(九)
瞼を叩かれるような感覚。閉じた瞼の裏側へ微睡が徐々に遠ざかっていく。覚醒すると共に、長い睫毛が幾度か揺れて、この世の美を審らかにするエロスの瞳は茂みに洩れ差す光を捉えた。
光の正体を確かめようと身を起こす。傍らで眠るアフロディテを起こさぬよう、静かに褥から抜け出した。
紙蚊帳吊を掻き分け、ナイルの河畔に立つ。世界は一変していた。
空を朱に染めるのはもはや雷霆でも火炎でもない。
——暁光だ。
長き闘争は終焉を迎えたのだ。オリュンポスが勝利し、世はついにゼウスのものとなった。
再び神々は勝利を祝うだろう。その輪の中に入るつもりはエロスにはない。そもそもゼウスに味方する気は初めから毛ほどもなかった。エロスがオリュンポスの近くにいるのは、アフロディテの側にいられれば何処でも構わないというだけのことだ。エロスにとって賛美に価するものはアフロディテただ一人。それ以外は美の欠片しか持ち合わせぬ有象無象。諸手を挙げてゼウスを褒め称える連中ほど醜いものはない。
その中であの太陽神だけはまだ見る価値がある。
勝利よりも真実を重んじた。上辺だけの安寧に酔う者達に、ゼウスの世がいかに醜い骨肉の争いの上にあるかを突き付けた。
真実から目を逸らさぬ者は美しい。
如何に残酷であれど、醜悪であれど、真実は一つしかない。
陽の光は全てを白日の下に晒す。誰の利も考えず、ただあるがままを突き付ける。顕れた真実を認めて生きんとするか、知らぬ顔をして生きんとするか。享楽を知る者達の中に前者は決して多くはない。
アポロンは真実に目を瞑ることができなかったのだろう。
しかし父たる天空の主は真実が隠されていることなど全て承知の上で、あえてそれを衆目に触れさせることは選ばない。真実を認められぬ者が多いと知っているからこそ、巧みにその心を利用しているのだ。正しい者、美しい者が覇権を握るわけではない。世を統べるのはいつも、己が醜く狡猾であることを厭わぬ者だ。原初からこの世界を目にしていれば、そう認めざるを得ない。
今度の王の御世はどれくらい保つだろうか。賢しさにかけては父祖を凌ぐ器であるように見える。たとえ見せかけだとしても、安寧は長いに越したことはない。それだけ心置きなく美を愛でることができる。エロスはそのためにこの世界にいるのだから。
さあ、陽は昇り切った。怯え隠れていた者達もそろそろ姿を現すだろう。
アフロディテを起こして、オリュンポスへ帰ろう。
踵を返そうとしたところで、妙なる調べが耳に届いた。
視線を巡らせると、河下からこちらに向かい歩いてくる者がある。彼の爪弾く竪琴から鳴る音が、清々しい朝の空気を震わせ響く。
金色に光り輝く髪。一身に朝陽を浴びた堂々たる姿は非の打ちどころがない。その姿を目にした者はあまりの眩さに自ずとその場に平伏すだろう。
エロスは彼の通り道を空けてやるために一歩退き、辞儀をする。顔は上げずに、彼が己の前を過ぎ去るのを待った。
近付いてくる。響き豊かな竪琴の音色がぼろん、ぼろんと。貴人らしい静かな足音が一歩、二歩と。
間もなく通り過ぎるだろう。そう思った矢先。音が止んだ。
エロスは訝しんだ。しかし依然として顔は伏せたまま。
「頭を上げられては如何か」
向こうから声がかかる。
「貴方は私に頭を下げる必要などないのですから」
エロスは漸く声の主を見た。
アポロン。
真実を見通す玲瓏たる双眸が、真実を語る清朗なる声が、エロスという存在が纏う面紗を剥ごうとしている。
「生ける者全ての根源を司る神よ」
若き太陽の呼びかけに、エロスは艶やかに微笑んだ。
アフロディテをも凌ぐ婉麗。アレスでも敵わぬ雄毅。
その美しさに並び立つ者は不死なる者達の中にすらいない。
アポロンの慧眼を讃えて、真実をもう一つ明らかにするとしよう。