黄金の聖者と黒き聖母
「やほーごきげんようめぐっぺ」
「ごきげんよう、あすみん」
次の日、いつものように登校して学校へ。
今日もあの影のことばかりが脳裏に焼き付いていて起床が遅れてしまった。
当然のことだけど杏里さんは先に登校してしまっている。
規則正しい生活をしているのだろう、わたしとはつくづく正反対の人間なんだなーなんて思ってみたりしつつ、いつも通り教室に入って自分の席に付いた途端、もう恒例のようにあすみんの挨拶だ。
わたしは元気な挨拶に応えるとそのまま「ふわ~」っと乙女力の足りない大あくびをしてしまった。
「おやや、なんだか眠そうだねぇ」
「お、うん……ちょっと寝付きが悪くってね」
「ふむ、不眠症かい。いけないねぇ。いい薬ありますゼ、おぜうさん」
「間に合ってま~す。ふわわぁ~」
目を擦りつつ、ぼそぼそとそう言う。
あの後、どうも影ばかりが過ぎり眠れなかった。
あのまま眠ってしまうとあの光景が夢にでてくるんじゃないかと気が気がなかったくらい。
まるで恋に恋する乙女みたい。
けどその対象はこの世為らざるものという偏狂ぷりですが。
あの瞬間、たしかにわたしは普通ではなかった。
平常の判断力を失っていた。普段ならあんな場所へ踏み込もうなんて考えもしないはずなのにどうしてあんな場所に惹かれたのだろう。
机に前のめりになって「う~~~~」っとうなってみる。
「グロッキー状態じゃん、めぐっぺ。一学期始まったばっかなのに大丈夫? めぐっぺが失踪するとかマジ勘弁だよ」
失踪……その言葉が耳に刺さってなにかが頭の中でざわめく。
「……失踪?」
「一昨日話してたじゃん。生徒が次々に失踪してる~って」
「ああ」
そう言われてみればそんな話をしたような気がする。
七不思議のひとつ、生徒が消えてしまう怪。そんな話だったはず。
ここ最近の事態があまりに濃密でちょっと前の出来事でも随分前の話に感じてしまうのはなんだか歳を取ったみたいだなあ。
机に突っ伏したまま、昨日の焼き付いた記憶が蘇り、失踪事件という符号が重なる。
――もしかして……?
「文屋はまだそんなデタラメ話を吹聴してるわけ?」
声のするほうを見る。
その少し下に視線を移す。
「ゴラ。今、目線を変えなかった?」
『気のせいで~す』
ふたりでタイミングばっちりでハモりながらカナちゃんのほうを見る。
「あ、そう。ごきげんよう、ふたりとも。それとデタラメ話をまき散らさないでくれる。聖徒会が迷惑するから」
ふんすっ、と息荒く胸を張って言う。
「カナちゃん。聖徒会も迷惑してるの?」
「トーゼンよ。生徒たちが不安がってるから声明を出さなきゃいけないし。これも全部有ること無いこと書き散らす壊れたスピーカーもどきのせいね」
「はっはっはっ、褒めるなよ、生徒が見てる」
「誉めてねぇ!」
もう熟練した夫婦漫才のごとくふたりの息はぴったりだ。やっぱりこのふたり、すごく仲がいい。
「でもねー、事実かどうかなんてものはあたしが判断することじゃないんだよカナちん。それを選定するのは飽くまで大衆なんだもん」
「まー言いたいことはわかってるわよ、受け取る側のリテラシーってことでしょうが。だからって有象無象の情報を垂れ流していい権利はどうなの」
腕組みをするとあすみんは口を猫のようにして笑う。
「あたしに問われるのは読み物としての価値だけだもん。読み物としてゴミクズであれば誰も見向きしないでしょ」
「あっ……そっかー。それだけ見てる人が多いってことか」
「だからこそ、情報を流す側がモラルを持ちなさいって話をしてるんでしょう。ペンは剣より強し――タガの外れた情報は如何なる凶器よりも危険だって留意しなさいよ」
「はいは~い、分かってるってば。んもう相変わらずうっさいなー、カナちんは」
幾度と無く交わされているやりとりなんだろう。
これは偏りかける意識をニュートラルに戻すための修正作業のようなもの――カナちゃんからあすみんに対する敬意の現れなんだろう。
「――――。」
けれどふたりの話を余所にわたしの意識は違う方ばかりを見ていた。
すこしばかり、興奮している。
