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双魚譚  作者: 毛野智人
5/10

(五)

 常世(とこよ)を支配する闇。

 見たことのない世界の有様に、獅子皮の甲冑(まと)う英雄は絶句していた。

「これは…一体どうしたことか」

 やっと口を()いて出たヘラクレスの疑問を受け、アポロンが答えてやる。

「ゼウスが月と太陽に出てくるのを禁じたのだ」

「何故にそのような…」

「無論、完全なる勝利のためさ」

 人間の力を借りれば巨人を(たお)し得るという予言を知ったガイアは、その予言を覆そうと人間相手でも巨人を不死身にできる薬草を探していた。その動きを察知したゼウスも手を打った。地上から光を奪い、ガイアの動きを阻んだ。そしてその間に、薬草を根刮(ねこそ)ぎ刈り取ってしまおうというのだ。

「あの男の仕事はあの男に任せておけばいい。我らは我らの仕事をするぞ」

 時を超えてまでヘラクレスを連れてきた。アテナが接触した時点の彼は、エウリュステウスの命令でヘスペリデスの園で林檎を()ぎ取ってきたものの、命じた本人に献上したが要らぬと突き返されて途方に暮れていたところだった。その林檎はゼウスの正妻ヘラの持ち物であったから、アテナがそれを受け取り、元の場所に返したらしい。その足で、戦女神(いくさめがみ)に手を引かれ、()の英雄は巨人との大戦の時代へ導かれた。あと一つ難業を達すれば彼の罪は(すす)がれる、というヘラクレスの生涯で最も大事なところで連れてきてしまった。これで戦果を上げられねば、神々の恥さらしも良いところだ。


 暗闇の中、アポロンとアテナはヘラクレスを連れてパレーネーへと(おもむ)いた。パレーネーは、海に面した三叉の半島のうちの一つに位置する土地だが、この視界ではその特徴的な地形も判然としない。

 しかし、何も見えないが故に、(かえ)って敵の存在をまざまざと感じ取れた。

 禍々しい呼気。巨体から立ち上る臭気。巨人どもの挙動と共に熱風となって吹き付ける。

 アポロンはヘラクレスに無言の合図を送った。ヘラクレスは頷き矢を(つが)える。的は見えないが、武に秀でたこの英雄には相手の気配だけで十分だ。きりきりと矢を引き絞る。

 弓弦(ゆづる)が鳴って鋭く矢が暗黒を切った。

 一拍の後。

 世にも恐ろしい轟音(ごうおん)

 巨人の(うめ)き。そして地に(くずお)れる音だ。

 見事。命中した。

 しかし、一矢だけで(たお)せる相手ではない。

 身構えていると、耳を(つんざ)き、身体を揺さぶるほどの雄叫(おたけ)びが(とどろ)いた。

 赤黒い目が爛々(らんらん)とこちらを(にら)んでいる。

「ヘラクレス。あれをこのパレーネーの外へ連れて行くのです」

 アテナはそう命ずると、巨人の前へ躍り出た。

 巨体相手に戦処女(いくさおとめ)の槍が華麗に(ひらめ)く。

 一方の巨人は、アテナの攻撃に身動きが取れず、四肢を地に着けたまま膠着している。

 これを好機と察し、ヘラクレスは駆け出した。

 跳躍し、巨人の頭部に取り付く。頭と顎から伸びる長い毛を(ねじ)り、(つな)の如くその剛腕に抱え、北へ向かって歩き出す。

 大きな手足をばたつかせ藻掻(もが)く相手に一進一退を余儀なくされたが、獅子の(よろい)纏う英雄は不屈であった。最愛の妻子を己が手により失った絶望を知っている彼に、恐れるものなど何もない。如何(いか)に強大で凶悪な存在であろうと、己自身でない限り、それは(たお)せる相手に過ぎない。逃げない限り、負けはしない。

 ヘラクレスの怪力に(かな)わず、長い毛と鱗に覆われた醜悪な巨躯はずるりずるりと引き()られ、ついにパレーネーの外へ放り出された。巨体が叩きつけられ、地面が揺れる。しかし、恐ろしい咆哮(ほうこう)はもうしない。

