彼女という存在②
砕け散った水晶の破片が光に照らされ、雪のように舞い降りる中に天使は居た。
彼女が持つ魔力のせいなのか淡く金色の美しく長い髪を発光させながら、ゆっくりとこちらに落ちてくる彼女を抱きとめる。
軽い――本当に重さを感じないほどに軽かった。
彼女に比べたら、それこそ右手に持った心刀の方が重いと感じてしまう程だ。
「っと……」
抱きとめてなお、その場に崩れ落ちてしまいそうな彼女を支えるために両膝を折る。
水晶の雪が俺たちに降り注ぐ中、彼女から甘い匂いが微かにした。
匂いの元を辿ってみれば、そこには白い彼岸花のような形をした髪飾りがあった。造花のように精密で本物だと錯覚してしまいそうなほどに完成度が高いソレは、彼女の美しい金色の髪に寄り添うようにひっそりと存在している。
「……」
ふと、彼女が目を覚ます気配を感じた。
心刀を地面に置き、両肩を持ってそっと引き離してみるとゆっくりと瞼が持ち上がるところだった。
「……」
「……」
アクアマリンのように澄んだ海を連想させるような綺麗な水色の瞳と目が合う。
あぁ、だが……この腐りきった紅い瞳では彼女を本当の意味で見ることは出来ない。この瞳に映るのはあくまで外側だけだ。生きることを諦めてしまった自分には、その本質を覗き見る事さえ許されはしない。
「生き―――」
「―――っ!」
彼女の言葉が最後まで発せられる前に強く抱きしめる。
ほんの少しでも力を込めてしまったら折れてしまいそうなほどに細い身体を出来る限りの力で抱きしめた。
金色の髪が白い服と床に広がる。
「いいんだ……」
「……」
「もう……いいんだ…………」
初めて聞いた彼女の声は知っている音色だった。
この世界に来て、戦い続けて、幾度となく聞いた音色。
窮地に立たされる度に『生きて』と伝えて来た祝福の音色と同じだったから。
「もう、俺にその言葉を言わなくていい……もう、二度とそう願わなくていいんだ……君が本当に生きてほしかった人は俺じゃない。ごめん……もっと早くに伝えるべきだった。君の暖かさに甘えてしまっていた……」
「……」
彼女の冷たい手が俺の頬に触れた。
「泣いているの……?」
「……泣いてなんかいない。君に会えたのにどうして泣く必要がある?」
「そう……」
短く返事をした後、彼女の両手が俺の背中に回された。
力を全くと言っていいほどの力だったが、確かに抱きしめられたのだとわかった。
「あの人は……死んでしまったのね」
「ああ……勇敢な最期だった」
「貴方は嘘を吐くのが下手ね。この先苦労するわよ?」
感情を一切感じない声で彼女は言う。
それもそうだ。彼女は水晶に閉じ込められる寸前で自分の感情を五つに分けてこの世界にばら撒いたのだから。
「約束を、守りに来てくれたんでしょう……?」
「……ああ」
彼女の両手が背中から離れた事を感じ、俺もそっと身体を離す。
地面に置いてあった心刀を持ち、その場で立ち上がる。
「綺麗……」
心刀を見た彼女がそう呟く。
綺麗――この武器を見てそう思った事は一度もなかった。ただ、彼女がそう言うのならきっとそうなんだろう。
「君の欠片達もみんな綺麗だよ」
「そうなの? 一度、見てみたかったわ」
「……また、いつでも会える」
全てが終わった時、彼女の欠片達は本人の元に戻る事になるだろう。
そうなれば……きっと、その目で見る事が出来るはずだ。
「私ね……どうしてもこの髪飾りだけは手放せなかった」
「大切なものなんだな」
「ええ……私の命よりも大切な人が送ってくれた、とても大切な物だわ」
彼女が瞳を伏せるのと同時に心刀からカチリという音がした。
鍵が開くような音だ。この刀が本来の役割を果たす時が来たのだと直感する。
「……」
心刀を左手に持ち替え、右手で柄を掴む。
鍔を親指でそっと押すと鯉口が切れる。
「その人にもまた会える」
ゆっくりと右腕を動かすと、心刀はその刀身を鞘から露出させた。
刀身の色は今までの心刀よりも透き通った翡翠色。水晶を極限まで薄くしたような材質を感じさせ、光の下にかざしたならばその刀身をはっきりと認識する事は難しいだろう。
今まで俺が持っていた心刀はあくまでも鞘に納まった状態だった。この刀は自らの役割を果たすその時にだけ真の姿を見せる。そう、この姿こそが俺の心刀だ。
「ごめんなさい。貴方には辛い役目を押し付けてしまったわ」
「いいんだ。それに、こういう時に言う言葉は違うだろ?」
「そうね。昔、彼にも同じことを言われたわ……」
剣先を彼女の左胸に向けると、白い両手がその刀身を外れる事がないように優しく掴む。
これで彼女の手が斬れる事はない。
「――ありがとう」
「おやすみ」
一気に右腕を前に押し出し、心刀は彼女の左胸を貫く。