もしわたしの推理が正しいのならあの礼拝堂と事件になんらかの接点があるということ。
いつものわたしならば考えもしない決断。
あの礼拝堂にまた訪れてみようという決意。
正常な判断ではないと思いながらも高揚した意識はそれらの要素を遮断する。
あとにして思えば、
―――わたしは愚か者だった。
/
昨日と同じ時間まで図書館で時間を潰す。
自室に帰ると杏里さんが外に出させてくれない畏れもある。
そもそも連日夜間外出になるとシスターアナスタシアの逆鱗に触れそうだというのもあるからだ。
どちらにしても激怒されるのならやるだけのことをしてから怒られようという覚悟の元、わたしは図書館で時間を費やした。
この行動力、もっとほかのことに費やせばとでも言われそうだけど、この時のわたしはなにか不思議な力に後押しされるように真実らしきモノへ向かって邁進していた。
それこそ暴走機関車のように、歯車の軋みに耳をふさいだまま――。
周りを見渡すと知らない生徒ばかり、胸元のリボンを見るかぎり一年から三年の生徒が満遍なく利用しているみたい。
ただテーブルに座ってるだけっていうのも暇だし、かといってなんだか難しい洋書がズラリと並んでる本棚を見ると気後れしてしまう。
こんなのをいつも珠希先輩は読んでるのかあ。
告白しよう。わたしは読書が好きではないです。
なので人を殴り殺せそうなほど厚くて重い書物などを見ると、それだけで眠気が襲ってくる。
悩みぬいた末、『ハイペリオン』という本を手にとって机に戻るとそれを読む――努力はした。
結果としては言うまでもないだろう、せめて翻訳くらいはしてくれてもいいよねっ。
――小休止。
結局図書館にやってきたものの大した時間潰しにならず、元々眠かった圧してそのまま机で眠ってしまった。
司書さんに肩を叩かれて起きたのはすっかり夜も更けた時間。
頬にしっかりと書物の形を刻み込んだ間抜け面は知り合いに見られたら向こう一年はネタにされただろう、なんてことを思う。
ボサボサの髪をトイレで整えるだけの時間を待ってもらうと、閉館前に滑りこむように飛び出した。
外に出ると春先の微妙な寒気が、寝起きの低体温にシンと沁みて身体を抱きしめて小さく震えた。
思ったより寒くないな、と考えてるとどうも自分の容姿がいつもと違うことに気がつく。
肩に春先物の純白ガウンが掛けられていたのだ。
――誰が掛けてくれたのかわからないけど、なんだかとっても暖かい。
そう思いつつ、図書館前を後にしたわたしはその足で先日の礼拝堂へ向かった。
別に誰に隠れるわけではないけど、こういう静寂の空間に包まれると音を立てるのが憚られるのはなんでだろお。
月明かりだけ差し込む礼拝堂は昨日とまったく変わらない。まるで時が止まったかのようにそこに在り続ける。
月の光は礼拝堂の陰影を色濃く写し、より異質な空間であることをわたしに見せつけている。
ひとまず周囲を見渡してみるが、昨日のような気配も影もない。
ぽつんと、礼拝堂と相対して立つわたしだけが月から見下ろされている形になる。
今更だけど草影にとか潜んで様子を伺っていたほうが良かったんじゃないだろうかと考える。だけどその弱気を打ち消すように大げさに首を振った。
もし異形のものが居たとしたら、わたしの隠遁なんて容易に看破するだろう。
小細工するだけ時間の無駄なのだ。
「――よし!」
恐怖を胸の内で握りつぶすように一喝すると、一歩踏み出して――また躊躇いながらまた一歩踏み出す。
ある程度まで歩いていく。緊張と焦れに意識が奪われて、躊躇が
足を重く鈍らせる。
そんな吹っ切るように、わたしは一気にの走り抜けると巨大な扉の前で立ち止まった。
「はぁっはあっ、はあっ……ふぅ」
ドクン、ドクン。
運動ともいえぬような距離だと言うのにまるで百メートルを全力疾走したような疲労感。
恐らく居る訳がないと理解していながら、もし見つかったらどうなるのか――という思考が脳の芯で危険を訴えかけ、わたしの動作を鈍化させているのかもしれない。
ドクン、ドクン。
昨日は開けなかった重い扉、それが今また目の前にあった。
わたしの感が正しいのなら、この扉の先に真実がある。