「よくやりました。ヘラクレス」

 アテナがヘラクレスの横に降り立つ。

「死んだのですか?」

 呆気ない終わりに、ヘラクレスは(いぶか)しげに首を(かし)げる。

 追いついたアポロンが答えてやる。

彼奴(あやつ)らは生まれた土地にいる限りは不死なのだ。逆を言えば、生まれた土地から離れさせれば死ぬ」

「では、俺は巨人どもを皆この地から引き摺り出せば良いのですか?」

「まあ待て。流石(さすが)に同じ手がそう何度も通じるか。我らが奴らを弱らせた後、そなたには(とど)めを刺してもらいたいのだ」

「止め?」

 ヘラクレスに説明しながら、アポロンは離れた場所からこちらを眺める冷ややかな視線を感じ取っていた。

「憎らしい相手の様子などいちいち見に来なくてもよろしかろうに…」

 一人呟き、ヘラクレスへの説明を続けようとしたところへ、突如として響き渡る女の悲鳴。声の主は先般までヘラクレスを冷視していた人物。

「——ヘラ!」

 アポロンの叫びと同時に落ちる一筋の雷霆(らいてい)

 閃光(せんこう)(あら)わにする悲鳴の現場。

 女神の背後から巨人が襲いかかり、衣を引き千切(ちぎ)ろうとしている。

 稲光(いなびかり)に照らされたその一瞬を狙い、ヘラクレスが矢を射放った。

 次に響いた悲鳴は野太い獣じみた声。

 雷霆とヘラクレスの矢を同時に受け、巨人は絶命した。

 恐怖から解放された女神は何処(いずこ)かへ飛んで逃げたようだ。

 それと入れ替わるようにして、紫電を右手に纏わせた男が降りてくる。

「流石の腕じゃ。ヘラクレス」

 天空から姿を現したのはオリュンポスの総大将。ヘラの夫君。大神ゼウス。

 当人は二人目の巨人を討ち取った息子の功を労ったつもりでいるのだろうが、ヘラクレスの方はゼウスを父だと思ってはいまい。ゼウスが彼に与えたものは精々その(たね)くらいのもので、他には何ら父親らしいことはしていないのだから。

「仕事は終わったのですか」

 アポロンが問うと、ゼウスは余裕たっぷりの笑みを浮かべる。

「無論。ガイアが欲しがっていた薬草は全て刈り取った。これより一気に攻めかけ、方を付ける。アテナよ」

 ゼウスの指名を受け、今回の戦の指揮官であるアテナが作戦を報告する。

「既にディオニュソス、ヘカテー、ヘパイストスを持ち場に向かわせました。各々対峙する巨人に善戦することでしょう。海に逃げる者が出ればポセイドンが対処して下さいます。アルテミスは運命の女神達を連れてこちらへ向かっているところです。我々も残りの巨人の相手をしに参りましょう。そして、弱った巨人どもをヘラクレスの矢で仕留めてもらいます」

「ヘルメスはどうした?」

 アポロンは眉根を寄せた。ゼウスの右腕がこの大事に何の役も果たさないのか。アポロンの非難じみた問いにゼウスが答える。

「あれも無論、参じてはいる。ただし、敵にも味方にも見えぬ立ち振舞いをするよう命じてある。整った陣形で攻めるのも間違いではないが、相手の意表を突くことはできぬ。これが初陣(ういじん)のガイアの可愛い息子達相手なら、場を引っ()き回して予期せぬ展開に持ち込んだ方が効くだろうからな」

 相変わらずのヘルメス贔屓(びいき)か。アポロンを始めとするゼウスの子供達でも、ヘルメスほどに父から信頼されている者はいない。ヘルメスは恐らく、兄弟達の中で最もゼウスに似ている。詭弁(きべん)と奇策を弄し、己の認める価値以外のものを見下すところが。(アポロン)はそれを(うらや)んでいるのだろうか。否、そのような筈はあるまい。

