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双魚譚  作者: 毛野智人
1/10

(一)

 陽光を反射し浮き立つ(まばゆ)い白。

 滑らかなその(はだ)の輝きを真珠の如きと形容する者がいるとすれば、その感性は確かに正しかろう。しかし、精確に表現しようとした結果がその程度の言葉であるとすれば、その判断は誤っている。

 真珠でさえも彼女の美しさには遠く及ばない。彼女こそが美であり、真珠は彼女が持つものの一部を分有しているに過ぎないのだ。


 飾るもの一つ身につけず、()のままの裸体を晒して眠る美神。

 丸みを帯び、かつ均整の取れた身体は、見る者全てを平伏させるに十分であるが、平然とした様子で彼女の傍らに近づく者が一人あった。

母様(かあさま)、起きてください」

 微睡(まどろ)みの中にいる彼女に優しく呼びかけた彼もまた、端正な顔立ちをしている。それに、柔和な印象を与える容貌は、どこか彼女と似ている。すらりと伸びた手足には無骨さが一切なく、ただ優美だ。並べて見れば、この二人が親子であると誰もが納得するだろう。

(いや)。母なんて呼ばないでと言ってるでしょう?」

「けれど、貴女が僕の母であることは誰もが認めることなのですよ」

「解っているわ。でも、厭なものは厭なの」

 少女のように我儘を言って聞かない彼女の要求に、仕方ないと若者は応じた。

「アフロディテ。朝ですよ。起きてください」

 自身の名を呼ばれ、彼女の薔薇色の唇が弧を描く。

「口づけをくれたら起きるわ」

 更なる要求にも嫌な顔一つせず、若者は(ひざまず)いて彼女の(かんばせ)に自らの顔を寄せる。そのまま唇を重ねると、彼女が悪戯を仕掛けてきた。下唇を柔らかな唇に食まれ、愛撫される。このままでは満足しないだろうと諦めて、彼の方からもまた、彼女の唇を愛してやった。

 暫く接吻を楽しんだ後、アフロディテはようやっと解放してくれる。

 潤んだ瞳で若者を見つめ、満足げに微笑んだ。

「良い子ね。さあ、起こして頂戴」

 悪びれた様子もなく、当たり前のように両腕を伸ばしてアフロディテは若者に強請(ねだ)った。若者は半ば呆れながらも彼女の背に腕を差し入れて抱き起す。

「全く、手のかかる方だ」

「あら。でもね、皆逆らいはしないのよ」

「それは貴女が誰より美しいからですよ」

「そうね。美しいものに憧れない者はこの世にいないもの。だからね、私は母なんて立場を有り難がるのは嫌なの。そんな飾りなくたって、美しいというだけで十分じゃない」

「ええ。貴女に限っては、その通りです。しかし、そういうことは呉々も他の女神の前では仰らないでくださいね」

 世には母の慈愛を誇る女神もいるのだ。美を至上とし、他を軽んじる発言は目の前のこの愛美神にのみ許されるが、あまり大っぴらに言っては要らぬ禍根を招く。

「お前はいつでも冷静ね。エロス」

 つまらなそうにアフロディテは呟く。

「私を熱の籠った目で見ないのは、お前とヘパイストスくらいよ」

「元とはいえ、自分の夫をそのように言うものではありませんよ。彼は彼で、とても清廉な愛を貫いていらっしゃったのですから」

「そんなの、私の欲しい愛じゃないもの。解らないわ」

「そうでしょうとも」

 エロスはアフロディテの言葉に同意しながら、彼女の手を取って立ち上がらせる。肉感的でありかつ芸術的な肢体。立ち姿も美しい。

「貴女は身も心も愛されて輝く方ですから」

 アフロディテは自身の美しさによって、他の者を魅了し、圧倒する。彼女の美に囚われた者は、その美しさを己のものにしたいという欲求を抱かずにはいられない。彼女にとっては、自身の美しさを求められることこそが愛なのだ。彼女を求めない者は、彼女からすれば、彼女を愛していないにも等しい。

 かつてアフロディテの夫であったヘパイストスは、美しい彼女を側に置きながら、彼女との交わりを求めることはなかった。それは決して彼女を愛していなかったからではなく、彼女から愛を返されないことを恐れていたが故のことだった。

 ヘパイストスの見目は醜かった。醜さによって実母ヘラから捨てられたほどに。そのような己に負い目を感じていたヘパイストスは、素直にアフロディテを求めることができなかった。彼女を求めて自身の醜さのために拒まれることが恐かった。誰より美しい彼女を妻に迎えられたことに満足し、日毎彼女の美しさを目の当たりにするだけで十分と考えていたのだ。しかしそのように慎ましやかで一途な想いは、他の神々から蝶よ花よと愛でられ育てられたアフロディテには物足りない。夫との関係に不満を覚えたアフロディテは、美丈夫の軍神アレスと愛し合うようになった。荒々しくも情熱的な求愛に、満たされなかったアフロディテの心は潤い、溺れた。やがてアレスとの不義の関係がヘパイストスに露見すると、アフロディテはヘパイストスと離縁した。最後まで、彼女が夫の想いに気づくことはなかった。

 離縁してからのアフロディテは、より奔放に愛を求め、艶美を極めている。


 アフロディテはエロスの首に手を回し、自分とよく似た顔に微笑みかけた。

「お前のその澄ました綺麗な顔も、熱に浮かされることがあるのかしらね」

「さあ。どうでしょう」

「もしあるとしても、その相手はきっと私ではないわね」

「貴女より価値のある御方などありはしませんよ」

 エロスの目に映るものの中で最も美しいのは彼女であり、それ以外の者たちは(ことごと)く彼女に劣っているのだから。その故に、エロスはアフロディテに付き従っている。

「嬉しいわ。じゃあ、ずっと側にいてくれるの? 可愛い子」

「ええ。勿論です」

 アフロディテはエロスの答えを逃すまいと口づけた。(つい)ばむように繰り返すのは、まるでその言葉を食べるかのよう。咀嚼(そしゃく)を終えた愛美神は、蠱惑(こわく)的に笑む。

「約束よ」

 エロスは知っている。

 この美しい女神が少女のように甘えて見せるのは自分の前でだけなのだ。エロスには他のどの男も成り代われない。彼女と同じ美を持ち合わせている彼には。己に足りない美を彼女に見出し、求める男(ども)とは決定的に違う。

 エロスはアフロディテの髪を撫でて先を促す。

「さあ、早くご準備を。宴に遅れてしまいますよ」

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