エピソード5 地上に使わされた少女
ひとつの真珠と無数の石英をちりばめたような、ドイツの静かな夜空。
その夜空の下に、フリューゲルの姿があった。
眼下には雲。透き通るような綿雲もあれば、岩山のように大きく競りあがった雲もある。フリューゲルはそんな雲さえも突き抜け、虹色に輝く大きな翼を広げて、ゆっくり飛んでいた。
追いかけてくるものはなく、上空には飛行機の陰も見当たらない。これほどの高度を飛んでいてもフリューゲルの体に異常がないのは、魔法でその負担を軽減しているからかもしれない。
すると、フリューゲルは翼を折りたたんで一気に急降下する。雲を突っ切り、ローブをはためかせ、電気の明かりのない、まるで奈落へ続くほら穴のような一帯へと、吸い込まれるように舞い降りてゆく。
「……確か、ここでいいと思うんだけど。」
再び翼を広げる。魔法は使わず、羽ばたきもせず、翼が受ける空気抵抗だけを頼りに、大きく大きく螺旋を描きながら、森らしきその場所へと紛れてゆく。
「うん、間違いない。」
フリューゲルが舞い降りた場所。
そこは、キャンプ場。
星明りのみに照らされた、明かりのないキャンプ場。
もう誰も使っていないのか、経営者もいないのか、かまどは埃まみれ、薪も雨ざらしで使えそうになく、丸太で舗装された林道も雑草だらけ。それでも、大粒の石や砂利を敷いた場所だけは辛うじて庭だと分かる。
「やっとついた。」
フリューゲルは丸太敷きの林道を通り、二回大きく羽ばたいて速度を落とすと、赤いブーツでそっと降り立つ。そして、ふさふさの耳、ヒスイ色の髪、海色の瞳、虹色の翼、赤いローブの衣装など、すべて元に戻す。
同時に、両手から光が飛び出し、エルナ、フランカ、ハーゼの姿が現れる。全員、手をつないで輪になっていた。
「フリューゲル、ここは?」
エルナの問いに、両隣にいるエルナとフランカの手を離してフリューゲルは答えた。
「わたしの実家…… だった場所。今はもう経営していないけど、『ビレッジ・ヴェンティル』へようこそ!」
ビレッジ・ヴェンティル。
それが、この一帯のキャンプ場の名前だ。……いや、『だった』。
「ってこたぁフリューゲル、前はここに住んでたの?」
「そうだね。ミラおばさんとエルナト兄さんと、三人で。でも、わたしがこの近くの基礎学校に上がる時くらいからかなぁ。だんだんキャンプ場を使ってくれる人も少なくなって、ほとんど誰も来なくなった時に、ミラおばさんは建物も土地もすべて売って、エルデに引っ越してきたんだ。時代のせいだっておばさんは言ってたけど、その時のわたしには分からなかった。」
そこに、ハーゼが言う。おそらくはキャンプに来たお客が泊まるためのものだろう、朽ち果てたログハウスを見上げながら。
「そっか。いろんな技術が発達して、ネットでいろんなことができるようになって、自然と触れ合う機会がなくなってきているんだね。」
「それはそれで、さびしい気もしますね。」
フランカがそうつぶやき、エルナもそうだねとうなずく。
すると、フリューゲルが言った。
「ハーゼ。この周囲にステルスを張ってくれる? わたしが魔法を使ってもシャックスに気付かれないように。」
「そうだね。」
ハーゼとフリューゲルは、それぞれ右手と左手を掲げ、魔法を発動する。
「ステルス!」「時間よ、戻れ!」
するとどうだろう。
月明かりに照らされた、目の前のログハウスや朽ち果てたかまど、そして庭や林道などに異変が起こった。
敷地を取り囲む木々は変わらない。だが雑草は枯れ果てて崩れ落ち、クモの巣や埃だらけだったかまどもきれいに片付き、ログハウスもシロアリや雨にボロボロにされる以前の姿を取り戻した。
木の板やロープなどで作ったジャングルジムやシーソー、ブランコなど、子ども用の遊具も復活した。それらの残骸は雑草に隠れていて、誰も気付かなかった。フリューゲルはログハウスや庭だけではない、すべての施設を、できるだけ以前の状態に復元していた。
そんな大掛かりな魔法を見て、ハーゼは呆れたように声を漏らす。
「……うわぁ。相変わらず常識外れのことをやってのけるねぇ、きみは。」
さかのぼること三時間前。
レーヴェンクラウ大学を離れた一同は、エルデの町を走っていた。ハーゼはたまに、シャックスが自分たちのすぐ近くにいないかどうかを確認する察知魔法をかけながら。
建物の陰に隠れ、たまに息を整える。そして近くにシャックスがいないことを確認し、また走り出す。
ハーゼが尋ねる。
「フリューゲル、駅はあとどれくらいの距離にある?」
「すぐだよ。ここからだと、あと五分。」