ここを開けばすべてが解る、はず。
なぜかわたしはそう確信している。
誰よりも闇の匂いを感じ取ってしまう、生まれ付きの本能のなせる業だろうか。
息が荒い。
もし、
向こう側に化物がいるなら、
わたしの息吹を既に感じ取っているはず。
生者の息吹を、その生命の鼓動を認知しているはずだ。
手をかけたドアノブがまるで氷を握ったように冷たくて、指先が一瞬で冷え込む。
「はぁ、はぁはぁ……」
開けば、ハネる。
わたしの認識の外にある世界が、
今ある現実を食い尽くす。
開け、
開け、
開け、
声がした。
脳の裏側で囁くような声を聞いた。
不思議と心地よい、
わたしはノブをゆっくりと回す。
カチリ、と留め金がハネる音がする。
一度だけ空を見上げた。
赤く、紅い月が燦々と輝いて、星の瞬きすら奪いさっていく。
寄り添うものは無く、月光は血のように紅で地を染める。
月は限りなく、孤高だ――。
そんな感傷に浸りながらわたしは目の前の扉に手を掛けて思い切り開い―――
「――え?」
スゥ、と
違和感が走る。
突如、背後の月が消失した。
月が陰る、喪われる。
否、それは間違いだ。
わたしが背負う月明かりは何者かによって遮られたのだ。
それは―――、
くも、
「、ぁ……」
ぷつん、と糸が切れるみたいにわたしの思考も断線する。
消え往く意識の淵、僅かに浮かんだ風景はあまりにも曖昧だ。
――くもの仕業……。
そう、心が断じた時。
わたしの最後の光景はそのまま闇の淵へと沈んでいった。
/
この世界にも息吹があるんだよ、めぐみ
安らぐような優しいコエ。
その声を聞いているだけでわたしの心に平穏が訪れた。
頬にかかる髪を彼女が払う、ほのかに香る甘い香りがわたしの胸をくすぐった。
薄桃色の唇から、彼女の物語を聞いてわたしは母に抱かれた。
その川のせせらぎのような言葉ひとつひとつにわたしの魂は魅了された。
夕焼け――
本を開いて、彼女のこえに耳をかたむける日々。
彼女の語る物語はわたしを異世界へと誘った。
彼女の記す物語はわたしを未知へと導いた。
幾度も、
幾重も、
数百の夜を越えた、ふたりだけで過ごしたあの優しい世界。
なにもいらなかった、
あそこにわたしの総てがあったから。
傷つけるだけの世界、傷を嘗めあうだけの世界。 欺瞞や猜疑でこの世界はゆるやかに窒息していたのに、
彼女といればそれも忘れられた。
生きるという自傷活動ですら彼女との時間で忘却の淵へ廃棄された。
わたしにとって彼女は神聖で清廉で、ほんとうに救世主のような存在だったのだ。
忘れえぬ幻想の日々、
彼女と供に過ごし、
彼女と供に語り、
彼女と供に生きた。
キラキラとまばゆい世界。
――それはユメのような、毎日―――
――――――――――。
――――――――。
―――――――。
―――――。
―――。
「かすみ、ちゃん……」
唇が沸き上がる記憶をたどり、自分があの日々の中で一番口に上らせていた名前を再現する。
それは無意識に、無自覚に――刻みつけられた魂が発露した言葉だった。
はらり、とわたしの頬を涙が伝う。
それは漆黒の地に墜ちて、はかなく霧散した。
「ん、ぅ…………」
前後不覚。這い上がってきた意識、それに呼応するように冬の空気を残す寒気が冷え切った身体を苛んだ。
身体の芯を抜けるような寒さに、ぶるっと身体が瘧を煩ったように震える。
まず頭に過ぎる意識は凍え。
春も盛りに差し掛かろうとする中、いまだに寒さを残した大気はわたしの身体を氷のように凍て付かせている。
すっかりと冷え切った身体は所々感覚が鈍い。
指を動かすだけでも、血の巡りの悪い五指は出来の悪いロボットみたいに痺れて満足に動作しない。
ここに来て、ようやく意識の水位が状況把握の域まで浮上する。
しかし自分が今までなにをしていたのか思い出せない。
身体の状態から察するに、少なくともベッドの中ではないことは確かだ。
もしかしたら勉強をしてたまま、うつらうつらと眠ってしまったのかな。
いや、違う――
自分の脳裏にはない記憶故にその判断を打ち消す。 そもそも――わたしはなにをしていたのだろう?
