(四)
愚かなことだ、とアポロンは内心で溜息をつく。
母の我が子への愛執。それが報われぬ限り永遠に怨嗟は止まらぬというのに、権を手にした者は皆、同じ轍を踏む。
権力を得るために利用される大地。
我が子の不遇への悲嘆。彼女の行動原理がそれである以上、誰が世を統べたとて、彼女自身の怒りが収まることはない。百手巨人にしろ単眼巨人にしろ、ティタンの巨神どもにしろ、権を持つ者にとっての敵を生み出しているのは、必ず彼女なのだから。
ウラノスもクロノスもゼウスも愚かだと思うが、ガイア自身も劣らず愚かだ。自身の子孫同士が敵対しているのに、肩入れする方をいちいち変えていては切りがなかろう。
だが、それが愛か。
愛は合理的な判断を鈍らせる。
捉えどころがなく、心を惑わせる。
太陽の光を遮る靄の如く。
靄の向こうの影だけを見て、安心している者達。
熟——愚かなことだ。
アポロンは小さく頭を振り、竪琴の伴奏を続けた。
ティタンの神々との戦いを終え、オリュンポスの神々はやっと訪れた安寧を享受していた。しかしそれも束の間のこと。すぐに新たな異変が天空を脅かした。
空が熱い、と初めに気付いたのは誰だったろう。
ゼウスは誰かのその訴えを聞くとすぐに、ヘルメスを空の一番低いところへ遣わした。
神々の棲まう天空に向けて火の着いた石や枝が投げつけられている。帰還したヘルメスはそう報告した。
「パレーネーからです。あれは巨人、と言えば良いのでしょうか。ひどく醜い者共が必死になって我々を狙っていましたよ」
どこか他人事のように冷めた口調で語るのがこの男の常である。
「さて、どうなさいます?」
挑発するような笑みを浮かべ、ヘルメスはゼウスの指示を仰いだ。
ゼウスの息子達の中で最も父親に忠実なのはヘルメスかもしれない。何が起きても、どうせ何か策があるのだろう、とゼウスを信頼し、その命令に必ず従う。都合よく使われるのを苦々しく思っているアポロンとは大きく違っていた。
「アポロンよ」
ゼウスが美しい息子の名を呼ぶ。
ヘルメスとは対照的に、アポロンは渋面を作った。
自分にお鉢が回ってくることは予想してはいた。アポロンはいつだって、ゼウスが確実に勝利するための駒の一つなのだ。それはアポロンに限った話ではないし、ゼウスの子供達は皆そんなものだろう。それを名誉と思う者もいるようだが、残念ながらアポロンには理解できない感覚だった。
嫌そうな顔を隠さずに、アポロンはゼウスの前へ歩み出る。
「予言をせよ」
否と言わせぬ威圧感。父王の命令にアポロンは眉を顰めた。
「奴らと戦をするおつもりですか」
「無論。挑まれて応じぬ儂ではない。反逆者は等しく伐つ。そうせねば代は平らかにはできぬ」
「伐たれた方に更なる火種を撒くことにもなるかと存じますが」
「それはそうだろう。だが、大地がそこに在り、我らが天に在る限り、火種は消えはせぬだろうよ。我らは恨まれ続ける運命にある」
そう、この男は解っている。全ての元凶は大地の怒りであることを。解っていて尚、征服することを止めない。
「ならばその運命には従うしかあるまい。何度負かしても挑まれるというのなら、それに応じ、戦い続ける。勝利の度に、我らの治世は盤石となる」
「負ければ無意味です」
言ってからアポロンは後悔した。
この指摘こそ無意味だ。
ゼウスは片眉を吊り上げる。
「儂が負けると思うのか?」
横でヘルメスがくすりと笑いを漏らした。
ゼウスにとっては勝利が全てだ。当然に勝つ。勝てさえすればそれでいい。抗する者は須らく打ち負かし、己の下に置く。戦いを避けようとか、争いを連鎖させないためにあえて負けを取ろうとか、そういうことは考えない。
支配こそ、この男の本性なのだ。
解っている。受け容れ難いが、これ以上アポロンが意見しても聞き入れることはあり得ないだろう。
アポロンは盛大に溜息を吐いてやる。
「予言を授けるのは一度きり。よくお聞きください」