「五分か。それならシャックスにも見つからないだろう。」
目的地は、ここから一番近い駅。電車に乗って、町を離れようとしているのだ。
裏通りから裏通りへ。表通りはあまり使わず。
だが目的の駅までは、駅前の大通りを渡らなければならない。四人は大きな交差点に出て、信号が赤から青に変わるのを待つ。
「赤信号かよ……!」
焦燥感を表情ににじませるハーゼ。たとえ一分一秒でも余裕などないのに。そこにフリューゲルが言う。
「いっそ魔法を使って飛んでいければ簡単なのにね。」
「だね。だけど街中で魔法を使うのは危険だ。さっきみたいに人々の注目を集めるし、シャックスにも居場所がばれる。人ごみに紛れながら移動するのが一番…… ん?」
その時だ。
ハーゼが、交差点の向こうを見て何かに気付いた。
「どうしたの、ハーゼ?」
「いや、変わった人がいるもんだなと思って。」
ハーゼは言うが、自分こそ現代の都会で民族衣装を着ておいてそれはない。
フリューゲル、エルナ、フランカは、ハーゼの視線の先を追う。そこにいたのは、ひとりの男。白い胴着と紺色の袴、足元には草履をまとう、筋肉質な大柄の男だった。ドイツの町ではひときわ浮いているその人物を、フリューゲルたちは見知っている。
「あっ、エリック先生だ。」
「先生? きみたちの学校の?」
「うん。エリック・ヴァン・リヒトホーフェン先生。剣道の有段者で、その実力から英雄ジークフリードって言われてるんだ。」
ちょうど信号が赤から青に変わる。フリューゲルたちは真っ先に歩道の上を駆け、エリックのそばに駆け寄った。
「先生! 偶然ですね、こんなところで会うなんて。お出かけでしたか?」
「……ああ。お前たちも、どうしてこんなところにいる。寮に帰る時間だろう?」
「そうなんですけど…… でも先生、ごめんなさい。わたしたち今日は帰れません。ひょっとしたら明日も帰れないかも。でもどうしても、遠くに行かなきゃいけないんです。」
「何があったか知らんが…… まぁいい、気をつけるんだぞ。」
そのエリックの返答に、フリューゲルは酷く戸惑った。
「えっ? 先生……」
――どうしたんだろ。先生、いつもみたいな覇気と元気がない。
――それに、理由を聞いてこない。生徒のことを一番に考えてくれる先生が……
これには、エルナとフランカも驚いた。
「どうしたんですか、先生。何か、元気ないですよ?」
「お疲れでしたら、早く帰られた方がよさそうですね。」
ふたりは言うが、エリックは首を横に振って答えた。
「……いや。至って問題はない。今日はただの買出しに出ただけだし、疲れることも何もない。ただ、どうも元気が出ないのだ。まるで『あの男』に呪いでもかけられたかのように……」
あの男。
そのフレーズに、フリューゲルたちは思わず互いの顔を見合わせる。
「あの男……? ねぇ、エリック先生! 誰に何をされたんですか?」
「妙な男だった。夏だというのに黒衣に身を包み、古美術品のような腕輪を右腕に巻いていた。その腕を向けられた瞬間、こう…… 気力も、目的も、何もかもごっそり抜け落ちてしまったかのような……」
その言葉に、誰もが愕然となった。
エリックの言う『黒衣に身を包んだ妙な男』には、誰もが心当たりがあったからだ。
「先生……!」
駅近くの商店街。
そのうちのひとつの喫茶店の奥に、一同は身を隠しつつエリックの話を聞いていた。その間も、ハーゼはシャックスに対する察知魔法を発動し続けている。
コーヒーを前にして、しかしそれに手を伸ばすこともなく、フリューゲルたち四人にエリックは言った。
「そうか。……シャックスというのか、あの男は。俺から、そしてたくさんの若者から夢を奪い続けている、あの黒衣の老人……」
エリックは冷め始めたコーヒーをひと口、すすった。
「リヒトホーフェン先生……」
フランカが覇気のないエリックの顔を見つめる。
するとエリックが、ぽつりと言った。
「近頃、進路希望アンケートに恐ろしい結果が出ていた。」
その言葉に、それまでうつむいていたフリューゲルも顔を上げる。そして四人は、エリックの言葉に耳を傾ける。
「今年になってからだ。毎日を無気力に生き、将来の夢も方向性もない、親や教師に言われるがままに将来をあっさり決めてしまい、しかもその将来に希望も意欲も感じない、そんな学生が増えている。
学生だけではない。教育に熱意を注いでいた同僚たちの間にも、次々にその熱意を失う者が増えてきている。それは何かしらの病気かと思っていたが、今、何が起こっているのかよく分かったよ。」