たしか……なにかを確かめようとして……。
そう、図書館で時間を潰して――礼拝堂の影を――。
「目覚めたかね」
「――えっ……ヒィッ!」
うっすらと浮かび上がり始めた意識に冷水をぶっかけられるように低い声。
目を開くとそこには痩躯の男の顔が眼前にあった。
「シャ、シャザール……せんせ……い」
「鹿島くん、君の心は穏やかだろうか」
ぐぅるぅ、と喉を鳴らすような低温の声音。暗闇の中でその響きだけが静謐の空間を満たしていく。
「な、なんの話、ですか! ――えっ……?」
身体をよじって逃げようとするが身体が動かない。
その時点で、ようやく自分の置かれている状況に気が付いた。
――張り付けにされている!?
張り付け。まるでかの救世主のように十字架に身体を括りつけられている。
手足を見るがロープやそういった類のものではない。だがどんなに力を加えようと、けして千切れも解けもしない。
しっかりとわたしの身体を括りつけて尚、けして解けぬ強度を持つ糸。
「せ、せんせっ……これど、どういうことなんですか!」
足掻く、足を手を必死に動かし、腕を揺らし藻掻く――が、一寸も緩む気配がない。
むしろよりきつく食い込んでしまい、手足を締め付けて痛みを発する。
「安心したまえ。私は君に危害は加えるつもりはない」
必死に藻掻いて糸を千切ろうと奮闘するわたしを嘲笑うかのようにシャザール先生は微笑みをこぼす。
そして「いや、むしろ――」と言うと、
「鹿島くん……私は君を救いにきたのだよ」
この状況にあまりにも適さない言葉、それをわたしに刻みつけるように発する。
「す、救うって、なんの話ですか……」
その言葉に反論するように、つい先生のほうを凝視してしまった。
そう、そもそも背丈の高いシャザール先生といえども、
張り付けにされているわたしと同じ立ち位置にいるのはおかしい。
暗雲に隠された月が解け、その輪郭を浮かび上がらせる。
その姿は、異形。――人成らざる造形を持った異型の生物。
身体、下半身は巨大な蜘蛛。斑の色をして月明かりの反射から硬質な肌を光らせている。
ゾクゥ、と全身が泡立ち、思考が恐怖に裏返る。
カシャカシャと甲殻の渇いた音が響いて、この世界に在らざるものがわたしの目前在ることを見せ示している。
「――ヒィィ……あ、あ……あっ……」
叫び声をあげようとしたが声すら漏れぬほど恐怖が全身を麻痺させる。そう本当の恐怖に遭遇した人間ならば叫び声すらあげることもできない。
人である限り、闇の狂気には抗うことは出来ないのだ。
脳から足先、声門ですら形と化した恐怖で動作することを拒否してしまう。
けして真闇には抗えない。
「あ、が……は、あ、はっ……」
心臓すら恐怖で停止しかけると、呼吸すらも危うい。
言葉も浮かんでこず、目の前の恐怖の対象から逃れられない。
「――落ち着くのだ。鹿島くん。この姿は不自然なものではない」
「あ、は……ふ、ど、こが……です、か……」
言葉をなんとか浮かび上がらせて、弱々しく反論を捻り出す。その言葉に先生は歪むように笑みを浮かべる。
「むしろこのほうが自然なのだよ。人類はサガを断ち切りすぎた。いいかね、鹿島くん。人は獣だ」
「け、……も……の?」
「そう、間違ってはいけない。いくら火を手にいれ、叡智を獲得し、情念を培い、己のサガを薙ぎ払おうとも――」
――人は元来、獣なのだ。と男はわたしに甘く囁いた。
「それが本質。愛や文明、文化などで己のサガを覆い隠そうともその本質は隠しきれぬ――一度、皮剥いでやれば人はその本性に立ち戻るのだよ」
「人の本性…………」
ぞわっと、全身の恐怖が弛緩していく。
恐怖ではなく、まるで逆返るような法悦が足先から這いあがり背筋を甘く甘く濡らしていく。
「そう。人とは獣。故に私の姿は人があるべき姿と言ってもいいのだ」
三日月のような笑み、ギリッと鋭い歯列が軋む音が耳に届く。
わたしはただ先生の漆黒の瞳に魅了されている。
