(二)
天空には妙なる調べと愉快な談笑が溢れている。
座の主人はゼウス。雷霆を操る天空の神。
宴は既に始まっていた。彼が率いるオリュンポスの勢力が巨人族との戦を制し、愈々この世に並ぶ者のいなくなったことを祝うための宴だ。
アフロディテとエロスが姿を現わすと、宴のさざめきは美しい二人に対する賛美と好奇心とに色を変える。
「あれが名高きアフロディテ様」
「実にお美しい限り」
「流石は両の親からでなく大海の泡より生まれ出でし方」
「しかしあの方の後ろに控えている美丈夫は一体誰だ?」
「あれはほら、あのアレスとの——」
噂話をしているのは決まってアフロディテを遠巻きに眺めている者達であった。何故というに、彼女が歩むごとに目が合った者に微笑みかけるせいで、その笑みを受け取った者は、愛美神のあまりの優美さに言葉を失ってしまうからである。アフロディテの視界に入れない者達のやっかみが低俗な噂話の正体というわけだ。
アフロディテの背後でエロスはほくそ笑む。
自分がこの世で最も愛する存在が、それに触れることも叶わない有象無象の目を惹いている。比類なき彼女自身の美しさがそうさせるのだ。アフロディテの従者としてこれ以上の喜びはない。
人垣を抜けて端まで辿り着くと、天空の主が両手を広げて歓迎した。
「おお、アフロディテよ。よくぞ来た」
「お招きいただき恭悦ですわ。お父様」
「そなたに父と呼ばれると妙な気を起こせぬな」
悪戯っぽく笑むゼウスにアフロディテは婉然と対する。
「あら。この大空を手に入れたるゼウスともあろうお方が、そのような繋がりを気になさいますの」
姉を妻とし、また自身の後裔である人間の女すらも寵愛の対象とする大神ゼウス。生きてきた時間と権力に見合うだけの皺の刻まれた顔をしていても、血色は決して衰えを知らず生気に満ち、未だに野心を漲らせているのが解る。美しい者を見れば手を付けずにはいられない性分のこの男ですら、アフロディテには容易く触れられぬ。
「儂もこう見えて分をわきまえておるのでな。勝てぬ戦はせぬ」
「まあ、ご謙遜を。どこの馬の骨とも知れぬ女に屈するなんて」
「しかしその女は、生まれながらに見る者全てを魅了するほど美しく、季節女神に祝福されて、ここオリュンポスに現れたのだ。とても儂の手に収まる方とは思えぬよ」
ふふとアフロディテは少女のように悦んだ。
「そんなふうにお気遣い下さいますのね。ティタンらがまだ地上にいた頃に生まれ、素性もよく解らぬ私を、貴方が娘としてオリュンポスの皆様のお仲間に入れて下さったのですもの。ご恩を忘れず、娘らしく慎ましくお慕いしますわ」
優雅な笑みに満ちる欺瞞。しおらしい淑女の振舞い。
養女としての立場を守り、女としての愛を求めないというその態度。その裏にあるのは圧倒的な彼女の優位だ。彼女が愛を与えるかどうか、その決定権は常に彼女自身が握っている。彼女が肌を許すのは、彼女自身が美しいと認めた者だけなのだ。そして残念ながら、ゼウスは彼女が愛でる相手としては老練すぎた。しかしそのような相手にも、ただ拒絶の言葉を吐くのではなく、物柔らかに否と言う。多くの恋を知る者の戯言だ。そしてそれに気付き応じるゼウス。食えない男だとエロスは常々警戒していた。
「さあ、可愛い娘よ。こちらで楽しもうではないか」
ゼウスがアフロディテを自身の隣の席へ導くと、女神の横に控えるように、エロスも座す。一瞬、ゼウスがエロスに探るような視線を向けた気がしたが、アフロディテに遮られる。
「此の度の戦で、巨人族を一掃なさったのでしょう? お手伝い出来ずに申し訳ございませんでした」
「よい。そなたは戦の只中には相応しくない。戦の後の華やぎにこそ必要だ」
ゼウスが合図をすると、給仕が神酒を注ぎにやってくる。
「一体どんな戦だったのかも存じ上げませんのに、御酒を頂いてもよろしいのかしら」
「よい。それはそこなる詩神が歌ってくれよう」
ゼウスの視線を受けて不快そうに眉を顰めたのは、眩く輝ける美男子であった。
「何故わたしが」
「この場で最も詩の才があるのはお前だろう? アポロン」
体よく煽てて乗せようとする父親にアポロンはその美しい顔を歪めてから、皮肉なほど爽やかに微笑む。
「わたしがこの場で詩を披露すれば、一体如何ばかりの者達がわたしに恋い焦がれてしまうでしょう。歌はムーサ達に任せます。わたしは伴奏を務めましょう」
アポロンは手にした竪琴を爪弾いた。
すると、九人の女達がアポロンを囲むように集まってくる。
アポロンは詩歌女神に向けてある旋律を何度か繰り返し弾くと、座の一同に向き直る。
「これより語るは巨人族と我らオリュンポス神族との大戦。ギガントマキア。我らが如何にして勝利を得たか。その栄光を今一度皆様にお聞かせ致しましょう。ムーサらの美しき歌声に乗せて」