親愛
小麦が熟した優しく包み込むようで……それでいて、何かの終わりを感じさせるような匂いが鼻孔をくすぐる。
重く閉ざされていた瞼をあげてみれば、俺は小麦畑に立っていた。周りを見渡してみても一面が黄金に輝く小麦に覆われた不思議な世界。元の世界でもこちらの世界でも絶対に来た事がない場所のはずなのに、どこか懐かしいと感じさせる場所。
優しい風が吹き、小麦を揺らし、頬を撫でれば胸は焦燥感に襲われる。
行かなくてはいけない。
走りださなければいけない。
消えてしまう前にその手を掴まなければいけない。
今すぐ、誰かを探し出さなければいけない。
そんな感情に埋め尽くされる。
だから、周囲をよく見渡す。それでも、視界には小麦しか入らない。それでも……それでも、とせわしなく視界を巡らせる。
「大丈夫。今回はまだ時間があるわ……」
「――」
ふと、誰かが後ろから抱きしめてきてそう呟いた。
声にならない声。言葉に出来ない感情。歓喜、焦燥、悲しみ……さっきよりも様々な感情が胸を埋め尽くす。
「また、来てしまったのね……貴方は私が思っているよりも無茶をする性格なのかしら?」
「君、は……」
振り返りたい。
正面から抱きしめたい。
その顔を一度でもいいから見たい。
だが、身体はビクとも動かない。
石像になってしまったかのように、誰かに抱きしめられたまま硬直してしまっている。
「そう……覚えていないのね。でも、今はそれでいいの。貴方が覚えている方が辛いわ。私という存在のせいで貴方が縛られてしまうのはとても悲しいわ」
「……」
「それに、私だけが覚えているというのも特別な感じがして嬉しいものよ?」
「……」
そういってコロコロと笑う優しい声。
暖かく、優しく包み込んでくれそうな懐かしさを感じさせる声。
背後の女性からは愛を感じた。俺に対する無償のどこまでも深く、慈愛に満ち、全てを許容してくれるような愛を。
「でも、貴方の顔を見れないのは寂しいわ。アレからかなりの時間が経ったと思うけれど、貴方はどういう風に成長したのかしら? 男らしい威厳のある顔つきになったのかしら? あぁ、でも、貴方は優しい子だったから、きっと優しい顔をしているわね」
「君は、俺を……知っているのか?」
楽しそうに話していた女性が息を飲むのが背中越しに伝わって来た。
言ってから失言だったと思った。女性の話しぶりからして俺と女性は何か深い関係だったんだろう。女性は覚えていなくていいと言ったが、そんな人間から完全に忘れられていて、尚且つ「誰だ?」と暗に言われたら傷つくに決まっている。
内心で反省していると、俺を抱きしめる腕に力が籠った。
「ええ……ええ……私は、貴方を知っているわ。とても優しい子。誰かのために何かを出来る子でそのせいで自分が傷ついている事に気付かない悲しい子。自分が歩いてきた道は間違っていると思って振り返る事が出来ない臆病な子。本当は受け入れてほしいのに、それを表に出さずにぐっと我慢出来てしまう我慢強い子」
女性の左手がそっと俺の左腕が“あった場所”を撫でる。
唯一動く目を向けてみれば、そこにはあの氷の腕はなく中身の入っていない黒い長袖だけが風に吹かれて揺れているだけだった。
そこで、片目しか見えていない事に気付く。
「痛々しいと思うの。貴方が傷を負って、何かを失っていくのを見るのはとても辛いわ。それでも、貴方が諦めずに前へと歩く姿は誇らしいと思うわ。でも、貴方は違う。自らの行いを誇らしいと思えないのでしょう?」
「俺は……俺が誰だかわからなくなるんだ。戦う度に俺という人間が薄れていく。誰かと話している時にもふとした瞬間に“誰だコイツは?”と自分に思う。自分がした事なのにどこか他人事にさえ感じる。そんな俺に何を誇れというのか。そもそも、誇れるような事なんて成し遂げてきていないけれども……」
本心だった。
ここ最近……いや、ずっと前から、俺は俺という存在を見失いつつあった。性格、口調、行動原理……それらが最初からかけ離れつつあるような気がしてならないのだ。
そもそも、最初はどんなだったかさえ思い出せない。
「そう……ごめんなさい」
「なんで、君が謝る?」
「今はまだ、貴方に言う事は出来ないけれど……そうなってしまったのは、少なくとも私が原因の一つだから……」
「……」
「そろそろ、時間ね。貴方と話しているととても早く感じるわ」
「なっ……ま、待ってくれ。俺はまだ君と話したい事が!」
この時間が終わると言われた瞬間に女性に言いたい事が溢れて来る。
どうして、今なのか。もっと早く出てきてくれれば……。
「私も、貴方ともっとお話していたいけれど……ダメなの。あの子の願いが貴方を離さない。でも、悲観する事はないわ。また、会えるもの」
「何を……」
そこで、俺の脳内に小さな声が聞こえてくる。最初は何を言っているのかわからなかったが、その声はどんどん大きくなっていき、やがて一つの言葉を紡ぎだす。
その声はまだ若い声だった。
それなのに、どこか大人びていて、静かで、確かな願いを込めた声だった。
『―――生きて』
あぁ、そうか。
俺はまた、この願いに手を引かれるのか。
「最後にコレだけは覚えておいて。どんなに性格や言葉遣いが変わっても、貴方は貴方よ。自分の目指すべき終わりを見失わないで」
女性の優しい声を聞きながら俺はそっと瞼を閉じた。