「この下らぬ世界においての真実、唯一の真理――それを手にすれば君も心穏やかになれるのだ」
「……穏や、か?」
「そう、安寧だ。鹿島くん、君にとってこの世界は――どう写っているのかな」
「そ、れは――」
強者が弱者の肝を喰らう地獄のような世界。
与えられる優しさすら欺瞞と猜疑に満ち満ちている塵芥のような現世。
憎悪で世界は満たされ、余命幾ばくもない溺死しそうな魔界。
「――じご、く……」
「然様――この世界は地獄に等しい。謀略と暴力の蔓延、規律の崩壊、ともすれば近しい隣人とて明日は敵かもしれぬ邪悪な世界」
カシャ、と甲殻の足が床を這う。その異音すらわたしの耳には遠い残響でしかない。
「私たちに与えられた衣こそが我らを苦痛たらしめる刃――故に」
囁きは続く。わたしの心をはぎ取る、剥奪する。人の意識を削り奪う
「――脱ぎ捨てねばならぬ。我らは原初に立ち返り、起源となる姿へと先祖帰りする。衣を捨て去り一匹の獣へとなるのだ」
目蓋が重い―――わたしの唇が震える。なにかを吐き出そうと。
――それはとても甘美で、
「さあ、鹿島恵――己足る鎧を捨て、己が原初の姿を取り戻すのだ」
波紋す声は遠く、そして遙かに高く――
わたしの意識はもう此所には無い、
あるのは本能と闘争心、
いっぴきのケモノ、
わたしという個体は今宵、崩壊し、一個の新生 《さいせい》を果たす。
トワへクオンへ、エイゴウへ――
わたしの1つは全に加わる。
「わたしを……神父――わたしを………………」
「そう、謳いたまえ。死狂う賛美歌を―――」
神父の両手が振り上げられる。それはこの淫らな劇場の大団円。
わたしという魔物の生誕を祝う終止符。
「わた、しは………………、」
わたしが堕落の言葉を喉元から溢そうとした時、
なにかが空を切る音が、音も無い礼拝堂に響いた。
それは認識するよりも早く、シャザール先生に迫り、その身ゴトの顔面に追突した。
スパンッ、と乾いた音がその衝撃の強さを物語ってた。
「――ッ。」
間隙を縫うような痛みにほんの一瞬だがシャザール先生の顔が醜く歪む。
払う間も無く、激突により慣性を失ったそれはゆっくりと地面に落ちた。
落ちたそれは静寂の空間に渇いた音を残して二度、三度跳ねて、運動を終える。
わたしはそれを見たことがある……あれは昨日の夜……他でもないシャザール先生より手渡された聖書。
そう、エリシオン女学院の名を刻んだ聖書だ。もちろんこんなものがこんな化け物に傷を与えるわけもなく、ほんの僅か躊躇いを生んだだけだった。
「ク――何者か」
月明かりだけの空間は暗闇に支配されている。投げた方向から察するように先生が懺悔室のほうを振り返ってそう言った。
―――月が傾く。
「流石はシャザール先生ですね。確かに答えは此処にありました」
コツ……コツ……。
時が止まったような礼拝堂を満たすような足音。
リン、と聖鐘が響くような声音に魅入られる。
颯爽と、この静謐の支配者が暗闇から姿を現す。
そう、わたしはその涼やかな声を知っている。
「悠生――杏里―――」
わたしがその名前を呼ぶより早く、先生がその名前を呻くような呟いた。
「ごきげんよう、シャザール先生。随分と様子が変わられていますがお加減は如何でしょうか?」
ステンドグラスに照らされたその姿は可憐にして、妖艶。
恭しくスカートの裾を摘むと淑女らしい態度で先生に頭を垂れた。
「……悠生杏里。何故、キミがここにいるのかね。いや――そもそも、貴様は《・》誰だ《・》」
探るように、シャザール先生――いや獣が睨め付ける。
杏里さんは歩みを止めることもなく、優雅にわたしと獣の前まで近づいてくる。
「あら、真理を知られるシャザール先生が異なることを仰いますね。私は飽くまで私です。その当人を前にして――誰とは」
一歩、歩み寄る。
目を閉じて、金絹のような長い髪を手のひらですくい上げて跳ねた。
キラキラと光の粒子が舞い、その美しさを誇張する。
「――間抜けか、テメェは」
は――?