手ごたえは無かった。刀身を見ても地面を見ても血が滴っているという事もない。まるで実態のない刀身が彼女を貫いたかのようだった。
ただ、心刀から流れてくる『刺した』という感情と何かを吸い込みながらその刀身を僅かに黒く染めている姿だけが確かに役割を果たしたのだと実感させた。
どれくらいそうしていただろうか。
服が静かに地面へと落ちる音で俺は心刀を下した。
目の前に残るのは彼女が着ていた装飾が一切ない白い服と、その刀身を少し黒く染めた心刀だけ。
「大切な物だもんな……」
髪飾りがどこにも落ちていない事を確認した時に漏れ出したのはそんな言葉だった。
彼女は自分の感情を五つに分けた。それでも、どうしても手放せなかった感情があった。それは『誰かを愛する』という感情だ。
だから、俺が知る彼女の欠片達は誰かを愛するという事を感じさせなかった。親愛はあっても恋愛はない。
「ずっと、見守ってくれていたんだな」
自分の身体から抜けていく暖かさ。
この世界で自我を持って、気付いた時には常に傍にあった暖かさだ。俺はその暖かさと声に導かれていたようにも感じる。
「大丈夫……この世界は必ず救うよ」
だから、もう見守らなくていい。そういう気持ちを込めて心刀を鞘へと納める。
「……終わりましたか」
「ああ。コレで、この国は鉄壁の守りを失うだろうな」
振り返った先に居たシエル姫と言葉を交わす。
シエル姫はゆっくりと瞼を閉じ、何かを考えた後に目を開けて俺の前へとやってくる。
十歩――それが俺と彼女の間にある距離。
「この国の兵は優秀ですから耐えてくれると信じています」
「他人任せなのか? 自分でどうにかしようとは考えないのか?」
ここに俺を連れてきて、国の鉄壁を破壊させた張本人なのに。
そう言外に込めて聞くとシエル姫は目じりを少しだけ下げた。
「そもそも、なんで俺をここに連れて来た? お前にはそうする意味が無かったはずだ」
「……先ほど、私は王族には何かを犠牲にしても民を守る義務があると言いましたね?」
「ああ」
「王族たる私にもその言葉の意味は理解できます。ですが……理解できるだけです。個人的な感情で言えば納得出来ているわけじゃありません。それでも……王族と生まれたからには義務から逃げる事は出来ません。なので、私は“私なりの方法”で民を救う事にしたんです」
「……」
「彼女に対する行いは私にとって耐えられる物ではありませんでしたから」
なら、最初からこのことを俺に伝えていれば――そんな事を口走る気はない。
何故なら最近まで俺はこの刀を持っていなかった。彼女を救うには心刀は必要不可欠だからだ。
「……今、この場で私自身の話をする必要はありません。私の罪状は貴方がよく知っている事ですから……そこにどれだけの理由があったとしても意味はありません」
「……勇者達は召喚しなければならなかったのか?」
「それが、私たちの契約ですから」
契約――その言葉が出てきた時に俺は確信した。
あの時に聞いた話は嘘ではないようだ、と。
「なるほどな……利害の一致というわけか」
「ええ……私は、私なりの方法で多くの民を救います。例え、貴方の命を犠牲にしたとしても」
つまり、シエル姫は追跡者達の計画に一枚嚙んでいるのだ。
事前に聞いていたとは言え、本人の口から確信できる言葉が出てくるまでは半信半疑だった。
「その代わり、私の命を貴方に差し上げます」
シエル姫はそう言ってその場に膝を付いた。
首を垂れ、自らの命を差し出す姿は処刑を待つ囚人のようだ。
「……お前の命に一体何の意味がある」
先ほどまで感じていた暖かさは消え、冷えた空気と埃っぽい匂いが全身を通りすぎる。
「私が命尽きれば……勇者様達は元の世界に戻れます」
「……その代わりに世界を救ってほしいと?」
「はい」
最悪な気分だった。
そんな事をしなくても俺は世界を救う。全てを終えれば勇者達の事はどうにか出来る手段は既に用意してあるからだ。
ただ、そう言ったとしてもシエル姫は納得しないだろう。
この行為は対価だけではない。王族として生まれ、彼女を利用し、勇者達を召喚した事に対する贖罪でもあるからだ。
死んで楽になろう、といった理由ならば切り捨てる事が出来たのに。
「裕……」
「沙織……」
どうしようか迷っていたのが悪かった。
気付いた時には既に遅く沙織がシエル姫の隣にまで辿り着いてた。
震える両手を胸の前で握り、揺れる瞳で俺を捉える彼女には一種の覚悟があった。
「今の話……」
あぁ、待ってくれ。
その話をするのは今じゃないんだ。もっと落ち着ける場所で、静かに話したい。
俺のそんな思いが通じるはずがなく、意を決した顔で沙織は続きの言葉を口に出した。
「どういう、意味……?」
これも全て早めに説明しなかった俺の責任だった。
今になって、狼神の助言が心に突き刺さった。