淡々と言葉を並べるエリック。無気力なそんな彼を、フリューゲルはうつむき加減に見つめていた。こんな姿を見るなんて思わなかっただろうし、シャックスに夢を奪われたと知った今でも見たくなかっただろう、夢を失ったエリックの姿。それはなんとも、うつろなものだった。
「この町で、そんなことが……!」
ハーゼは小さくつぶやく。そしてフリューゲルたちもうなだれた。敬愛するエリックから夢を奪ったシャックスに対する怒りと、そのシャックスからエリックの夢を守れなかった自分たちの無力さへの悔しさを表情ににじませながら。
そこにフリューゲルが、エリックに尋ねる。
「……ねぇ、先生。覚えてますか?」
「何をだ?」
「先生のかつての夢。空に掛かる虹を、いつか渡ってみたいって。そしてそんな先生と同じようにわたしはその虹を超えたいって言ったことを、応援してくれるって。そう、言ってくれましたよね……?」
「ああ、言ったな。」
「先生。今でも、わたしが想い描く夢を応援してくれますか?」
両目を震わせるフリューゲル。
そんな彼女を静かに見つめるエリック。
無垢なる小人の大きな瞳と、豪然たる巨人の静かな瞳。
相反する両者は、似た者同士のはずなのに。
「先生……」
するとエリックはフリューゲルの頭に手を乗せ、子猫の背中をそうするように、優しくフリューゲルの髪を撫でた。
だが、フリューゲルの表情は曇ったままだ。
――力強さが、ない……
――いつもの先生みたいな、わたしに元気をくれる笑顔がない……
あの日、フリューゲルに過去の自分の夢を語ったエリック。
その時の彼の表情は、少年のような、子どもの頃に戻ったかのように元気な笑顔だった。
だが、今の彼にその面影は感じられない。
フリューゲルは、思った。
――これが、夢を失うってことなんだ……
……すると。
「フリューゲル。」
エリックは言った。
「先、生ぇ……?」
「信じろ。いつか叶うことを。そしていつか、自分の手で叶えることを。」
フリューゲルの髪をなでる手に力強さはない。
フリューゲルを諭すその言葉ひとつひとつに覇気はない。
それでも。
その手はフリューゲルが目を細めるほど、その言葉はフリューゲルの胸と呼吸を乱すほど。
やさしく、そして愛に満ちていた。
「大丈夫。お前には、その力がある。」
そのやさしい励ましの言葉に、フリューゲルの悲しみは少しうすらいだようだ。
そしてそんなフリューゲルとエリックを、エルナ、フランカ、そしてハーゼは、そっと見守っていた。
喫茶店を出る。
ハーゼの魔法には何の反応もない。この近くにシャックスがいる気配はない。
夕日も西にある森の向こうに沈み、空は濃いオレンジと深いコバルトに変わり始めている。西の空に浮かんでいる雲も、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
サラリーマンたちが家路を急ぐ。逆にこれからアルバイトが始まる学生たちも、自転車やスケートボードを走らせてアルバイト先に向かおうとしている。
「では、リヒトホーフェンさん。僕たちはこれで失礼します。」
「ああ。ハーゼくん、うちの生徒たちを頼む。お前たちも、気をつけてな。」
エリックに見送られる一同。そんな彼の表情は、先程よりも少し顔色がよくなっているようだ。
するとエリックは、何かを思い出したようにフリューゲルを呼ぶ。
「……そうだ、フリューゲル。」
「はい。」
「すっかり何もやりたくなくなってしまっておいてこう言うのは説得力に欠けるが、聞いておいてほしい。」
互いに向き合うフリューゲルとエリック。そんなふたりを見つめるハーゼたち。ほんの少しの間を置いて、エリックは言う。
「フリューゲルは、今の世の中をどう思う?」
「えっ? いきなりそんなこと聞かれても…… 社会科の特別授業ですか?」
「そうではないが、思ったことを言ってみろ。」
今の世の中をどう思うか。十三歳、高等教育三年生の少女には、世の中というのはあまりにも大きすぎて、まだ見えない、分からないところが多すぎる。それでも、漠然としたイメージを言葉に置き換えてみる。
「……大人は忙しそうだとか、空気がガス臭いとか、戦争はどうしてなくならないんだろうとか、そう言うことですか?」
「そうだな。確かに大人たちは子どもの頃の夢などすっかり忘れて、忙しい毎日に振り回される。教師などやめたいと愚痴を吐き、ロボットのように授業をこなす先生もいる。学生時代の友人などは、家庭に恵まれ職場でも昇格したがまったく楽しそうじゃない。
