愛されていたのか
暖かい風が吹き抜け、連れ去られるように宙を舞った花びら達が頭上で渦を巻く。目に入るのはこちらをジッと見つめてくる黒い瞳のみ。
誰かが自分を呼んでいる。右手に持った翡翠色の心刀が熱を持ち、グローブを貫通して裕の肌をめくり上げ、身体全体を焼き尽くすように広がる。そうして初めて、裕は自分が目の前に座る追跡者が纏う空気に飲まれていた所を心刀に起こされたのだと気付いた。
「はぁ……」
ゆっくりと息を吸って吐く。それだけで自分を飲み込んでいた空気が幾らかマシになった気がした。それから心刀を一瞥した後に追跡者へと視線を戻した。
「落ち着いたようだから話を続けようか」
いつもとは違う真面目な態度だった。もしかしたら、こちらが彼女の本当の姿なのかもしれないと頭の隅に考えながらも一言一句聞き逃しはしないと気合を入れなおす。
「かと言っても、どこから話せば君に伝わるかな」
追跡者はそっと目を伏せる。
彼女は自らの生き様を振り返る。時間にすれば何千、何万年も積み重ねられてきた記憶をゆっくりと慎重に整理していく。一言でも言葉を間違えてしまったならば裕には正しく伝わらないだろうと知っているが故にその作業は丁寧だった。
「うん、そうだ。まずはここから話そう」
多くの時間を遡り、多くの景色を思い出し、多くの思い出を振り返り――記憶という名の海を潜った追跡者は小さくそう呟いた。
「この世界には全部で五人の女神が“居た”んだ。そして、君のお母さんはその内の一人だった。今、君の目の前に広がっているこの庭園と果てしなく続く花畑の主――豊穣の女神だった」
居たという事はもう居ないという事。つまり、この世界に現存している女神は残り少ないという事を裕は正確に察した。
そして、自分の母と呼べる女神も既に存在していないという事も。覚悟していた事だったし、男から引き継いだ記憶からも知っていた事だったがこうして自分が直接聞く事でそれらが全て真実であると知って、少なくない衝撃が胸を打つ。
母の顔なんて記憶にない。声だって覚えていない。思い出など記憶のどこを探ってみても出てこない。それでも、自分の中に居る何かが悲しみを負ったのだ。
「僕は彼女の目であり手足だった。外に出られない彼女の代わりに多くを見て、感じて、それらを伝える役割を持った者。元は違ったんだけど、彼女に救われてからはそういう生き方をしてきた」
懐かしそうに語るその声から嘘ではないと判断できる。詳しく聞いてみたいという気持ちはあったが、それを語るには時間が足りないだろうと裕は続きを促した。
「平和で幸せな時間だったよ。太陽のような彼女の元で過ごす日々は僕の大切な思い出だ。でも……神がそれを壊した」
「どういう事だ?」
「君もさっき聞いただろう? 神が取った方針が全ての始まりだったのさ。彼女はソレが失敗する事を誰よりも早く気づいていた。そして、その場合にこの世界がどうなるのかもね」
聡明な女神だった――そう、追跡者は言った。
だが、聡明なだけならば良かったのだ。ただ聡明なだけならば、今もきっと笑っていただろう。
「彼女は優しく、聡明で、誰よりも地上の人々を愛していて―――――残念な事に勇敢だった」
「……」
「世界が三回同じ日からやり直す事になった時、彼女は君を創った」
「創った?」
「うん。女神に生殖機能なんてないからね。君は彼女の魂を分けて作られたんだ。本来、女神が神の許可なしにそういった行為をするのは禁忌だ。でも、他の女神達も皆黙認した。誰もがこの世界を救うためには必要だと思っていたからね」
ここから計画の話になるのだと裕は思った。
最初は目の前に居る二人だけの計画かと思っていたソレは、蓋を開けてみれば女神全員が絡んでいた。あまりにスケールが大きい話だ。神を裏切ってまで、自分に一体何をさせたいのかという気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
「君が十分に育った頃、地上で一人の男が死んだ。魔法や魔術は全然だったけど剣術だけは誰よりも強かった男……そんな彼の魂をここに呼んだ彼女は交渉の末に自らの子供にその魂を入れる事に成功した」
「……」
「そして、五度目のやり直しが発生する直前に一ノ瀬 裕の魂をコピーして自分の子供の中に入れた。そうして完成したのが君だ」
「つまり、俺の中には三人分の魂が入っていると?」
「その通りだとも。きっと、君は疑問に思っているだろう。それに一体何の意味があったのか? そこまでして、一体何がしたかったのか? と」
裕が頷いたのを見つめた追跡者は背もたれに体重を預けた。
「何故三人分の魂が必要だったか。男の魂は君に戦う力が必要だったからだ。まっさらな君は努力家ではあったけど中の上が限界だった。ソレでは魔王に勝つことはおろか、生き残る事も難しいと判断してだ。二つ目、一ノ瀬 裕の魂は神の目を誤魔化すためだ。計画にはどうしても君を地上に下ろす必要があったのと一ノ瀬 裕を保護する必要があった。だから、召喚のタイミングで入れ替わらせようとなったわけだ」
追跡者が言った事は納得出来るものだった。
戦う力が無ければ、裕はここまで辿り着けなかっただろう。そもそも、今までの旅路では何回も死にかけたのだ。これ以上に非力だったらと考えたくもない。
二つ目、一ノ瀬 裕の魂を入れた事も理由を聞けば「なるほど」と思えた。何故、保護する必要があったのかなどはきっとこれから説明されると思った。
「……君にやってもらいたい事は一つ。魔王と美咲、そして一ノ瀬 裕の因果を君の心刀に封印してもらいたい」
