少女の心
私は、自分が何者であるか知らない。
気づいたら何もない平原で横たわっていた。記憶も無く、自分が何者で何て名前で何のためにここに居るのかさえ忘れてしまっていた。
草原をあてもなく歩く私は運がよかった方だと思う。
たまたま人が良い行商の人と出会い、その馬車に乗せてくれる事になったのだから。
「こんな所で君みたいな少女が一人で居るのは危ない。近くの街まで送ってあげよう」
そう言って商人の男性は私の手を握った。
久しぶり……そう感じられる程の温もりに無意識に涙が出た。
その姿に何を思ったのか、商人は微笑みながら「大丈夫」と連呼した。
あらかた、私が身寄りの無い憐れな少女だとでも思ったのだろう。いや、実際はその通りだったから何とも言えないのだけれど。
商人の男性はもしも行くあてがないのであれば、養子にならないかと言ってきた。
聞くところによると、彼は結婚してかれこれ五年になるが子宝に恵まれずにいるらしく、彼も奥さんも子供が大好きだから色々と悩んでいるとの事だった。
家族……というのがどういう物かわからなかったが、これ以上の温もりをくれるのであればそれでもいいと思った。
どうせ、何も覚えていないのだからこの人と一緒にそういう生活をするのも悪くはない。そう、本気で思っていた――あの時までは。
馬車の入り口付近に辿り着いた時、私の手から唐突に温もりが消えた。
それと同じくらいに彼はその場に蹲る。どうしたのかと見てみれば、彼は左手から血を大量に撒き散らしていた。
そして、見てしまった。
そんな彼の周りに散乱する“斬りおとされた彼の左指”を。
「――っ!!」
私は逃げ出した。
怖くなったのだ。どうして指が落ちているとかそういう疑問もあったけど、ほぼ反射的にその場から逃げ出したのだ。
彼はそこそこ大きな馬車に乗っていたために護衛も居たが、咄嗟の事で判断が遅れていたために私の足でも逃げ切る事が出来た。
逃げに逃げ、私はどこだかわからない森の中に居た。
そして、そこで見つけた湖でようやく自分の手を確認する事が出来た。
真っ赤に……それはもう、真っ赤に汚れた私の手。
そこで理解した。
彼の指を斬りおとしたのは私なんだと。
どうやったのかはわからないけど、私はどうやら触れた人を傷つけてしまうんだと。
「……っ」
泣いた。
もう、あの温もりを感じる事は出来ないとわかってしまった。それが悲しかったのかと聞かれればそうだけど、それ以外にも言葉に出来ない何かが溢れ出して湖の近くで泣いた。
ようやく涙が止まった時、私は決意した。
もう……誰にも触れずにいよう、と。
そうして決意を胸に彷徨い歩き、一つの集落を見つけた。
そこの人たちはとてもいい人達で、見ず知らずの私を受け入れてくれた。
嬉しかった。
でも、私が触れたら傷つけてしまうから、そこだけは気を付けた。
空き家となっていた小さな小屋を貰って、そこで生活をする。
そうして、二年が経ったある日、私は彼に出会った。
「はぁ……はぁ……」
それは、その日の食べ物を採取するために山に入った時だった。
この山はワイバーンなどの強い魔物が出るために入ってはいけないと村の人に言われていたが、私は内緒で入っている。
どうせ、私に触れた生き物は斬られてしまうのだから関係ないと思っていた。
それに、ここなら人と会う事もないから誰かを傷つける事もないと思っていたのもある。
だから、そんな場所で息を切らせて大木に背を預けて座っている人が居るなんて思ってもいなかった。
肩で息をする男性はとても苦しそうで……でも、どうしたらいいのかわからなくてジッと見つめるだけになってしまった。
「ん……?」
「……っ!」
男性が私の視線に気づいてこちらを見る。
目が合った。
「……迷子か?」
迷子ではないから首を振る。
「俺に何か用か?」
用があるとは言えない。
でも、何だかこの人の事がとても気になる。
あっ、そうだ。
この人、凄く疲れてそうだしお水とか飲んだ方がいいかもしれない。
「……」
背負っていたカゴから村人の人がくれた水筒を取り出して手渡す。
男性は少し疑ったような目をしてから、口を付けてお礼を言ってくれた。
ありがとう――その言葉は知らない。
でも、とても暖かい気持ちになった。
それから、アレコレと男性と話していると途中で私のお腹が鳴ってしまった。
いつもは採取した木の実などを食べて生活してるけど、今日に限って朝食を忘れていたのが仇となってしまいました。
「腹が減ってるのか……」
男性の言葉に頷きます。
だって、ここで誤魔化したとしてもあまり意味がないし……。
ポケットなどを探る男性はどうやら食べ物を発見できなかったらしく、気まずそうな顔をした。
そんな時、いつの間にか女性が現れて男性に食べ物を取ってくるように言った。
男性は目にも止まらぬ速度で走り去り、すぐに帰ってきました。
その時、目が紅く光っていたのが気になりました。
あの光には、どこか……そう、私と似ている気がして。
男性が見たこともない食べ物を差し出してくれて、その時うっかり手が当たってしまいました。
「――ッ!!」
やってしまった。
私に触れてはいけないのに……すぐに男性の指は地面に落ちて――。
「……?」
「ん? どうした?」
いくら待っても男性の指は斬りおとされず、そのまま付いていました。
それに驚いていると男性が食べ物……おにぎりというらしい物を再度手渡ししてくれました。
おにぎりは、とても美味しかったです。
「……」
あれから毎日、同じ場所に行くと男性は大木に背を預けて座って居ました。
「お、来たか」
彼はあの日からずっと食料が入ったカバンを持っていて、その中身を私にくれました。
その際に何度も手が当たったりしているのに、彼の指は落ちません。
とても……不思議です。
そんなある日、珍しく彼は一人ではありませんでした。
黒い服を着た私と同じ年齢と思わしき少女。
「お、来たか」
「パパ? この子がいつも言ってる?」
「ああ。名前はわからないんだけどな……」
男性の事を“パパ”と呼ぶ少女は私の方に近寄ってきてジッと見つめてから手を取ってきました。
「――ッ!!」
油断してました。
男性が無事だから、すっかり気が抜けていたんです。
「大丈夫だよ」
「……」
少女の指は落ちません。
それ以上に不思議な安心感が伝わってきました。
「私は桜花! 貴女は?」
「私は……」
名前……思い出せない。
人との交流を極力避けていた私には必要ないと思って、名前という物があるという事を忘れていました。
「……っ!」
名前が思い出せない。
今まではそんな事、気にした事もないのにこの時だけはとても悲しくて、私はその場から走り去ってしまいました。
名前が無いのがこんなにも辛い事なんて……知らなかった。