シャックスに夢を奪われなくとも、夢を見失う大人は大勢いる。そして今お前が口にした戦争は、人々からたくさんのものを奪ってゆく。命だけ助かっても、失ったものが多ければ、それだけ心は悲しみに蝕まれるものだ。
……だが、夢がまったくない世界ではない。いや、むしろ世界は夢に満ち溢れている。夢が今の世界を作っている、それは間違いのない事実だ。」
その言葉を、フリューゲルだけではない、全員が聞いていた。
「世界は夢が作っている、ですか……?」
「そうだ。考えてみろ、夢も目標も掲げない無気力な大人が世界を作れると思うか? 車を作り、立派なビルを建て、大陸を越える船や飛行機を建造し、果てには宇宙にロケットを空に飛ばすということが、何が何でも夢を叶えたいという意欲のない人間になしえると思うか。
答えは否。断じて否だ。熱意ある人間がその分野の先駆者となり、志を同じくする仲間と共に突き進んできた。世界は夢に満ち溢れているんだ。
時に失敗しただろう。大きな怪我を負うこともあっただろう。順風満帆に行く人生ではなかっただろう。しかしそんな荒波続きの航路を行き、彼らは成功を成し遂げた。今の世界は、そうした夢を持った子どもがやがて大人となって活躍し、作り上げてきたものだ。
夢を見失うということはすなわち、心に想い描く未来が失われることに他ならない。誰もがそうなれば、それは人間社会の崩壊を招く。その果てに待つものはきっと誰にも想像もできないだろう、あまりに虚ろな未来しか存在しない。
ここは決して童話や神話のような世界ではない。それでも人は、夢を叶えることができる。人は生まれながらにして、そういう魔法のような力を持っているんだ。」
フリューゲルは、胸の奥に強い鼓動を感じた。
エリックのひと言が、強く響いたのが分かった。
――「それでも人は、夢を叶えることができる。」
――「そう言う魔法のような力を持っているんだ。」
「せっ、せい……っ。」
するとエリックは、買出しの荷物の中からあるものを取り出し、それをフリューゲルの前に差し出す。彼が手にしていたのは、小さな紙袋。アメリカ製の新聞紙だけで作られた、エコロジーでちょっとおしゃれな雰囲気もする、そんな紙袋だった。
「先生…… これ、何ですか?」
「ああ。先程アメリカ街道で見つけた、アメリカ先住民の夢を守るお守りだ。お前に渡そうと思っていた。是非受け取ってほしい。」
中身は、よく分からない。
分かっているのは、それはアメリカの先住民の夢のお守り。夢という、フリューゲルにとってはとても大事なキーワードが、そこにあった。
「せ、先生……」
そして、フリューゲルは。
「……ありがとう、ございます。絶対、絶対、大切にします!」
震える手で、そっと受け取った。
エルデ鉄道。
走る電車の中、窓際のシートに座るフリューゲルは、エリックからもらった紙袋を見つめていた。そんな様子を、ハーゼたちは静かなに見つめている。
「エリック先生か。夢を奪われたと言うのに、とても素晴らしいことを言う先生だね。」
そのハーゼの言葉に、うつむきながらフリューゲルは答えた。
「うん。わたしにとってとても大切な先生だよ。たくさん叱られるし、よく呆れられるけど、わたしの夢を笑わないでいてくれる、そして応援してくれる、大好きな先生。」
「そっか。なら、僕たちはエリック先生のためにも戦わなきゃ。」
ハーゼの言葉に、フリューゲルは静かにうなずいた。
そして、フランカが向かいの席から言う。
「フリューゲル。先生からいただいたもの、開けてみませんか?」
「あっ。あたしもそれ気になってた。見せてよ、フリューゲル!」
「……うん、そうだね。」
ふたりに言われ、フリューゲルは紙袋を留めていた金色のシールを横にきれいに破り、更にギフトラッピングされた中身を取り出した。
ラッピングの紙から現れたのは、不思議なものだった。革紐を巻かれた輪にはクモの巣のように糸を張り巡らされ、その中央にビーズを飾られ、輪の周囲にも鳥の羽根や革紐、ビーズなどで飾り付けられた、少女の手のひらほどの大きさのもの。
これがお守りなのだろうか。フリューゲル、エルナ、フランカが首をかしげていると、それを知っているのか、ハーゼがその名前を口にした。
「『ドリームキャッチャー』か。」
その言葉に、フリューゲルたちはハーゼの方を見る。
「ハーゼ、知ってるの?」
「うん。アメリカ先住民のお守りで、名前の通り、持ち主を悪夢から守り、いい夢だけを見させてくれる、そんなお守りだよ。よかったね、フリューゲル。素敵なプレゼントをもらえて。」
そうだ。確かにエリックはこれを、夢を守るお守りと言っていた。
