惚れ直したよ
温泉によるものか、それとも別の原因があるのか、火照った体で脱衣所の長椅子に座り深々と息を吐く。
浴衣の隙間を通る空気が、熱い体をゆっくりと冷やしてくれて、なんだか心地良い。
しかし、まぁ、本当に……長く、そして苦しい戦いだった。何度諦めようと思ったことか……それでも俺は成し遂げた。乗り越えた。
アリスじゃないけど風呂がトラウマになりそうだ。なんでこう、俺は風呂でのハプニングに縁があるんだか……この世界に来たばかりの頃に、ラッキースケベなんてないなんて考えてたのが懐かしい。
そんなことを考えながらぼんやりとしていると、俺の目の前に牛乳の入った瓶が差し出された。
「カイトさん、冷たい牛乳なんていかがっすか?」
「……ありがとう。クロたちは?」
「あぁ、なんでも『花火』するみたいで、先に準備してくるって移動しましたよ。私がカイトさんの迎え担当です」
「……そっか……あぁ、美味い」
「やっぱり風呂上がりにはコレっすね」
どうやらクロやアイシスさんは、皆で宿泊ということにテンションが上がりまくっているみたいで、花火の用意に向かったらしい。
俺を迎えにきたアリスは、浴衣にいつもの仮面を被っており、なんとなくアンバランスな見た目になっている。
そんなアリスは、迎えだというわりには、どこからともなく俺のと同じ牛乳を取り出し、俺のすぐ隣に座った。
「……ぷは~。まぁ、ヤングなカイトさんはお疲れみたいですし、一息ついてから行きましょう」
「そうだな。確かにちょっと一息つきたい気分だ」
風呂上りということもあるのだろうが、なんとなくしんみりというか、落ち着いた空気が流れる。
アリスはそれ以上なにも言わないまま牛乳を飲み、しばらく経ってから、ポツリと呟いた。
「……カイトさん。ひとつ、どうしても分からないことがあるんで、聞いてもいいですか?」
「うん? アリスに分からないことがあるなんて、珍しいな」
「そりゃ私だって、知らないことはありますよ。人の心の深奥は……覗こうと思わないと覗けませんしね」
「やろうと思えば、覗けるのかよ……」
「あはは」
「……それで?」
「あ~いや、別に大したことじゃないんすけどね」
そう前置きをした後、アリスは俺の方に視線を向けてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……カイトさんは、なんで『我慢』するんすか?」
「へ? なにが?」
「いや、まぁ、そういう行為に関してです。クロさんと私はしばらく待って欲しいって自分から言いましたし、アイシスさんは純粋な方ですから、かえって踏み込みにくいってのも分かります。アインさんにいたっては恋人でもないですしね」
「……うん」
「……リリア公爵に関しても、あの性格なので理解できますが……ジークさんはどうなんすか?」
アリスが聞きたいことは理解出来る。なぜ俺はいまだに誰とも肉体関係を持ってないのかと、そういうことだろう。
「いや、まぁ、それに関してはカイトさんにも心の準備とかあるでしょうし、苦言とか言うつもりはないんですけど……単純に、なんでなのかなぁ~って思いましてね」
「……なんで、か……」
「まぁ、いまさら隠すことでもないですし言いますけど……私はカイトさんが時々こっそり自分で処理してるのも知ってます。ああ、もちろんそういう状況になったら、見えない位置に移動してますけどね」
「……ほんと、いまさらだけど……どこいった俺のプライバシー……」
本来なら赤面ものの話題であり、頭を抱えていたかもしれないが……いまのアリスの真剣な雰囲気がそうさせてくれない。
アリスは俺をからかう気などは一切なく、あくまで純粋な興味からの質問みたいだ。
「……まぁ、それで、ですね。言い方は悪いですけど、ジークさんて条件的に丁度いい方じゃないですか? 性格的にカイトさんが求めれば受け入れてくれるでしょうし、年齢的にも38……私みたいに数万年も処女拗らせてないです」
「……むぅ」
「ひとつ屋根の下に住んでて、ペットの世話とかで会話も多い。エルフ族はクロさんやアイシスさんと違って、種の保存に起因した性欲もちゃんとあります」
「……」
まぁ、確かにそう言われればジークさんは、完璧に条件が整っていると言ってもいいかもしれない。実際ジークさんは優しい年上の女性って感じだし、そういう意味でも俺にはもったいないほどできた恋人だ。
それでも、手を出していない理由か……。
