赤い糸の結び方
僕には不思議な力がある。
それは時を止めたり、心を操ったり、瞬間移動をしたり、相手の情報が読み取れたりといった物語に出て来るような定番の能力ではない。
それに関しては少し、いや物凄く残念に思う。
とは言え、そこまで大それた能力ではなくとも、人にはない不思議な力を持っていると言うのは本当の話だ。
僕の能力。
それは赤い糸が視える事。
俗に言う『運命の赤い糸』の事だ。
僕はその糸を自由に解いたり、結んだりする事が出来る。
なんて都合の良い事はない。
僕の能力は、左手の小指から出ている赤い糸を視る事が出来るという事だけで、それに一切の干渉はできない。
さてこの赤い糸。これに関して、いろんな考え方があるようだけど、僕が視えているこれは、随分と流動的なモノらしい。
それは運命の人と結ばれていて決して離れない、というモノではない。
どうゆう事かと言うと、僕の視えているそれは、その時々によって結ばれる相手が変わるって事だ。どうやらその人の心の在り方に影響されているらしいのだ。
例えば、特に意中の相手がいない場合は赤い糸は誰ともつながらずにフラフラとそこにある。そしてその糸は誰かと相思相愛になった時、初めて結ばれるのである。
だからまだ付き合っていなくともお互いに意識し合っている二人はしっかりと赤い糸で結ばれている。逆に結婚していてもお互いの心が離れてしまっている二人の糸は離れ、所在なさげに宙を彷徨っていたりする。
こんな能力だから、テレビに出ている有名人たちの隠れた恋愛事情が簡単に分かってしまう。この情報を週刊誌にでも売れば良い金になるかもと考えた事もあったけど、なんだかアホらしくてやめた。
他にもいくつか能力の使い道を模索したけれど、残念ながら良い答えは未だに見つからないままだ。結局宝の持ち腐れ。
大して活用される事無く、誰にも言う事もなく、これまでずっと過ごしてきた。
そしてこれからもそうやって過ごしていくつもりでいた。
にも拘らず、やってしまった。
「ちゃんと結ばれてるんだね」
サチは僕の腕を枕にしながら、自分の左手を見ている。赤い糸が繋がっている小指とその隣の薬指を、それはもう嬉しそうに。
僕らの出会いは、ありふれたものだった。
きっかけは友人の紹介で、そこから何度かデートを重ねて、僕の方から告白して付き合うようになった。そして付き合って二年目の今日、プロポーズをした。
その時の事を思い出すのは恥ずかしいけれど、僕が渡した婚約指輪を何度も何度も見つめる姿が印象的だった。
サチが喜ぶ姿を見るのが嬉しくて、ついつい調子に乗ってしまったのだと思う。
その後、僕の家で二人でお酒を飲んでいる時に、うっかり能力について口を滑らせてしまったのだ。普通なら酔っ払いの妄言として流されるべき事なのに、どうゆう訳かサチは、それを間に受けてしまったようだった。
だから僕はどうしたものかと考えて、結局答えを出せずに思考を放棄して、ただ口止めをするだけにした。
「秘密だよ」
「うん、二人だけの秘密」
嬉しそうに頷くサチを見て、まぁ良いかと内心で苦笑いしたのだった。
それからの日々は実に慌ただしく、同時に幸せだった。
お互いの両親に改めて挨拶をして、結婚式について話し合って、一緒に住む所を探した。
冬だと言うのに心はポカポカしていて、見える世界は輝いていた。
この幸せがこれから先ずっと続いて行くのだと信じて疑わなかった。
そう、ずっと続くと思っていたのだ。
だけど現実は、僕が思っていたよりもずっとずっと残酷だった。
いつもの仕事帰り、サチに頼まれた食材を片手に信号待ちをしていた僕の元に車が突っ込んできたのだ。ぶつかる瞬間、胸を抑えて苦しそうにしている運転手と目が合った気がした。
気が付いた時には病院のベッドの上だった。
霞がかった視界の端でサチが泣きじゃくっているのが見えた。ぼんやりとした意識の中で、僕はただただその様子を見ている事しか出来なかった。
それからどれだけ経ったのか、一瞬のようにも永遠のようにも思える時間が過ぎた。
ようやく僕の意識が覚醒した時、すぐ隣でサチが微笑んでいた。
あの時泣きじゃくっていたのが嘘のように、その表情は随分と穏やかに見えた。
「先生呼んでくるね」
そう言ってサチが部屋を出ていった。
僕はそれを見送って、自分の身体を起こそうとして失敗した。
そして震える手で布団をどかして愕然とした。
左手がなかったのだ。
包帯でぐるぐる巻きにされた僕の左腕は、肘から先がなくなっていた。
それを見て僕の頭は完全に思考を止めた。
ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したのは、一夜明けた後だった。
日が昇るよりも少し前、まともに眠る事が出来なかった僕は、上半身を起こしてなくなった左手を眺めていた。
どうやら左手と一緒に切れてしまったらしい。
そこには腕から伸びた赤い糸が所在なさげてに宙を彷徨っていた。
何もかもが終わったような気がした。
サチはまだ傍にいてくれている。でもこうして赤い糸がサチと繋がっていないという事は、心が離れてしまった証拠なのだ。
「こんな能力なければよかった……」
ポツリと呟いた言葉は静かな病室に吸い込まれていった。