尊大な態度で君臨するゼウスを睨みつける己は、一体どちらの味方なのか。いっそ大地の陣営を助ける言葉を謳ってやろうかとすらアポロンは一顧した。しかし己の性には逆らえぬ。真実しか、この口からは吐き出せぬのだ。
——大地の怒りと天空の子たる巨人族。この世で最も巨なる者共。
——生まれし地に足着く限り不死。天に微睡む神々の力によりては不滅。
——天の神、地の人間の力借りなば、巨人斃れん。
「人間、か」
ゼウスは顎を摩り、呟く。
「ヘラクレス」
その場にいた神々のほとんどは、聞き慣れぬ名に眉を顰めた。そして数名は驚きの目をゼウスに向けた。アポロンとヘルメスは弾かれたようにゼウスを見た。両名のみがゼウスの意図を見抜いていた。それに気付いたゼウスがアポロンに向かって尋ねる。
「人間の世界で巨人族の相手をできる者はあの男くらいしか居らぬと思うが、どうだ?」
「それはそうでしょうが、しかし今の地上にはまだ…」
二人の会話に他の神々が困惑している。
ヘラクレスは巨人達が地上を荒らすより後の時代の英雄である。ゼウスが人間の女アルクメネに産ませる子だ。人間の力を借りるという条件には一応当てはまるだろうが、どうやって彼を連れて来ようというのか。
「彼奴と会う機会のある者は誰だ?」
「私と、ヘルメス。あとは…アテナも」
「そうか。ならば、アテナに行ってもらおう」
「まさか、死すべき者に時間を超えさせようというのですか?」
「此の期に及んで手段を選んでいられるか? 今巨人どもを打ち負かさねば、彼の英雄も生まれぬやもしれぬのだ。手伝わせるには十分な理由ではないか」
この男は詭弁を用いてでも、必ず勝利を手に入れる。
理を捻じ曲げる一歩手前の策を弄する。そういうところもまた、アポロンは苦手だった。
神は不死なるもの。永遠の存在である故に、直線的な時間の流れに縛られない。
地上に生きる死すべき者共は、その一生を子々孫々繋げ重ねて未来へ到ろうとする。
対して神には過去も未来もない。ただ永遠に現在があるのみだ。「現在」を通じて、時代を飛び越えて人間の世界のある時点——人間にとっての「現在」に干渉することは可能だ。しかし、可能であっても徒らに手は出さないのが通例であった。
人間の方から神託を求められたとき、人間が成し遂げた善なる行いを讃えるとき、人間の力では治められぬ混乱を鎮めるとき。それくらいがまともな関わりどきだが、そうでなくても気まぐれを起こして人間との接点を持つ者もいる。特にゼウスはよくそういうことをする。ゼウスを除けば、人間を自ら気にかけるのは酔狂だというのがほとんどの神々の共通認識だろう。
その程度の関心しかない以上、人間の時間の中でいつ何が起きるかなど把握している神はそう多くない。
過去から現在を通って未来へ向かう。時間というものに人間が縛られている限り、現在しか持たぬ神とは生きる世界が絶対的に隔絶されているのだ。わざわざ覗こうとしなければ知ることはないし、よほど暇を持て余しているのでなければ、覗こうとはしないだろう。
それ故に、ヘラクレスという半神の名を知らぬ者も当然多い。
ある人間にとっての現在。ヘラクレスという男の現在に接触する機会のある者だけが、彼の名を知っている。
ゼウスとアポロンは神殿の巫女を通じて彼と面会しているし、アテナは狂乱に取り憑かれた彼を救うために邂逅している。
ヘラクレスはゼウスの子ではあるが、母は人間であるために、その一生は時間に縛られる。しかし半分引いた神の血が、時間を飛び越えることを可能にするだろう。ゼウスはそれを見越した上で、人間の時間では未来に生きる彼を、今このときの地上へ連れてこようと言っているのだ。
「ヘラクレスの手引きを頼むのであれば、此度の出陣の指揮もアテナに執らせるとしよう。あの暴れ馬をどのように馭すか、戦女神の手並みを見せてもらおうではないか」
ゼウスは名案とばかりに嬉々として語った。こうなればもう誰も意見することはない。
ゼウス自身の言葉も、その言葉に賛同する声も、行末を見通すアポロンの耳には虚しく響く。
一時の勝利。その美酒に酔えるのは一瞬。
——愚かなことだ。
アポロンの竪琴が転調した。