夢を守るお守り、ドリームキャッチャー。
フリューゲルはそれを手に、静かに見つめる。
黙りこくるフリューゲル。そんな彼女を見守る、ハーゼ、エルナ、フランカ。
そしてフリューゲルは、静かに、小さく、うなずいた。
「……うぅ。」
「ねぇ、フリューゲル?」
ぽたり、ぽたりと、水音が聞こえる。
ひと粒、ふた粒、涙がこぼれ落ちる。
「……あぁ、そうだよね。」
隣に座るハーゼが、フリューゲルの頭に手を乗せ、きれいな金色の髪を静かに撫でる。
ドリームキャッチャーを見つめながら、フリューゲルは、涙をこぼす。
ぐすっ、ぐすっと、鼻をすすりながら。
何度も、何度も、左手で涙をぬぐいながら。
「辛いよね。でも。」
フリューゲルの肩を抱え、ハーゼはそっと抱き寄せる。
泣きじゃくる小さい子どもを、あやすように。
「きみはとても、大切に想われているんだね。」
夕暮れのエルデの町を、列車は走る。
その鋼の体に空の色を映し出し、その空に見守られながら。
音痴な鼻歌を、警戒に歌いながら。
エルデ鉄道の終点で下車した一同は、路地裏に隠れ、魔法少女の姿になったフリューゲルの胸に吸い込まれた。そしてフリューゲルも、裏通りから、コバルトブルーに染まった空へと飛び立った。
虹色の翼を広げ、飛び続けることおよそ一時間。目的地のビレッジ・ヴェンティルに到着する。その頃にはすっかり暗くなり、空を見上げれば、満天の星空が広がっていた。
大小四軒のログハウスを抜けた先に、大きくも小さくもない、二階建てのログハウスがある。フリューゲルはそのドアを開け、中に踏み入った。
引越しの際にほとんどの荷物をまとめて去ったため、残されているのはガラクタばかり。それでも、フリューゲルの魔法である程度のものは形を取り戻した。
フリューゲルは戸棚からオイルランプを取り出し、テーブルクロスのない木のテーブルの上に置いた。フリューゲルがパチンと指を鳴らすと、芯の糸に火がついた。ぬくもりのあるオレンジ色の光が、ログハウスの中を照らし出す。
「みんな入って。今お湯を沸かすから、ラーメンでも食べよっか。」
フリューゲルはハーゼたちを招きいれ、耐熱ガラス製のヤカンに水を汲み、これまた魔法で一瞬にして沸かしてしまう。ガスもIHも電気ケトルも、魔法の前では不必要のようだ。
ハーゼが室内を見渡し、言う。
「立派なログハウスだね。ここに住んでたの?」
「うん。部屋も四つあるし、人数的にもちょうどいいよ。どうする? みんなでこの家のそれぞれの部屋で寝るか、どうせ誰も来ないから来客用のログで寝るか。」
「あー、うん、僕はきみに任せる。でも布団はあるの?」
「あるよ。敷き布団に毛布に羽毛布団にハンモックにキャンプ用寝袋、何でもござれ! 最後にどこにしまったかは覚えてないけどね。」
頼りにならないオーナーさんだなー、とエルナは冗談気味にぼやくが、フランカはとてもワクワクしているようだ。
この日の夕食は、温かいコーンスープとカップラーメン、玄米と大豆と甘味料を混ぜた小麦ブラン。翌朝のメニューなのか、テーブルの片隅には粉末のミルクとシリアルがセットにして置かれている。
すべて食べ終え、オーナー代理のフリューゲルが二杯目のスープを用意する。エルナが携帯電話を開くと、液晶画面にはやや遅い時刻が表示されていた。
「いつもならこの時間、宿題に追われてるかテレビ見てるけど、何もないと何もすることないよね。」
エルナの言葉に、フリューゲルもフランカもうなずく。そこにハーゼが言った。
「明日はシャックスとの直接対決だ。今のうちに寝て、体力を回復、温存させとこう。その前に、シャックスとの戦いに向けた最初で最後の作戦会議だ。」
その言葉に、途端に気を引き締めるエルナ。フリューゲルとフランカも、それぞれの席でハーゼに注目する。
「剣術をやっているというフランカの力も是非貸してほしい。エルナのほうは、何か格闘技やったことある?」
「おう! 週に二回、実戦カラテをやってる。剣を持ってるやつとも戦えるんだよ!」
「すごい! なら、ぜひきみの力も。」
「いくらでも使ってよ。フリューゲルの力になれるなら、あたし何も怖くないよ。」
「そっか、ありがとう。じゃあ作戦会議の前に、ちょっとした魔法のおさらいと講義をしておきたいと思う。ちょっとだけ付き合ってくれないかな。」
スープを口にし、ハーゼは言った。