「……あっ、いや、答えにくいなら別に……」
「アリスは知ってるよな? 俺が元の世界に一度帰った後で、こっち世界に戻ってこようとしてるって」
「ええ、カイトさんから直接聞きもしましたしね」
「……うん。帰る目的は単純だよ。元の世界でお世話になった人達に別れを告げたい。それだけ……だけど、それは俺にとってすごく重要なことなんだ。それをちゃんと行って初めて、俺は『この世界で生きていく』って胸を張って言えると思う」
「……ケジメってやつっすかね。それが終わるまでは……って感じですか?」
「……ああ」
……ごめん、アリス。俺はいま嘘をついた。
いや、嘘というのは違うかもしれない……俺を引き取って育ててくれたおじさんやおばさんは、俺にとってかけがえのない恩人だ。
クロたちと、そういう……いま以上に深い関係になる前に、ちゃんと自分の心に区切りをつけたいって言うのは本心だ。
だけど、意図的に話していない部分がある。俺がいま抱えている一番の不安要素を……。
俺はまだ誰にも話していない。以前神界を訪れた際にシロさんから告げられた言葉。シロさんは俺の一つの物語での『ラスボス』だと、自分を例えた。そして、俺に最後の試練を与えると……自分に勝ってみろと、そう言った。
俺はあの時のシロさんの言葉で、一つだけ違和感を覚えた部分があった。
シロさんは俺が試練を乗り越えられなかった場合、俺が選べる選択肢は他の異世界人と同じ……残るか、戻るかのどちらかだけだと言った。
それに関しては、嘘ではないだろう……しかし『本当にそれだけ』なんだろうか?
最後の試練は、勝ってみろという発言から、俺とシロさんの勝負と言ってもいいと思う。
俺が求めるのは、一度元の世界に帰ってからこの世界に戻ってくると言う……過去前例がない行為だ。
もし、それを勝負というのなら……負けた場合に『俺が失うもの』はなんだ?
考えすぎ、なのかもしれない。いや、むしろ、シロさんは本当に単純に試練を課すだけで、俺に対価は求めない可能性が高いだろう。
しかし、どうしても気になってしまう。あの時、シロさんが『俺の価値を示してみせろ』と告げたさいの、挑戦的な表情が……そして『多くを望むのであれば、相応の覚悟を持て』という言葉が……。
もし俺が、シロさんの求める価値の基準に達していなかったら、その時、シロさんは俺をどうするんだろう?
分からないし、聞いたところでシロさんは答えてくれないだろうという確信もある。
まぁ、本当に俺の考え過ぎって可能性もあるんだけどな……。
「さて、クロたちが待ちくたびれちゃいけないし、移動しようか」
「……そうですね」
いまは、まだ誰にもこのことは話さない。直感にすぎないけど、シロさんが俺に与えてくる試練は……『俺自身で乗り越えなければいけないナニカ』だと思うから……。
長椅子から立ち上がり、アリスと並んで歩きはじめようとしたタイミングで、アリスに袖を引かれた。
「……アリス?」
「カイトさん、ほら、私、勇気が出るまで待っててくださいって言ったじゃないですか……」
「うん」
「私って、ほら、処女拗らせてますし……まだちょっと時間かかっちゃいそうなんですよね。けど、たぶん……『カイトさんがこの世界に帰ってくる頃には、勇気が出せる』と思うんですよ」
「……」
「……だから、え~と……カイトさんが元の世界でしっかり別れを告げて、こちらに帰ってきたら……その時は、連れて行ってくださいね。『ロマンチックな海辺の見えるコテージ』に……約束ですよ?」
「……ああ、約束する」
拝啓、母さん、父さん――よく言われることだが、俺は嘘をつくのが下手らしい。だから、きっと……アリスは気付いている。俺がなにかを隠していることも、ソレが簡単な内容ではないことも……それを察した上で、彼女は待っていると言ってくれた。なんていうか、うん――惚れ直したよ。
~お詫び~
今回は砂糖回の間にあるアクセンス的なシリアス回でして、シリアス先輩に出演してもらう予定でした。
しかし、シリアス先輩が昨日発生した緊急ミッション受けて、「イチャラブフラグなんて、私が粉砕してやんよ!」と告げた直後……『本編からあとがきまで届く』超遠距離魔法によって吹き飛ばされ、現在入院中です。
その為、今回はシリアス先輩の登場を急遽見送らせていただくこととなりました。申し訳ありません。
なお、シリアス先輩は病院で『全治三話』と診断されましたが、ゴキブリ並みの生命力で生存しておりますので、ご安心を。
 




