(六)
——ディオニュソスの杖、ヘカテーの浄めの松明、ヘパイストスの溶鉱。
——神々の力に膝を折る巨人ども。
——逃げ出したとて末路は変わらず。
——アテナは島を持ち上げ投擲す。
——ポセイドンは島を千切りて散弾降らす。
——ハデスの兜借るヘルメスは、姿を隠して奮迅の働き。
——アルテミスは運命の女神達連れて加勢せり。
——絶体絶命の巨人ども。
——悉くヘラクレスの矢にて息絶える。
——かくして勝利はオリュンポスにあり。
——新しき天空の主、ゼウスに栄光あり。
詩歌女神の合唱は終わった。
劇的な旋律と美しい和声に、宴の客人らは割れんばかりの拍手と歓声を送った。
しかしその賞賛を遮るようにアポロンが竪琴を掻き鳴らす。
突然の不穏な音色に一同は困惑した。
「戦の元は彼らにあったか、それとも我らにあったのか。勝利が禍根を消しはしないことを忘てはならぬ。真実を知る者には聞こえるであろう。母の怒りと嘆きの代弁者の跫音が」
歌うように高らかに説くアポロンに、客人らは騒めき、ゼウスですら落ち着かぬ様子だ。
何か音がする、と呟いた者があった。
釣られて耳を澄ませる者達も出てくる。
啾々。
啾々。
颼々。
颼々。
空の下から聞き慣れぬ音。
好奇心に駆られた者達が覗きに行った。
やがて上がる悲鳴。
そして、断末魔の叫び声。
ゼウスの周りの者達も腰を浮かせた。
「アポロン。何が起こっている?」
アポロンは父親たる大神を見据えた。
「これは貴方の罪。そして罪に対する罰。どうか、ガイアの怒りを、正面からお受け止めください」
ゼウスの向かい。アポロンの背後。オリュンポス山の頂上を超えて、何者かが姿を現す。
空中をのたくっているのは太い蛇の尾。
次いで、巨大な手が伸びて天空を押さえつけた。
雷にも似た恐ろしい唸り声。
何がやってくるのか。
恐怖に慄き、誰もその場から動けない。
空に掛けた手に力を込めて、その怪物は徐々に頭を、顎を、上体を、空の上へと突き出した。
風を受けて逆立つ髪。
火炎を放つ両眼。
鋭利な牙持つ大きな口。
肩からは百もの竜の頭。
全身から生える翼。
燃える目で一同を睨みつけると、顎門を開けて炎を吹いた。
宴の客は悲鳴と共に遁走し始める。
「ガイアが貴方がティタンを封じた奈落と交わり生み落とした者。最恐の怪物テュポンです。貴方への恨みのみに突き動かされて生きている」
テュポンは長く伸びた髪を振り乱し、ゼウスを威嚇した。
そして巨大な体の向きを変え、視界の端で逃げ惑う神々を追いかけに行く。
「あれが欲するのは、貴方の統べるこの世の全てを破壊し尽くすこと。それと、貴方自身を滅ぼすこと」
「あれを止めるにはどうすればいい?」
「ゼウスの手によってのみ、可能かと」
「儂と一騎討ちをしようというわけか」
アポロンは頷いた。
「貴方ご自身の手で始末を付けられたなら、ガイアも観念することでしょう」
「執念深いことよ。女は皆、母になると変わりおる。子を持っても変わらぬのはアフロディテくらいのものじゃ」
ゼウスの世迷言をアポロンは鼻で嗤って一蹴する。
「貴方は本当に、お強いが真実の見えぬお方だ」
「やけに突っかかってくるではないか。そなた、ガイアと手を組んでいるのではあるまいな?」
「まさか。わたしが味方をするのは真実のみですよ」
アポロンは微笑む。
「あの怪物を征することができるのは貴方だけです。どうか再び安寧を齎してください。我らの王よ」
「儂も賢しい息子を持ったものじゃ」
ゼウスは右腕を天に翳し構える。
火花の爆ぜる音と共に、雷電がゼウスの手に集まってくる。
「儂が如何に強いかよく見ておけ」
ゼウスは雷霆を振り被り、テュポン目掛けて投げ放った。