サチに会うのが怖かった。
でも逃げる訳にもいかなかった。
「おはよう!」
元気良く病室に入って来たサチに、僕は上手く笑えただろうか。
その日はサチや医者から改めて事故の事を聞いた。
あの事故の被害者は僕一人。左腕を失った以外は両足の骨折と全身の打撲で済んだらしく、事故の状況から考えれば奇跡的な状態だと言っていた。
運転手は心筋梗塞を起こしていたらしいが、幸いにして一命をとりとめたようだ。現在も治療中らしいが、すでに容態は安定しているとの事。
「すぐに日常生活に戻れますよ」
励ますようにそう言ってくれた看護師に僕は乾いた笑みを返したのだった。
日常生活。
何を持って日常と言えるのだろうか。
当たり前のように起きて、当たり前のように食事をして、当たり前のように出かける。
果たしてそこにサチはいるのだろうか。
切れてしまった赤い糸を視ながら、何度も何度も自問自答を繰り返す。
これから先、僕がサチを幸せにできるのだろうかと。
僕の存在はただの負担になってしまうのではないだろうかと。
そうしてようやくだした結論は、きっと初めから決まっていたのだろう。
最後は自分から別れを告げる事にした。
二人きりの病室でサチは楽し気に僕に話しかける。
その声は慈愛に満ちていて、聞くだけで僕を癒してくれる。
だけど……。
僕はなくなってしまった左手を見ながら口を開いた。
「ねぇわか」
「ダメ!」
途中で言葉を遮られた僕はサチの方を見た。
その顔は今にも泣き出しそうで、朦朧とした意識の中で見たあの光景が思い出された。
「まだ何も言ってないよ」
「言わなくてもわかるよ。絶対にダメだから」
「どうして?」
「イヤだから」
「そっか……」
続く言葉が思いつかずに、僕はサチから顔を背けて、再びなくなった左手の方に視線を移す。
相変わらず、赤い糸はフラフラと宙を漂っていた。
二人の間に舞い降りた沈黙は、随分と気まずい。
いつもなら無言だろうがなんだろうが、一緒にいるだけで心地良いはずなのに、どうしてこんなにも一緒にいるのが辛いのだろうか。
「切れてるの?」
沈黙を破るように出たサチの言葉に僕は無言で頷いた。
次の瞬間、ガタンッと音がした。
驚いてそちらを見れば、サチが座っていた椅子が倒れていた。勢いよく立ち上がったせいだろうか、何とも言えない表情でサチが椅子を戻した。
その光景を眺めていたら目が合った。
サチは戸惑うように視線を彷徨わせた後、再び僕の方を見て言った。
「だったら、もう一度結びなおせば良いんだよ」
「え?」
呆けている僕を他所にサチは、自分の左手の小指から出ている糸を両手で持って僕に巻き付け始めたのだ。
赤い糸なんて視えないはずなのに、その行動には一切の迷いがない。
赤い糸に触れる事なんてできないはずなのに、糸はまるでサチの意思に従うように、その行動に合わせて動いている。
僕は目の前の光景に頭が追い付いていかなかった。
「これでよし!」
そんな言葉で現実に引き戻された時、サチの顔が僕の目の前にあった。
そして赤い糸はと言えば、僕どころかサチも一緒にグルグル巻き状態。至る所に結び目があって、どこを解けば離れるのか見当もつかない。
「なんで……」
今まで見た事もなかったその光景に驚いて固まっている僕に向かってサチは勝ち誇ったように微笑んだ。
「また結ばれたでしょ?」
僕は何がなんだかわからなくて、でも赤い糸が再び結ばれた事が、サチの気持ちが嬉しくて、気付けば涙を流していた。
それは事故にあってから初めての涙だった。
しばらくそうやって見つめ合っていると、コンコンとノックの音がして、医者が病室に入って来た。
そして呆れたように僕達を見て言った。
「何やってるんですか?」
医者の言葉の意味が分からず固まる僕を他所に、サチはガックリと肩を落としていた。
そして……。
「あーあ、バレちゃった」
心底残念そうなサチを見て僕はようやく現状を理解したのだった。
その後、僕らをぐるぐる巻きにしていた本物の赤い糸は、サチの手によってどこも切られる事無く丁寧に外された。
「気を付けてくださいね」
医者は疲れたようにそう言って、部屋から出て行った。
「騙してごめんね」
そう言って下を向いているサチを僕は残った右腕で抱きしめた。
「いや、ありがとう」
「でも……」
「サチのおかげで、また結ばれたみたい」
「ホントに?」
顔を上げて僕の方を見るサチに頷いてみせた。
「うん、ホントに結ばれた」
僕の視える赤い糸は随分と流動的だ。
どうやらそれは、その人の心の在り方に影響されているようなのだ。
きっとあの時、僕は無意識の内にサチとの関係を諦めてしまっていたのだろう。
だから僕らの間にあった赤い糸は切れてしまったんだと思う。
でも、それをサチが再び結び直してくれた。
少々強引なやり方だったけれど、僕にとってはこれ以上ない程の方法だった。
一度切れてしまったサチとの間にあった赤い糸は、再び結ばれた。
「ねぇサチ」
「なに?」
「こんな頼りない僕だけど、一緒にいてくれる?」
「うん」
柔らかく笑うサチがたまらなく愛おしく思えた。
僕らを結ぶ一本の赤い糸。
その結び目はいつもと違って随分と歪だったけれど、いつも以上に頑丈そうに視えた。