「まずは、シャックスについて。……あいつは魔法の番人としての能力は高く、お孫さんを取り戻したいという純粋かつ強い欲望のせいで、夢を失っていながらアークルを生み出すことができる。しかもその実力はハンパじゃない。一対一で戦ったら、僕なんて足元にも及ばない。それでも渡りあえたのは、遠距離での攻撃魔法を鍛え、シャックスにも無駄なアークルを使わせたからだと思う。
次にアークルについて。アークルとは、魔法を使うために必要なエネルギー。それは心から生み出され、心が活発であればあるほど心からアークルが生み出され、魔法もたくさん使うことができる。逆にアークルを使いすぎると心に負担をかけ、疲れてしまう。
そして魔法を使うことについて。フリューゲルが使う魔法は過去の魔法の番人や魔法使いが培ってきた魔法理論を大きく無視しているけど、僕ら普通の魔法使いと同じようにアークルを必要とすると言う点については相違ない。
……ここまではいいかな。質問とかあるかな。」
そこまで一気にハーゼは述べる。
ハーゼに質問を投げかけたのは、フランカだった。
「シャックスに無駄なアークルを使わせることでハーゼくんが彼と互角に渡り合ったと言うのは、どういうことですか?」
「うん。グンター、あのシャックスが操る始祖鳥のような乗り物を働かせたんだ。あれは実在する始祖鳥の化石を原材料に生み出されたものなんだ。
ただあの始祖鳥の姿を維持するためには、シャックスが持つアークルを供給する必要があって、シャックスが移動するのに便利になる反面、シャックス自身のアークルを大きく消費する。
僕はそれをうながすために、戦う時は空中戦に持ち込んだ。お孫さんをよみがえらせる、ただそれだけの目標と欲望しか持たないシャックスは、簡単に僕の誘いに乗ってくれた。とは言えシャックスのアークル制御、魔法操作技術は、決して侮れない。シャックスの足止めが精一杯だったよ。」
「じゃあハーゼ。」
エルナが質問する。
「心が活発な状態って、どゆこった? 集中力や心の強さが必要なら分かるけど、活発な状態って言われてもピンと来ないなぁ。」
「それは、人が持つ想像力が豊かであること。感情が高ぶること。夢や希望、目標を見失わないこと。何かしらの意欲が満ち溢れていること。ひとつの欲望や感情を常に燃え盛らせていること。そう言った『心の動き』からアークルは生まれる。
逆に、無気力だったり醒めた考えばかりしていたりするとアークルは生まれない。シャックスに夢を奪われた魔法の番人がいるけど、彼らは夢を失ったことでアークルを生み出せなくなり、魔法も使えなくなった。
そしてアークルの生成・含有量は、子どもに多く、大人になるに連れて減ってゆく傾向がある。もちろん大人も持っていないことはないけど。それにアークルを作り続けるには、活発な心を維持する必要もあるから、エルナが言った集中力もとても大事だ。」
「はぁ~…… 余計分からなくなった。」
「とにかく、心に夢や願い事、高い目標を持っていて、それに向かって行動できれば、アークルは生まれる。フリューゲルがすごい量のアークルを持っているのは、フリューゲルが純粋な夢を持っていて、それを叶えたいと願っているからだ。」
納得できているのかいないのか、エルナは「はぁ~……」と息を漏らし、小さくうなずく。
ハーゼは話を進める。
「魔法のまとめ。これまでにも言ったとおり、魔法は人の心から生まれるアークルをエネルギーとして、地球の気候などを操り、局所的な自然現象を生み出し、あるいは自然災害の緩和に役立たれてきた。かつてはそれを人々の暮らしを豊かにするためにあり、しかし今では人々を脅かす存在になっている。
その魔法を使うに当たって、アークルは必要不可欠なエネルギー。それが魔法を使うたびに無駄に消費されるようでは、すぐに枯れ果ててしまう。そうならないために、アークル消費を制御する魔法式やその式が刻み込まれた媒介が必要になる。」
そこまで言うと、ハーゼはフリューゲルに質問を投げかけた。
「ねぇ、フリューゲル。昼間、初めて魔法を使ってみてさ、どうだった? たった一回空を飛んだだけで、息苦しくなったり、疲れを感じたりしなかった?」
「あっ、うん。したかも。空の高い、空気の薄いところに昇ったのとはまた違う、元気がムダに流れていって、心がすごく疲れた感じが、あの時に。……そうだよ。心が疲れる、今までそう感じたことなんてなかったのに。」
「それがアークルの枯渇だ。アークルを消費するとそれだけ精神が疲弊し、心の活動力も奪ってゆく。しかもフリューゲルの場合、その制御ができていない。……だから。」
そう言うと、ハーゼは民族衣装の下に隠していた小さな布袋から何かを取り出し、それをフリューゲルの前に置いた。
「えっ……?」