腕組みをして、わたしたちの存在など完全に無視したように横切ると祭壇の机にトンっと座る。
背後にいるわたしなんてお構い無しのように座り込んで、わたし達の間に割り込んだ。
月の光が差し込む。少女の表情をくっきりとその正体を暴きだした。
――笑ってる。
ただ笑ってるんじゃない。いつもわたしが見ていた天使のような可憐な微笑みではない。もっと傲慢不遜、相手を見下すような視線。まるで人を人と思わぬような蔑みの瞳。
その双眸がシャザール先生である獣を射貫くように見つめている。
「ハッ……先生さんよ。いくらなんでもバレバレだろ。結界を張っているとはいえ、好き放題やらかしすぎだ。――思春期のクソガキだってもうちっとマシな場所に隠すぜ」
組んだ足の膝に肘を置き、頬杖をつくと呆れた言わんばかりの大きな溜息を吐く。
ひらりと手を片手をあげて小馬鹿にしたように振るった。
「まっ、組まれた術式は高度なもんだが、それを扱うヤツが低脳だとなんの意味もないっていう典型」
ザワ、と空気が凍てつく。
それは怒り――杏里さん?の挑発にこのバケモノの感情が火と燃えた。
「アンタは自由やらかし過ぎた。足が付いたんだよ。派手にやらかすってのは悪い趣向じゃねェが――アンタは行き過ぎたんだよ」
口端を大胆に歪める。
挑発的で、そしてなにより邪悪な笑い方。
「聖徒会の奴らだって気付いてたんだ。もうアンタもお終い」
小馬鹿にするように肩を竦める。
「――破滅だ」
「ククク……可笑しなジョークだ。小娘、たしかにこの術式を看破したことは褒めてやる。が、あまり図に乗るものではない。自分の置かれてる状況をよく把握しろ。貴様の脳漿を蹴散らされたくなくばな」
その言葉に「はっ」――とまた芝居じみた嘆息。
「――囀るなよ、ド低脳」
礼拝堂に響きわたる低い声。まるで死刑宣告を告げる審判者のように冷徹な言葉でバケモノをなじった。
「こんな狭苦しい場所で自分の好きやって、万能感に洗脳されてる輩が言うことか。勘違いするなよ、小悪党。オレが追い詰められてるんじゃねェ。――追い詰められてるのはテメェだ」
わたしが知る杏里さんの口からは溢れ無いような悪意。圧倒的な罵詈雑言の挑発で獣を威嚇する。
「よく云ったものだ。矮小な人間が我らを愚弄するか、片腹痛いぞ悠生杏里。貴様は生かしたまま血袋にしてやる手筈だったが――気が変わった」
――ここで死ね、と獣が剥き出しの殺意を露わにする。
「殺りたきゃさっさと殺れよ」
まるでこの切迫した状況を楽しんでいるように、構えることもなく彼女は悪魔のように微笑んだ。
その時だ、そんな有り得ない瞬間、わたしが知っている彼女の微笑みと今の杏里がぶれること無く重なった。
なぜだかわからない。まったく異なる笑みだというのにわたしの脳裏でそれが正しく一致した。
まるで理解出来ない事。事実、わたし自身もこの事態に着いていけないのだ。
「但しだ。予言してやる。――オマエはオレに指一本触れることなく、地面に額を擦りつけることになる」
ニヤリ、と挑発する笑み。
――けして天使なんかではない、偽りなき悪魔の様相。
スゥ……とバケモノの表情から感情が消える。
怒りを越えた感情の発露、――圧倒的な殺意の念。
刃物のような冷たい殺意が杏里さんの小さな体躯に叩き付けられている。
「ヒト如きがよく吠える――ならば手足を引き千切り、犯し殺してやる。玩具のように内蔵を晒して死ぬがいい」
膨れ上がる殺意を合図にするように、バケモノがその巨大な足を鎌のように地面に振り下ろす。
跳躍――!
ビロードの絨毯を蹴散らして、巨躯が有り得ない速度にて肉薄する。
それは瞬きのような瞬間のこと。
地面が弾ける音を聞いたその刹那には、獣は杏里さんの足下まで迫っていた。
丁寧に並び付けられた長椅子を、薙ぎ倒し進む姿は鉄の砲弾それだ。
暗黒の塊が風抵抗を突き破って杏里さんに迫る。
だというのに彼女は、立ち上がるどころかなんの防衛動作すらしていない。
あれだけの巨躯にあれだけスピードだ、見てからの回避ではとても間に合うわけが無い。
あれを躱すのならば、解き放たれるよりも早く反応せねばならなかった。
もう遅い。
黒い暴風が三分の一にも満たない体躯の少女を跳ね飛ばすだろう。
刹那に決した勝負。
そもそもあれは人が抗うべき存在ではなかったのだ。
わたしは――声すら無く、ただその瞬間を呆然と見つめるしかない。
縛り付けられたわたしは木偶も同じだ。
まるでコマ送りの世界のように杏里さんを飲み込もうとする竜巻じみた巨体。
塵一つ残さず彼女の身体はこの世から消え去るだろう刹那、
「あ――」わずかに出た嗚咽は凶暴な殺意の中で霧散する。
――間に合わない、
絶望的な死が香り立つ、
その友人の今際の時、目を背けようとするわたしの頭上になにかが煌めいた。
茫洋としたほのかな光。
――流星……?
