閑話・氷鬼の涙 前編
ちょっと次話の執筆に苦戦しているので、もうちょっと後でやる予定だった雅とイプシロンの閑話を先に行います。前中後編になる予定です。
快人たちの世代から見て88期前の勇者役である天童院雅……彼女はある意味勇者役の中でも数奇と言える人生を歩んだ存在だ。
雅は初代勇者である九条光を除き、一番最初にトリニィアに移住を希望した存在であり、戦王五将の一角であるイプシロンと深い繋がりのある存在でもある。
雅は年代的に言えばノイン……九条光が生きた時代に近い世代であり、彼女自身は華族の一員であり、日本における貴族と呼んで差し支えない存在ではあった。そう、あくまで戸籍上は……。
雅はとある華族の当主が愛人との間に設けた子であり、望まれて生まれたというよりは、生まれてしまった存在と言え、世間体のために認知はされていたがほぼいないもの同然として扱われており、家庭環境は決して良いものでは無かった。
彼女を生んだ母親は他に男を作って雅を置いて消えてしまい。雅は幼少期から肩身の狭い思いをして生きてきた。
そんな中で唯一彼女の味方だったのは祖母であり、祖母だけは雅にしっかりと愛情をもって接してくれた。薙刀とはじめとした武芸や様々な作法なども教えてくれた祖母の事を、雅も親愛の情を強く抱いていたが……そんな祖母も雅が15歳の折に他界し、彼女はまた独りぼっちと言っていい環境に置かれることとなった。
この家には己の居場所はもうないのだと、そんな鬱屈とした気持ちの中で生活していた雅にとって、勇者召喚は一種の救いだった。
もちろん召喚された当初は戸惑った。狐にでも化かされているのではないかと本気で考えたりもしたが、ある程度の時間が経てば気持ちも落ち着き、彼女は勇者役としての役割を承諾して巡礼の旅に出て……そこで、運命と出会った。
それは、ハイドラ王国のとある都市で行われた祭りに勇者役として参加した際、偶然戦王配下の代表として来ていたイプシロンとの出会いだった。
劇的な切っ掛けなどがあったわけではない。普通に言葉を交わす中で、雅とイプシロンは不思議なほどに気が合った。
互いの波長がピッタリと噛み合うとでも表現すべきか、とにかく普通に話しているだけで楽しく心地よいと言える感覚であり、それはイプシロンも同じ感想を抱いていた。
雅に強い関心を抱いたイプシロンは、雅の巡礼の旅に同行して各地を回りながら親交を深め、勇者祭の折には互いにかけがえのない友だと認識できるほどに親しくなっていた。
「……そうか、ではミヤビは元の世界には戻らないのか」
「はい。あちらの世界に私の居場所はありません。こちらでどうするかを決めているわけではありませんが、貴族にはどうも忌避感がありますので爵位はいただかないつもりです。補助としてまとまった金銭はいただけるようなので、それでなんとか生活をという形ですかね」
「ふむ……」
華族としての日々にいい思い出が無く、貴族自体にどうも拒否反応がある雅は爵位を貰うことはせず、市井で生活するつもりだった。
そんな雅の言葉を聞いて、イプシロンは少し考えるような表情を浮かべた後で告げる。
「ならば、私の元に来ないか?」
「え? イプシロン様の元に、ですか?」
「ああ、これでも六王配下幹部というそれなりに高い立場でな、ひとりで使うには大きすぎる家もある」
「それは、私としては願ってもないことですが……よろしいのですか?」
「もちろんだ。人間族の寿命は短い……せっかくこうして気の合う友と巡り合えたのだ。時間はあまり無駄にしたくはないので、私にとっても利のある提案だ」
数万年という時を生きてきたイプシロンにとって、100年以下の人間の寿命はあまりにも短い。それこそ気を抜いていればあっと言う間に年月が過ぎてしまうだろう。だからこそ、雅を己の家に招くというのは、イプシロンにとっても気の合う友人と過ごす時間を多くとれるという利点に繋がる。
雅はそんなイプシロンの提案を受け入れ……彼女に初めて、己の居場所と言える場所が出来た。
武術に多少覚えがありイプシロンの指導で魔法も習得したとはいえ、さすがに魔界きっての武闘派集団である戦王配下に所属できるほどの力は無かったので、雅は基本的にイプシロンの家の家事などを預かり共に生活していた。
イプシロンと過ごす日々は、彼女にとってとても幸せで満ち足りたものだった。薙刀に興味を持ったイプシロンに指導したり、イプシロンに似合う和服を提案したり、料理を作り一緒に食べたり晩酌をしたりと、瞬く間に時が過ぎていくように感じるほど楽しかった。