「これをきみに。」
それは、銀色の指環。
一見すれば、模様も飾りも宝石もない、シンプルな銀色の指環。しかし、指環の裏地には細かな紋様が彫られている。それは文字にも見え、模様にも見える、不思議な紋様の羅列だった。
「ハーゼ、これは……?」
「僕の魔法媒介と同じ、魔法の指環、『霧の民の指環』。魔法媒介の中でも古い歴史を持つもので、魔法使いの霧の民族によって作られた高級品だ。」
「そんな上等なの、わたしが使ってもいいの!?」
驚きを隠せないフリューゲルだが、ハーゼは首を縦に振って答えた。
「ああ、構わない。戦争に加担した魔法協会たちからくすねてきたやつだし、これ以上彼らに魔法は使わせたくない。そして魔法も、あんな連中より、きみにこそ使われるべきだ。」
フリューゲルの目の前に置かれた、魔法の媒介。
銀色の指環、霧の民の指環。
フリューゲルは、それを。
「……うん。ありがとう、借りるよ。」
一瞬ためらったあと。
「ううん、あげるよ。」
右手で取り、左手の中指に添えた。
そして、ハーゼが言った。
「それじゃあここからが第二の本番。今度こそ作戦会議を始めようか!」
魔法講義および作戦会議、終了後。
フリューゲルは浴槽に水を張ってお湯を沸かし、その間にフランカが使った食器を洗うことに。エルナが「魔法で沸かせば一発じゃん?」とフリューゲルに言うが、「途中まではそう思ったけど、何でも魔法に頼るのもキャンプの醍醐味を損ねるかなーと思って。」と返された。さすがは元キャンプ場のオーナーの娘だ。
後片付けも終え、ベッドの準備も完璧。明日の朝食の準備も、お湯を沸かしてシリアルを作るだけ。着替えも枕元に準備した。明日のためのすべての準備が整った。お湯が沸いたことを確認すると、フリューゲルがハーゼたち三人に言う。
「お風呂の準備は、もうできてるよ。みんなお先にどうぞ?」
「あー、そうさせてもらうよ。言っとくけどハーゼ、覗くなよ?」
「だっ! 誰がっ!」
「はぅ、ハーゼくんはそんな人じゃありませんよぅ……」
深夜。
パジャマに着替え、誰もがベッドに入った。
……はずだったが。
「一番寝られてないの、僕だったか。」
貸し与えられた二階の部屋。ハーゼが目を覚ました。
いや、眠れず、ずっと閉じていたはずのまぶたを開いたようだ。
「しょうがない。水でももらおう。」
そうつぶやくと、ハーゼは寝巻きのまま屋内用スリッパを履いて部屋を出、そして階段を下りた。
一階はまだ温かかった。いや、一度消したはずの暖炉には再び火が点されており、暖炉の前には丸太に座る人影があった。
「……フリューゲル?」
「えっ?」
ハーゼは人影の名を呼ぶ。そして答えた人影は、確かにフリューゲルだった。
「ハーゼ、起きちゃった?」
「ううん、眠れなかった。水をもらおうと思ってさ。フリューゲルこそ。」
「わたしも眠れなくて。だからちょっと火に当たってた。」
そう言ったフリューゲルの姿は、ピンク色のネグリジェ(ゆったりとした寝巻き)にスリッパと言ったもの。左手に持っているマグカップの中身は、ただの水のようだ。ちなみに蛇口こそ普通のタイプだが、このログハウスに供給されているのは水道水ではなく、川の上流から水路を引いてきている天然水だ。
ハーゼは、フリューゲルの隣、それもまともに掃除していない床に直接座ると、汲んだばかりの水道水を口にした。
「……フリューゲル。怖い?」
そう唐突に尋ねてきたハーゼの言葉にフリューゲルは一瞬きょとんとするが、すぐに穏やかな表情になり、暖炉の火を見つめて答えた。
「うん、怖い。」
「……だよね、やっぱり。」
「でもね。」
フリューゲルは、ぬるま湯に口をつけて答えた。
「それ以上に、シャックスは許せない。たくさんの人から夢を奪い、エリック先生からも奪った。夢を奪う、それはこれからの未来を作ってゆく人から未来を作る力を奪うことなんだ。それは絶対にやっちゃいけないことだよ。何が何でもシャックスはつかまえなきゃ。そしてエリック先生やほかのみんなの夢も、絶対に取り返す。」
「うん。……ありがと。フリューゲル、きみでよかったよ。僕と一緒にシャックスをつかまえてくれる、ううん、僕なんかよりもよっぽど素質のある魔法使いが、きみでさ。」
そう言うと、ハーゼも暖炉の中の火を見つめながらマグカップ口にした。
「えへへ。わたしも、ありがと。」
すると、ハーゼは尋ねた。
「フリューゲル。きみの家族は…… あ、いや、ここを経営していたミラさんとエルナトさんって、どんな人なの?」
「わたしの、お母さんとお兄ちゃんの代わり。」