 真実こそ全て。いくら美辞麗句で飾り立てたとて、真実からは逃れ得ぬ。それを知る者をこそ、尊ぶべきだ。

「ヘラクレス」

 アポロンは(かたわ)らの半神を呼ぶ。

 ヘラクレスはその精悍な(おもて)を上げてアポロンを見た。

「あの巨人どもは神々の手によっては滅ぼせぬ。しかし、神々が人間の手を借りれば滅ぼせる。神が人間に産ませたそなたであれば、巨人を滅することができるであろう」

 鍛え抜かれた身体に似つかわしく、余計な返答はない。火花散る戦士の眼差(まなざ)しで応えてくれる。

 ヘラクレスの眼差しを引き継いで、アポロンはゼウスに進言した。

「私は残りの巨人を瞰射(かんしゃ)しつつ、彼の導き手となりましょう。死にかけた巨人どもの息の根を確実に止められるように」

 睨むように鋭いアポロンの眼光を拒むことができなかったか、ゼウスはよかろうと頷く。

「お前に任せる。だが、一矢も失敗(しくじ)るでないぞ」

 下らぬ念押しをするほど己は信用がないか。——笑止(しょうし)

「誰に向かって(おっしゃ)っているのです。私の矢が外れるとでも?」

 アポロンは冷笑を浮かべ、ヘラクレスを伴い身を(ひるがえ)す。

 東の空が白み始めた。

 久方ぶりに太陽が昇る。

 これで醜悪なる者達の末期(まつご)の姿がよく見えよう。

 しかし、見えたところで決してあの男は自身の責を認めはしないだろう。平気で言うに違いない。致し方なし、と。全ては勝利のために。自身の覇権のために。

「この辺りでよいか」

 パレーネーを一望できる高台にアポロンはヘラクレスと共に陣取った。

 曙光(しょこう)が戦場の全容を明るみにする。

 半島の彼方此方(あちらこちら)で、剛毛と竜の鱗に覆われた巨体が(うごめ)いている。木々を(むし)り、岩を持ち上げ、天空に投げつけている。また、既に神々との戦闘を開始している者もある。

 人々には豪傑と知られる英雄も、見え始めた惨状に言葉を失っているか。しかし、決して目を()らさぬ。この男のそういうところをアポロンは気に入っていた。故に、少し、気が引ける。

「巻き込んですまなかったな」

「何故、貴方が謝るのです」

「まあ、オリュンポスの一柱として少しは責任を感じているからかな。神の不始末を人間の手を借りて付けさせるのは、後ろめたい」

 本音を隠せぬ物言いに、ヘラクレスの表情が少し和らいだ。

「貴方はこうなることを望んではいなかったでしょうし、止めもしたのでしょう」

「そのようなこと、何故解る」

「貴方は理に(かな)わぬことが嫌いなお方だ。こんな(むご)(いくさ)に進んで参じるとは思えません」

「知ったような口を利く」

 しかし、その通りであるから何も言い返せない。

「貴方には随分と世話になっていますから」

 随分と。彼が幼少の頃から、英雄になってから、罪人になってから。

「美しい戦はありません。如何に立派な大義を掲げた戦であっても、血に濡れることは避けられない。しかし戦わねばならぬときがあることも確かです。(ことわり)の通じぬ相手を力で()じ伏せるしかないときも」

 そう。残念だが、ガイアの怒りは誰かの説得で収まるものではなくなっている。

「けれどそうなるのは、物事がどこかで(ゆが)んでしまったからです。勝利に目が(くら)んで歪みを(ただ)すことを忘れれば、悲劇は繰り返される。俺は貴方がそうならないようにして下さると信じています。だから、どうぞ存分にこの身をお使いになるといい」

 大きくて優しい、正直な男だ。

 神々の勝手で苦難の運命を背負わされたことは気の毒だが、しかしその苦難がなければここまでの人物にはなっていなかったやもしれぬ。

 ゼウスなどよりも余程(よほど)、アポロンはヘラクレスを気に入っているし、気に()けてもいる。ゼウスお得意の恋慕とも、ガイアの我が子への愛執とも違う。この心に名前があるとするなら——友愛か。

 自然と自身の口元が(ほころ)ぶのをアポロンは感じた。

「奴らを殲滅(せんめつ)する。できるな?」

 アポロンが銀の弓を構えて巨人の左目に狙いを定める。

 ヘラクレスもそれに(なら)って巨人の右目を狙い弓を引く。

遠矢(とおや)射るアポロンの名にかけて」

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