表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双魚譚  作者: 毛野智人
8/10

(八)

 紙蚊帳吊(パピルス)が生茂る大河の(ほとり)

 絡み合い伸びた樹々の天蓋に、足許は睡蓮が守る緑の(しとね)

 雷鳴と劫火に覆われた世界から隔たれたひとときの安息の地。

 中からは切なげな吐息混じりの(すす)り泣きが漏れ聞こえる。

「こわい、こわいの」

「大丈夫ですよ、アフロディテ。ゼウスがきっとあの怪物を討ち滅ぼしてくれます」

 幼気(いたいけ)な少女のように震えてしがみ付いてくる女神をエロスは(なだ)めた。

 エロスの胸に顔を埋めて、アフロディテは(かぶり)を振る。

「いや。今、こわいの。なにも聞こえなくして。こわいのを忘れさせて」

 エロスはアフロディテの滑らかな(はだ)を撫で(さす)る。

 そうしてやると少しだけ震えが治まる。

 柔らかな髪に口づけを落とす。

 不安げに揺れる瞳がエロスを(うかが)う。

 微笑んで、額にも口づけを。耳にも。頬にも。そして、唇にも。

 合せ目を舌でなぞれば、()()ずと蕾が開く。

 優しく、慰めるように、言葉にすらできない恐怖を舐め取ってやる。

 女神の気息は甘やかな悦びを帯びてくる。

 震えが止まったのを認めて、エロスは唇を離した。

 アフロディテの双眸は潤み、蕩然(とろり)としている。

 エロスの背に白い(かいな)を回し、先をねだる。

「もっと」

 ——ああ、美しい。

 彼女の目は、ただエロスだけを映している。

 恐怖は失せ、欲望だけに支配されている。

 目の前の愛だけを欲している。

「欲しいですか」

「欲しい」

「可愛いアフロディテ」

 エロスは目を細めた。

 その眼差しが(たた)えるのは熱情ではなく、慈愛だ。

「私だけ、見ておいでなさい。全ては酩酊のうちの出来事。恐ろしいものも、醜いものも、貴女の中から消してあげます」

 エロスはアフロディテの首筋に顔を埋め、真珠すら遠く及ばない(まった)き身体を味わい始めた。

 待ち望んだ愛撫にアフロディテの全身は悦びに包まれる。

 もっと、と艶かしい肢体を揺らめかせて誘う。

 打ち寄せる悦びを追いかけて、次第に忘我の境に入っていく。

 ——そうだ。希求せよ。その姿こそ、この世の何より美しい。

 世にも恐ろしい激闘から隠れて、この世で最も美しい男と女が閨事(ねやごと)に耽る。

 テュポンの吠声がエトナ山の下に封じられるまで、愛と美の睦言を盗み聞ける者はいなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