そんな思考が這いあがってくるとの同時に、まるで圧力をかけられたように天窓がひしゃげ弾けた。
舞い散るガラス片、きらきらと輝いて月のかけら。
その中にひとつの黒い影がある。
月のかけらを携え、漆黒の影が数度旋回を重ねる。
その間、一秒にも満たない。
わたしが瞼を閉じて開けるようなわずかな時間、
ガラス片を縫うように飛び交う散弾。
一発じゃない、それは束。銃弾の嵐。
まるで雨が降り注ぐが如く、降り注ぐ銃弾はわたしを拘束する強固な糸を抉り、引きちぎる。
自由を手に入れたわたしはそのまま落下して地面へ激突してしまう。
「あぎゃ――」っと女子力ゼロの悲鳴を上げながら地面を転がると、身体を捻り即座に立ち上がって、
「――杏里さん!!」
拘束が解けたことで精神的な束縛も緩まったのか、死の今際に直面していた友人の名を叫び振りかえった。
見つけた。
その背中、小さな体躯と流れるように長い金髪。
その細い身体はいまだ健在。
あの凶暴じみた突撃に曝されることもなく、そこに在った。
否――折れそうな腰を抱くようにあの飛来してきた影が抱き抱えている。
杏里さんを蹴散らそうとしたその巨躯は―――、
「え?」
わたしは驚きの声をあげる、なぜならあの暴風のような一撃を現れた影が受け止めていたのだ。
「――き、さま……」
ゆっくりと、
「――この地上に貴様達、“不浄なる混沌”の住まう地はない、疾く消えろ」
現れた一点の黒が獣に向かって答える。
冷徹な声――氷河を感じさせるような声でそう告げると受け止めていた手で巨躯を払いのけ――、
一蹴。
ただそれだけ。
裂帛も術式もそこに存在しない。
あの両者の身体は明らかに獣のほうが大きいというのに、たった一発の蹴りでその巨躯を吹っ飛ばしたのだ。
強力な慣性を叩きつけられたバケモノはその勢いのままで長椅子を薙ぎ倒して壁に激突する。
破散する長椅子と土壁。朦朦と木片が舞い上がりパラパラと、天井の埃が散ってその衝撃の深さを見せつけた。
「オイ、低脳。どうした? オレを殺すんじゃなかったのかよ。寝っ転がってどうしたよ、エェ? それじゃオレを殺すとか夢のまた夢だぜ」
ひしゃげた天窓から差し込む柔らかい光に包まれるように影に抱かれた杏里さんは妖艶だ。わたしの知る美しさの類ではない。なにか危険なものを孕んだ魔的美貌。
「――ぐ、ぅ……殺す……」
地の底から響くような怨差の声。それそのものが呪詛である。
やがて月明かりの角度が杏里さんを抱いた影、その姿を暴きだす。
それは黒衣を纏う長身の青年。頬から鼻筋にかけて肌を削り取るようにしてついた傷跡。赤銅色に染まった短い髪が風に揺れる。
この姿の面影をわたしはよく知っている。
優しい面影の好青年――マキナ神父。
「マキナ――ベルフラムッッ」
バケモノの裂帛がビリビリと礼拝堂を揺らした。
だがそれに晒されたマキナ神父は微動だにしない。
まるで精巧に凝らされた人形のように、彼女を守るべく抱いたまま事態だけを見つめている。
「イイだろ? ――オレの物だぜ」
その憂いを帯びる横顔を杏里さんの両手が包み込むように撫で労る。
その指先は淫美にして繊細、頬を撫でる手は首に回され抱き締めるように。
神父もそれに応えるように腰に回した腕で杏里さんをきつく抱き締めた。
――神の膝元で抱き合う姿は神々しい。
一瞬だけわたしは我を忘れてその光景に酔いしれる。
地の底から響く声と、それを知らぬ天の星。
この世界の有りようがそこにあった。
「RUAAAAAAAAAAAAAAAA――――ッッ!!」
静寂を引き裂くようにその巨体が地を這うように跳ね飛ぶ。
その加速は先程の比ではない。巨躯が飛び出す衝撃は長椅子の残骸をはね飛ばし、凶暴さを見せ示す。
「――王の御前だ、獣。黙して額付け」