「そんな事が出来るのか?」
「心刀や心剣には所有者の根源が投影される。癒しが根源の人間が発現させれば癒しの効果を持っていたりね。そして、君の根源は―――」
「……献身」
いつかのどこかで、言われた言葉を裕は思い出した。
「そう。彼女の根源……その一部である献身を君は受け継いでいる。君の心刀は他人の思いや因果を取捨選択して吸収する事が出来る。そして、一度吸収してしまえば二度と出す事は出来ない」
追跡者はそう言って裕を――正確には、裕の右腰を指さした。
そこには男が残していった黒水晶を連想させる心刀が差してあった。
「ソレは成れの果てさ」
裕は言われた事よりも追跡者の表情に驚いた。悲しそうな、泣きそうな表情だったからだ。何回か顔を合わせ、会話をする上でそんな顔はしないと勝手に思っていたから面を食らってしまったのだ。
「きっと、ソレの持ち主は多くの人の因果を吸収したんだろう。背負って、背負って……それでも尚、歩き続けてきた人だろう。でなければそこまで黒く染まる事なんて無い」
「……そうかもな」
この心刀を握った時に流れ込んできた男の記憶は全て裕に焼き付いている。本当のとは言えないがクラスメイト達を斬り、一人だけで世界と戦い続けた男は壊れていた。救いを常に求め、立ち止まってしまいたい気持ちで溢れていたのにも関わらず、背負った者から目を逸らす事が出来なかった。
「俺がもしも魔王と二人の因果を心刀に吸収したら……アイツみたいになるのか?」
「……いいや。君はそうはならない。その時点で世界は救われ、もうやり直される事はないからね。でも……君は確実に死ぬ」
しばらく黙った後に紡がれた言葉を聞いて、裕は「そうか」としか言えなかった。
なんとなく、そんな気がしていたからだ。
「それも、生物としての死ではない。女神としての死でもない……君という存在に関する全ての記憶が誰の記憶からも消える。“無かったこと”になるんだ。誰も君を想って泣く事はなく、誰も君の偉業を称える事はない……それは、ここに居る僕たちもだ」
「……」
元から存在していないのであれば、その人を考える事はない。
前に誰かと話した。「人の死とはどこからを言うのだろうか?」と。誰からも忘れされるソレは間違いなく死だろう。
「だけど……それでも、僕たちは君に言うよ。世界を救って――――――死んでくれ」
「……」
裕はそっと目を閉じた。
今、答えは決めなければならない。死ぬことは怖い。誰からも忘れされるという経験はないが想像するだけで体の芯が冷たくなった。
本当に、自分が命を掛けるだけの価値がこの世界にあるのだろうか? 元はと言えば神が全て悪いんじゃないか? そんな考えが脳内を巡る。
「一つ……聞かせてくれ」
だが……それでも、だ。
顔も声も思い出さえも記憶にない存在は、死を恐れながらも未来を願っていたんだろう。神への反逆さえも恐れずに自分という存在を創り出して全てを賭けた。
「俺は……母親に愛されていたのか?」
自分が一ノ瀬 裕という存在ではないと知った。だが、彼の記憶を無くしたわけではない。
記憶の中にある一ノ瀬 裕の母親は息子を愛していた。厳しい時もあったが、そこからは掛け替えのない愛を感じた。
だから、気になった。
自分は計画のためだけに、作業的に生まれたのか? と。
「姉さんは貴方を愛していました。誰よりも、深い愛情を貴方に注いでいました。貴方が生まれた時に計画とは無関係に喜び、計画に利用してしまう事を最後まで迷っていました」
声がした方に目を向ければ、そこには黙っていた運命の女神が真っ直ぐな瞳で裕を見ていた。
「そうか……俺は、愛されていたんだな」
ならば、と裕は覚悟を決めた。
自分には愛されていたという記憶さえあればいいと。どちらにしろ、自分がどうにかしないと沙織も美咲も誰もかれもが救われず、母親の最期の願いさえも果たせないならばやるしかないのだと。
「わかった。やるよ」
「……ありがとうございます」
「ありがとう」
二人は立ち上がって裕の目の前まで移動して頭を下げた。
ただ、その下げ方は首を差し出すような形だった。
「何のつもりだ?」
「僕たちは自分たちの都合で君を利用する。だから――」
「貴方が命を掛ける代償として、私達の命をもらってください」
その言葉に裕は唖然としたがすぐに苛立ちを感じた。
この二人を恨んだ事はある。だが、それも事情を知らなかったからだ。今は別に何とも思っていない。むしろ、母親の事を覚えている貴重な存在だ。
「いらない。そんな事をするよりも俺の母親が守っていたここをコレからも守ってくれ」
言外に逃げる事は許さないと含めて二人に言い放つ。
死んで楽になろうなんて許されない。自分が命を掛けるのだから、これくらいはしてくれと。
「……わかりました。では、代わりにこちらを持って行ってください」
そう言って差し出されたのは運命の女神がいつも胸に抱いていた一冊の本だった。
「いつか……全てが終わった時にでも読んでみてください」
「わかった。まぁ、しばらくは時間がないだろうしな」
「では、元の時間軸に戻します。今は過去に居ると思いますがすぐに戻れるので……」
「あ、それなら一つ頼みたい事があるんだが――」
裕が自分の要望を伝えると、運命の女神は「それくらいでしたら」と言って詠唱を始める。自分の身体が光に包まれていくのを見ながら最後に眼前に広がる庭園、その先にある花畑へと目を向けた。
「いってきます」
『いってらっしゃい』
「――――」
誰かの優しい声に背中を押され、裕の視界は真っ白な光に包まれた。