「……やっぱり、本当の家族じゃないの?」
「拾われたんだ。」
そしてフリューゲルは、マグカップの中のぬるま湯に魔法をかけて暖めた。あたたかな湯気が、ふわりと浮かぶ。
「このキャンプ場の森の、奥の更に奥。その丘のてっぺんに菩提樹があるんだ。
そこにわたしは捨てられてた。まだ生まれてすぐの赤ちゃんの頃に毛布に包まれて藤カゴに入れられ、わたしの名前と生年月日がつづられたカード、そしてお母さんかもしれない人からの、『ごめんなさい。』って短い手紙も一緒に。
今はそうだと分かる。でも小さい頃わたしは、そうじゃないって教わってきた。ミラおばさんはこう言ったの、『フリューゲル。あんたは神様から使わされた天使なんだ。』……って。
知ってる、ハーゼ? マザーグースではこう歌われてる。男の子はボロ雑巾やガラクタとかでできているけど、女の子は砂糖とスパイスと素敵なものでできている。でも、わたしがとても大切にしている童話ではね、神様が持ち寄った夢や宝物、たとえば神様の幼い頃の思い出や、未来に託した願いを持ち寄られて、ひとりの天使が作られたんだ。
わたしもきっと、そんな風にして生まれたんだと思ってた。バカみたいな話だけどね、わたしは半分、それを信じてる。でなきゃ、子どもみたいだって自分でも分かってる夢、まだ持ってるわけないもん。」
「……虹色の橋を越え、その向こう側の世界に行く、ってやつ?」
そのハーゼの言葉に、フリューゲルは小さくうなずく。
「向こう側にあるのは、神話の世界。きっとそこは、わたしのふるさと。」
「フリューゲルの故郷か。……もし、そこにさ。フリューゲルを桜の下に置いてきたお父さんやお母さんがいたら、どうする?」
「そうだね。ひと言、文句を言ってやろうかな。」
「文句?」
「ずっとさびしかったんだよって。学校じゃ親なしフリューゲルってからかわれたし、それがはじまりになって、わたしはいじめられっ子になったんだからって。お父さんやお母さんがいたら、きっと違った未来があったはずだって。どうしてわたしを捨てたのって。」
「……そう。」
「でも、いいんだぁ。」
「え?」
ハーゼは、のんきな声を上げたフリューゲルの横顔を見る。みずみずしい頬、まぶたが半分閉じた瞳、砂金のようにきれいな金髪が、暖炉の火に照らされて輝いている。
「怒ったって憎んだって、どうしようもないことくらい分かってる。」
「……どうしようもなくないよ。」
今度はフリューゲルが、ハーゼの方を向く。
丸太に座るフリューゲルと、床であぐらをかくハーゼ。フリューゲルが彼を見下ろし、ハーゼが彼女を見上げた形になっている。
「それがフリューゲルにとって辛い過去なら、思い切って吐き出しちゃえばいいんだ。過去はどうにもならない。確かにそうだよ。でもだからって我慢したり割り切ったり、そんなことする必要はないんだよ。」
「ハーゼ……?」
「憎んだって仕方ないなんて達観したこと言うなよ。泣きたいときは泣けよ。怒りたければ遠慮なくぶちまけなよ。誰にも相談できないことがあったら僕が聞くよ。僕はフリューゲルの味方でありたいんだ。だから、僕のことも頼ってくれよ。」
「……ありがと、ハーゼ。やさしいんだね。」
フリューゲルは、マグカップにそっと口をつける。こくりと小さくのどを鳴らして飲むと、「はぅ~」、と表情をほころばせてため息をつく。そしてそれに続いて、ハーゼも。
そんなハーゼに、フリューゲルは言う。
「でも大丈夫だよ、ほんとに。エルナとフランカがいるから。」
「えっ?」
「どんなに夢をバカにされても、どんなに子どもみたいだって言われても、ふたりは笑わないでわたしの夢を聞いてくれる。いつか一緒に虹を渡ろうって言ってくれる。って言っても、わたしがちょっと強引にお願いした夢だけど。
エルナとフランカがいるから、わたしは夢を見失わないでいられる。ふたりがいるから毎日が楽しいし、どんなことでも乗り越えていける、そんな気がするんだ。
わたしを捨てた親にいつか会えるとしたら、絶対に文句を言ってやる。でも、今はそんなのはどうだっていい。わたしには大切な友代と尊敬できる先生がいる。私には叶えたい夢があって、友達はそんな私の背中を押してくれる。もうこれだけでわたしには、充分過ぎると思うんだ。」
暖炉の火を見つめながら、フリューゲルは微笑む。そんなフリューゲルの横顔を見つめながら、ハーゼもふっと笑う。ぬるくなった水をもう一度温めると、ハーゼもそれを口にして、温まる。
「……いい友達だね、フリューゲル。」
「うん。わたしの、自慢の友達だよ。」




