彼女という存在③
言葉は思いつくのにそのどれもが軽薄な言い訳にしか思えなくて口から出てこない。
沙織に話すタイミングはいくらでもあった。それこそ、自分自身が何者であるのか。どういう使命があるのかがわかったタイミングでも伝えられたはずだ。そうしなかったのは、そこで彼女に拒否される事への不安があったから……つまりは、自分自身の弱さ故だ。
その結果がコレだ。
「お願い……話して」
「俺は……」
意を決して話そうと口を開いた時、どこからともなく声が聞こえてきた。
「その男は自分の命を犠牲に世界を救うつもりなんですよ」
「―――!」
落ち着いた老人の声だった。
視線を向けてみれば、沙織の背後にいつの間にかタキシードを着こなした老紳士を絵に描いたような男が立っていた。
ただ、その背中には立派な蝙蝠のような羽が付いている。
「魔族―――!」
シエル姫も顔を上げてそう言う。
魔族……魔王の配下。全く気配を感じなかったところから男が相当な手練れだとわかった。
「どういう意味……?」
「待てッ!!」
沙織が振り返って問うのを止めようと一歩踏み出すが、動けたのはそこまでだった。
見えない鎖に繋がれたようにそこから一歩も歩くことが出来なくなる。
「言葉の通りですよ。彼は自分の命を犠牲にしてこの世界を救おうとしているのです。普通の“人間”では出来ない芸当……いえ、この世に存在するどんな“生き物”ですら成しえる事が出来ない偉業ですよ」
老紳士の言葉を聞いた沙織がゆっくりと俺へと振り返る。
その目は完全に俺を疑っていた。
「裕、本当なの……?」
「……」
「嘘、だよね……? だって、裕は人間だもん……ね……?」
「……っ」
何も言えなかった。
口が石化魔術で固まってしまったのかと思うぐらいに声を発する事が出来なかった。思考は高速で回っているのにも関わらず、今伝えるべき言葉が何一つ深い海から浮き上がってくる事がない。
「人間? その男が? はははっ!! コレは傑作だ! 人間にはアレが生き物に見えるのですか!」
「ぇ……?」
「いいことを教えて上げましょう。貴女の目の前に居るソレは人間などではないのです。人のカタチを模倣したナニモノにもなれない中途半端な紛い物です」
「―――」
沙織の瞳が大きく見開かれ、俺を貫く。
その目は俺に「嘘だと言ってくれ」と訴えてくるが、老紳士の言葉を否定する事は出来なかった。いや……否定するだけなら簡単だった。だが、これ以上、彼女に嘘を吐く事はしたくないという気持ちが勝ってしまった。
「貴女がよく知っている一ノ瀬 裕という男は目の前のソレではありませんよ。現に、貴女は大事な繋がりが無くなっているのではないですか?」
「――――!」
「待て! それは違う!!」
「いいえ! 違いませんよ。貴女は一度死んで一ノ瀬 裕の魂に間借りする事で今こうして生きながらえている。その繋がりはずっと感じていたはず……それなのに、今は何も感じないのではないですか? それは、目の前の男が貴女の知っている男ではないからです」
「沙織、違うんだ! それは―――」
今、俺と沙織の間に繋がりはない。
あの日……俺が心刀をあの男から受け継いだあの時、全ての契約は心刀の力で強制的に破棄されたからだ。
あのままでは沙織が消える事は確実だった。だから、俺はあの会談で運命の女神に頼んで一つの指輪を貰っていた。
シンプルなデザインに一つだけ小さな翡翠色の宝石が付いた指輪。その内側には神語で魔法が刻まれている。あの場で運命の女神が作り出した指輪――【宿木の指輪】を。
受け取った指輪の効果を使って沙織を生きながらえさせる事に成功していたのだ。簡単に言ってしまえば、俺の魂に刻まれていた沙織の魂を指輪へと移し替えたのだ。
そのことを説明しようと口を開いた時、俺の目に飛び込んできたのは冷たく鋭い沙織の目だった。
「貴方は……裕じゃない」
「――――――」
決別の言葉だ。
重要な事を後回しにしてきたツケがここまで来たのだ。
「私の主は本当の一ノ瀬 裕がどこに居るのかを知っています。それに、貴女の事を待っているのです」
「……」
「さぁ、行きましょう」
老紳士が手を差し出し、沙織がそれを取ろうとする。
それを見ていていいのか?
いいわけがない。
「二度も、俺から奪うつもりか!!」
全魔力を解放。
身体に巻き付いている不可視の鎖を千切って一歩前へと踏み出し、心刀の柄頭に付いている紐を握って投擲する。
心刀は老紳士を目指して真っすぐに飛ぶ。
「ふふ……」
だが、その刃が老紳士を捉える事はなかった。
ヤツはゆっくりと沙織を盾にするような位置に移動した。そのせいで俺は紐を引っ張って心刀に急制動を掛けざる負えなくなったからだ。
カラン……と空しい音を立てて心刀は床に落ちた。
「貴方にはまだ死んでもらっては困るのです。我が主は直接貴方を処分したいらしいので」
「ぐっ!!」
言葉と同時に真上から凄まじい圧力が襲い掛かってきた事によってその場に組み伏せられる。魔力を全力で総動員しても指一本動かす事が出来ない。
「あと、貴方は勘違いしている。私の主は魔王などではないのですよ。まぁ、貴方が狙っている魔王はもう生きてはいないでしょうけどね」
老紳士は虚空に穴を開け、沙織の手を取って一緒にそこへ入っていく。
「沙織……!!」
「…………」
沙織は床に這いつくばる俺を一瞥し、その姿を消した。
二人が居なくなると先ほどまでの圧力が嘘のように消えた。
後に残されたのは所在なさげに床に転がる心刀と無力な俺。そして、シエル姫だけだった。




