猶予
爆風によって積もっていた雪が巻き上げられて露出した地面を覆い隠すように空から新たな雪がゆっくりと降りてくる。
誰もがその戦いに固唾を飲み、その迫力に身体が固まる。最早、生存者なんていないんじゃないかと思わせるような空気の中で土煙が晴れた。人の形をしているのは二つ――兵士達にとってその両方が知っている見た目だった。
「――裕ッ!」
誰よりも早く一人の少女――沙織――がその内の一つへと向かって走りだす。少し遅れて兵士達も走り出し、そんな後ろ姿を星の精霊は見つめていた。
「……そう」
ほんの一瞬だけ彼らの姿を見ていた星の精霊の目の前を冷たい風が吹き抜ける。彼女にとってこの光景を見るのは“二度目”だった。それ故にこの戦場で一人だけ気づいた。
「至ったのね……!」
その声と顔には歓喜の色が浮かんでいた。
美しい顔から浮かべられたとびきりの笑顔は誰もが魅了されるものだった。だが、もしも力ある者が見るならばソレは真逆の恐怖を感じるだろう。それほどに、彼女の笑顔は完璧すぎた。その後ろに隠された想いもまた、人によっては底なしの沼のように深く暗い。
「あぁ……ここまで長かったわ」
沙織が駆け寄るよりも早くゆらりと“両腕”を使って立ち上がる裕の姿が見えた。
ゆらりと揺れる身体から大きな魔力を感じるのと同時に、彼の周囲にある魔素が減少して行っている事にも星の精霊は気づいていた。それが何を意味するのかも、彼女はすぐに理解する。
突然だが、精霊という存在は見える人が少ない。そもそも、精霊自体が滅多に人の前に姿を現す事がないのだから仕方がない事だ。それでも、口伝や伝承によって彼女たちは語り継がれてきた。
そして、精霊とは長い歴史の中で人間やエルフなどの信仰対象になる事が多い。
何故なら、精霊は人の理に縛られないからだ。
魔術も魔法も奇跡も精霊の前には等しく意味がない。彼女たちはその全てを記憶し、決して忘れる事がない。
故に―――――仮に時間が巻き戻ろうともその影響を受ける事はない。
例え、神々の力で何かが無かった事にされたとしても彼女たちが忘れる事はない。善も悪も良い出来事も悪い出来事もその全てを観測し、記録し続ける。
だから、人々の信仰対象になるのだ。
決して何者にも左右されない、神と同等の万物を超越した存在だと認識しているから。
人間という小さな枠組みのルールに縛られた生命からしたら圧倒的上位に位置する者に対して「どうか」と。
「祝いましょう。新たな神の子の誕生を」
星の精霊が紡ぐ祝福の中で裕は完全に立ち上がって周囲を見回した。彼が着ていた黒いロングコートは跡形も無く、その身に纏うのは黒いシャツのみ。
彼が止まっていたのはほんの一瞬。自分が右手に持つ翡翠色の水晶で構成されたような刀と腰裏に差してある黒曜石を連想させる刀の存在を認めた後、左手を地面へとつけて何かを引っ張り出す。
その手に握られたのは一見すればただの大量の黒い布だった。だが、一度それに袖を通してみれば何重にも布を重ねて作られた見た事もないローブだとわかった。
「……」
ローブに袖を通し、白い息を吐き、深紅の両目でただ一点を見つめる裕の姿は魔王と言われたら信じてしまいそうなくらいに禍々しい物だった。
◇ ◇ ◇
薄い雪が積もった地面を踏みしめながら、少し遠くで横たわるガンダルの元へと歩く。
途中で沙織とも目が合ったが、今は声を掛けるよりも優先すべき事があるから先を急いだ。
「ガンダル、まだ生きてるな?」
「む……ぅ……」
仰向けに横たわるガンダルは呻き声を上げながらもゆっくりと瞼を開ける。
どうやら、ここは時間が遡る前と同じらしい。
俺があの空間から去る時に運命の女神に願った事は二つ。
一つ目は俺をガンダルが死ぬ直前まで戻してほしい。
