雪のような花弁の奥、彼女の透き通った眼が揺れていた。

 僕らはどうなるのだろう。

 このまま、永遠を過ごすのだろうか。

 天王星まで届くのだろうか。

 或いは蜃気楼のように消えるのだろうか。

 でも、どれでも構わない。

 君がいて、空が青い限り。

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