本当にあっという間に時は流れて起き、雅も老いていき……ついには起き上がることもできなくなり、寿命が尽きるのも間近と言える状態になっていた。
「……『イクス様』……いままで、本当にありがとうございました。イクス様と過ごした日々は……私の宝です」
イプシロンという戦王配下としての名前ではなく、イクスニルヴァという真名……さらにその愛称で呼ぶことを許されていた雅は、己の命の火が消えゆくのを感じつつお礼の言葉を口にした。
そんな雅に対し、イプシロンはフッと優し気な微笑みを浮かべながら告げる。
「礼を言うのはこちらの方だ。ミヤビと過ごした日々は、私にとっても素晴らしいものだった。貴女の死を見送り、その素晴らしい思い出は私の中で永遠に忘れぬものとなるだろう」
「……それなら……よかったです……たとえこの身が滅んだとして……私の魂はいつまでも……お慕いするイクス様と共に……」
そんな言葉を交わしながら、イプシロンは静かに雅の死を見送った。彼女は長い時を生きてきた。当然ながら魔族とて皆が不老というわけではなく、むしろ寿命が存在するものの方が圧倒的に多い。
人間族と比べれば長命なものも多いが、それでもいままでイプシロンが見送ってきた知人の死は膨大だ。
死の別れを惜しむことは無い。過ごした日々は永遠の思い出となり己の心に残り続ける。だからこそ、敬意と共に死を見送る。いままでそうしてきたように、イプシロンは雅の死を見送った。
そう、この時はまだ……イプシロン自身、後に己に訪れる出来事を想像すらしていなかった。
雅が他界した後も、イプシロンの生活が大きく変わるわけでは無かった。同居人が居なくなったことで、多少生活のリズムは変化したが、本当にその程度だった。
戦王配下として過ごす日々に戻り、雅の死に関しても割り切っている……つもりだった。
それは、雅の死から半年ほどが経過した際のことだった。
出先の港町で、イプシロンはふと気まぐれに魚を購入して帰った。彼女には食事は必須ではなく、基本的には宴会などで酒のつまみを食べる程度だった。
しかし、雅と過ごしていたここ数十年は人間である雅が食事を必要とし、雅がイプシロンの分の料理も作ってくれていたので、自然とイプシロンも毎日食事をしていた。
とはいえ雅が死んだことで、その習慣も無くなったはずだったのだが……たまたま売っている魚を見て「そういえばミヤビは焼き魚が好きだったな」と、そんな気まぐれで魚を買って帰り、自宅で調理をしてみた。
「……むっ、ただ焼くだけだというのに、ミヤビが作ったものように綺麗な色にはならないな。この辺りはやはり経験不足か……」
記憶を頼りに雅のやり方を真似て焼き魚を作ってみたが、ほぼ料理をしないイプシロンではやはり上手く焼き上げることはできなかった。
とはいえ焦がしたりしたわけでもなく、イプシロンは手慣れた様子で箸を持って焼き魚の身を口に運んだ。
「……味も全然違うな……料理とはなかなか……難しいものだ」
それはなんと表現するべきだろうか? 大きなきっかけがあったわけではない、例えるなら少しずつ本人すら気付かぬうちにコップに溜まり続けた水が許容量を超え溢れた様に……ポトリと、涙の雫が落ちた。
「……ああ……そうだ……私は……ミヤビの作る料理が……好きだった」
呟くように口にすると、涙があふれだした。出迎えてくれる者が居なくなった家が、どうしようもなく広く寂しくなったように感じた。
同時にイプシロンは己にとって雅という存在がどれほど大きかったのかを、いまになった実感することになった。
同じだと思っていた。
いままで見送ってきた死と同じように、思い出として割り切り受け入れることが出来るものだと。だが、蓋を開けてみればどうだ? もう二度と雅に会うことが出来ないという、その事実を思い浮かべるだけで底知れない絶望の中に沈んでいくようだった。
「……私は、呆れるほどに愚鈍だな。死を嘆き涙を流すほどに大切だったのなら……どうしてっ……生きているうちにそれを伝えてなかった……」
まるで胸に大きな穴が開いたかのような言いようのない感覚と共に、どうしてもっと雅との日々を大切にしていなかったのかと後悔が押し寄せてきて……イプシロンはしばし、誰もいない家の中で涙を流し続けていた。
そしてのちに、雅のいない日々に耐えれなくなったイプシロンは手を伸ばす……禁忌とされる術に……。
マキナ「ああ、我が子とイクスニルヴァの話だね」
???「……うん? 名前覚えてるんすか?」
マキナ「あ~うん。まぁ、たぶん後編とかで分かると思うけど、愛しい我が子の誕生日パーティの前にちょっと話したからね……まっ、少しは価値を示したんじゃないかな?」