二つ目は……いや、コレは今はどうでもいい。
「もう少し耐えろ。今、お前の兵達がこっちに向かってきてる」
「アイツは……どうなった……?」
「ミノタウロスの事なら俺たちで倒した。だから、もう気にしなくていい」
「そう、か……」
あの時と似たやり取りをする。
遠くから聞こえる大勢の足音と共に、薄っすらと開いていたガンダルの瞼がゆっくりと閉じていく。
「目を閉じるな! お前は王なんだから、少しくらい耐えて見せろ」
「老体に……酷な事を言う……お主も戦士ならば、わかるであろう……この傷は、もう……助からん……」
「……」
あぁ、知っているとも。
お前がもうすぐに死んでしまうという事も。俺に心剣を託して、自分勝手に満足気な顔をして深い眠りについてしまう事も。全て、知っている。
「お父様!」
「ユキ、か……」
到着した兵士達の中から狐のお面を被った少女が飛び出してくる。
そこから、俺が見たやり取りが始まる。
ふと、背後に人の気配を感じて顔を向けてみれば、そこには鞘に入った白華を抱えた星の精霊がジッとこちらを見つめていた。
あの時、俺はコイツに助けを求めた。だが、いくら最上位の精霊とはいえ死にゆく人間を救う事は出来ないと無言で首を振られた。だが、今の彼女からは俺がこの状況を打開出来ると信じているような視線を感じた。
「わかってるよ」
星の精霊については何もわからない……が、この状況を打破する事が出来るというのはわかっている。
「お主にコレを託したい……」
「……」
気づけば、そんな言葉と共に赤く輝く心剣が差し出されていた。
代々、王族が受け継いできた秘技。
ソレを突然現れた身元不明の人間が受け継いでいいはずがない。それに、他の王族が黙っていないだろう。いや、王族だけではなく他の兵士だって納得出来るはずがない。そんな代物。
「貰ってあげください」
俯いたユキからそんな言葉が聞こえてくる。
「ここに、来るまでに状況は聞いています……兄さま達は……既に……」
「……」
「お願いします……お父様の……最期の願いを……」
震える声を聞きながら、俺は差し出された心剣を見つめた。
この後、俺は胸を心剣に貫かれて強制的に継承させられてしまう。
だから、その前に俺は出来る事をやる。
「ガンダル……目を開けてきちんと見ろ」
右手に持っていた翡翠色の心刀を見せつけるように突き出す。
薄っすらと目を開いたガンダルは、ソレを見た瞬間に目を見開いた。
「ソレは……心剣、なのか…?」
「ああ。何で俺が使えるかは一旦置いておく。ガンダル……お前には、まだやるべき事があるはずだ。このまま死んだら、国は混乱し、大切に想っていた民は死ぬことになるぞ」
「じゃが、儂はもう……」
「俺が、何とかしてやる」
心刀を両手で持ち、剣先を天へと向ける。
柄頭に付いた同色の布がユラリと揺れ、体内にある魔力を無尽蔵に吸い込んでいく。死にゆく人の運命を変える事は出来ない。だが、ほんの少しだけ死ぬまでの時間を伸ばす事は出来る。ただ、ソレを実現させるために必要な魔力が途方もなく、ソレを成しえる事が出来る人間が存在しないだけだ。
「コレで、貸し借りなしだ」
「何を―――」
ガンダルの言葉を遮るように心刀を左胸へと突き立てる。
瞬間、その刀身から吸収されていた魔力がガンダルの体内へと解き放たれた。一瞬の閃光が収まった後には傷一つないガンダルが呆然とした顔で座り込んでいた。
「一日だ」
「は……?」
「俺の魔力で一日だけ猶予が出来た。だから、ガンダル……お前はその間に出来る事をやれ」
しばらく黙って自分の身体を触っていたガンダルはやがてゆっくりと頷いた。
本音を言えば、死ぬこと自体をどうにかしたかった。
だが、コレが……一日だけ伸ばすのが俺の精一杯だった。




