(八)
紙蚊帳吊が生茂る大河の滸。
絡み合い伸びた樹々の天蓋に、足許は睡蓮が守る緑の褥。
雷鳴と劫火に覆われた世界から隔たれたひとときの安息の地。
中からは切なげな吐息混じりの啜り泣きが漏れ聞こえる。
「こわい、こわいの」
「大丈夫ですよ、アフロディテ。ゼウスがきっとあの怪物を討ち滅ぼしてくれます」
幼気な少女のように震えてしがみ付いてくる女神をエロスは宥めた。
エロスの胸に顔を埋めて、アフロディテは頭を振る。
「いや。今、こわいの。なにも聞こえなくして。こわいのを忘れさせて」
エロスはアフロディテの滑らかな膚を撫で摩る。
そうしてやると少しだけ震えが治まる。
柔らかな髪に口づけを落とす。
不安げに揺れる瞳がエロスを窺う。
微笑んで、額にも口づけを。耳にも。頬にも。そして、唇にも。
合せ目を舌でなぞれば、怖ず怖ずと蕾が開く。
優しく、慰めるように、言葉にすらできない恐怖を舐め取ってやる。
女神の気息は甘やかな悦びを帯びてくる。
震えが止まったのを認めて、エロスは唇を離した。
アフロディテの双眸は潤み、蕩然としている。
エロスの背に白い腕を回し、先をねだる。
「もっと」
——ああ、美しい。
彼女の目は、ただエロスだけを映している。
恐怖は失せ、欲望だけに支配されている。
目の前の愛だけを欲している。
「欲しいですか」
「欲しい」
「可愛いアフロディテ」
エロスは目を細めた。
その眼差しが湛えるのは熱情ではなく、慈愛だ。
「私だけ、見ておいでなさい。全ては酩酊のうちの出来事。恐ろしいものも、醜いものも、貴女の中から消してあげます」
エロスはアフロディテの首筋に顔を埋め、真珠すら遠く及ばない完き身体を味わい始めた。
待ち望んだ愛撫にアフロディテの全身は悦びに包まれる。
もっと、と艶かしい肢体を揺らめかせて誘う。
打ち寄せる悦びを追いかけて、次第に忘我の境に入っていく。
——そうだ。希求せよ。その姿こそ、この世の何より美しい。
世にも恐ろしい激闘から隠れて、この世で最も美しい男と女が閨事に耽る。
テュポンの吠声がエトナ山の下に封じられるまで、愛と美の睦言を盗み聞ける者はいなかった。