広がる余波⑨
アルクレシア帝国内において、非常に多くの者にとって馴染みがあるのが豊穣の神殿である。アルクレシア帝国は土地柄、シンフォニア王国やハイドラ王国に比べて作物が育ちにくく、神殿ができるまでは食料自給率も低くかった。
だがシャローヴァナルによって、アルクレシア帝国に豊穣神エルンが派遣されて神殿を構えてからは、彼女が毎年アルクレシア帝国全土に施す豊穣の加護によってアルクレシア帝国内でも安定して作物が育つようになっており、アルクレシア帝国にとってエルンは極めて重要な存在であり、信仰も多く集まっている。
エルン自身は神族内でも白神祭以前から比較的人族に友好的であり、国内の行事などに来賓として出席することもあった。ただ行事には参加するがパーティのようなものには参加せず、一定の距離感を保っており、人族への距離感なども含めてライフが極めて優秀と称するだけあって、遠すぎず近すぎず人界派遣の下級神のお手本と言っていい。
白神祭以降は神族全体の意向に合わせて、行事などへの露出機会を増やしている様子ではあるが……それでも、基本的に個人を招くという事は、ありえないと言える事態だった。
そして、その異例ともいえる神族側からの呼び出しを受け、豊穣の神殿に向かいながら身を震わせているのがリッチ男爵とマリー・リッチだった。
「……そ、そもそも、私は豊穣の女神様の本殿に行くの事態が初めてなんですが……」
「マリーは年始の祝福も受けていないからね。うちの領と首都の距離を考えればそれも当然だろう」
当然ではあるが、貴族家の全員が下級神から行われる仮祝福を受けているわけではない。なにせ、下級神が直接行う祝福は明確に高価はあるが、金貨1枚の料金が発生する。
財力のある貴族家ならともかく、自他ともに認める貧乏貴族であるリッチ男爵家に、四女であるマリーにまで年一で仮祝福を行うような余裕はない。
祝福代金だけならまだしも、リッチ男爵家領からエルンの居る豊穣の神殿まで行くには長い距離を馬車で移動して、転移ゲートで代金を支払い、首都で馬車を借りてまた移動して……となるため、移動にかかる費用もかなりのものだ。
いちおう年に一度の行事という事もあり、男爵領の近くにある神殿ではなく、マリーを含めた男爵家の子息も首都の豊穣の神殿には連れてきてもらっているのだが、拝殿で神官から祝福を受けるだけであり、本殿に行ってエルンから仮祝福を受けるのはリッチ男爵夫妻と跡取りの長男、農園のトップの長女の4人だけだ。
そのため、マリーはエルンに会うことも初めてであり、かなり緊張していた。
「……またお姉様から服を借りてしまいました。いや、私は豊穣の女神様にお会いして失礼では無いような服を持っていないので仕方ないのですが、もし汚してしまったらと不安になりますね」
「マリーにもちゃんとした高価な服を買う必要がありそうだね。今回の訪問には間に合わなかったが、ロード商会や死王配下との交渉の場にも同席する必要があるわけだし、せっかく首都に来たんだから帰りに首都の店で買うことにしよう」
「あ、あはは、本当なら首都で服の買い物なんて嬉しい筈なんですけど、胃が痛いです」
「気持ちは分かるよ。私もどうすればいいのか、なにがどうなってるのかもサッパリで、失礼ではあるが以前の相談に乗るという言葉を真に受けて、ハミルトン侯爵に早急に相談したいところだが……豊穣の女神様をお待たせするわけにもいかなかったしね」
ハッキリ言ってリッチ男爵の能力は高いとは言えない上に、そもそも経験が全く足りていない。政略や貴族的な駆け引きとはほぼ無縁の辺境で育ってきたリッチ男爵にとって、この異常事態にどう対応するかなどすぐに判断することもできず、ハミルトン侯爵などの己より遥かに頭のいい相手にアドバイスを貰いたいと考えていた。
「……首都は煌びやかですね。観光や買い物で来ていたのなら、楽しかったのですが……」
「転移魔法具に場所を登録しておけば、今後は首都に来やすいんじゃないか?」
「首都に来ても、首都でアレコレ買い物するような余裕はありませんよ。まぁ、観光目的だけじゃなくて、今後必要になりそうという意味でも登録はしておくべきでしょうけどね」
窓の外に見えてきた豊穣の神殿を見ながら、どこか現実逃避するように苦笑を浮かべるマリー……心の中にある願いはひとつ、どうか何事もなく終わって欲しいと、ただそれだけだった。
……叶わないのだが……。
シリアス先輩「無慈悲な地の文……」