腰から拳銃のようなものを流れるような動作で引き抜くと即座に放たれる銃弾。
それは高速で飛来する獣を正確無比に撃ち貫いた。
飛び出した慣性を挫かれた巨躯はそのまま前のめりに倒れ込み地面に額を擦りつけてしまう。
それは神父が唱えた如く、額を押し付けて赦しを乞うような姿勢になっていた。
あの鋼鉄めいた皮膚……いや、あの肌は装甲のような硬度を持っているのは間違いない。
だというのに――神父の持ったあの拳銃はその装甲を紙屑と同じと云わんばかりに貫いた。
神父はその長身の赤い拳銃を手にしたまま、冷めた視線でバケモノを凝視している。
禍々しい赤――バケモノという暴力に拮抗するために作られた桁外れの暴力装置。
そう銃とは本来、己の力では太刀打ちできぬものを打倒するために作られた破格の殺戮概念である。
あの銃はその概念に長じている、そういう風に設計されているのだ。
「ガァアアア……」
「オイオイ、どうしたんだよ。さっきまでの威勢はどこに行ったんだ、シャザール先生よォ」
悶え苦しむバケモノ、それを見て嬲るような言葉と嘲笑。
あの並外れたような容姿から溢れ湧き出すのは圧倒的悪意。
それはこのバケモノと相違ない。いや、それを上回るほどの悪意の質。
「さてま、っと……種明かしといきましょうかねェ」
スッ、と神父の懐から離れると苦痛で動けないバケモノに近づく。
「種、明かし……だと……?」
「おう。ここに行方不明になっている生徒がいるってことだよ」
――え?
「あ、杏里さん……それどういう」
「あ? だから行方不明の生徒はここに居んだよ。高度な結界に誤魔化されちまってたけど、どう考えてもここしか無ェもんな、そうだろ、先生」
前のめりに倒れているその顔の前まで近づくと、見下すように笑う。
「まずだ、人払いの結界については内側に入っちまえばなんてことねェ――意識を殺して侵入すればお終いだ」
いや、それ口でいうほど楽じゃないと思うけど……そう考えてるとギロッとこっちを睨んできて思わずびくっと跳ね上がる。
「――方向感覚の欠落したアホには効果ねェよな。地理もクソも無ェし、現在位置が不明で常に不安定な人間に心理的圧力があるわけも無ェ――つか」
そこまで淡々と話したのち、なにかを思い出したようにマキナ神父に振り返る。
「――そういやマキナッ、テメー見張ってろって言ってたのになんでコイツを通してんだ」
「俺が命じられたのは<危険因子の排除>だ。鹿島恵はそれに該当しない」
怒鳴りつけるような言葉を気にした様子もなく、マキナ神父は答える。
「ったく……仕事しろよな。ま、いいや。話を戻すが――あとはこっちの結界については正直オレもわからなかった。見過ごしちまうレベルの高技術結界だと言っていいな――けどな」
再びわたしの顔を見るとニタァととても嫌らしい笑みを浮かべ、
「この異分子のおかげで自分の見過ごしている違和感に気がついたんだよ。ようするに共通認識だ――ふたり同時に見過ごしている事実こそが結界の暗示ってことだろ」
と言い切った。
「やめろ……」
喘ぐように言葉を吐き出すバケモノ。
それを見た、杏里さんの表情が輝く。
哄笑。礼拝堂を引き裂くような笑い声。
「いいねェ。オレはそいつが見たかったんだよ、シャザールせんせッ。その絶望の表情だ。最ッ高だよ」
吐き気を催すような悪意。
天使のような少女から殴りつけるような悪意の束が浴びせられる。
一頻り笑った後、ひとつ大きなため息を付く。小さく囁くような声。
「 だ」
「え?」
「やめろ!!!」
わたしの疑問をかき消すようなバケモノの制止。
ククッ、と低く笑みをコボすと杏里さんは息を吸い込む。
吐き出される、その言葉――。
「それは、赦されぬ! それはあの方の夢――壊す権利など貴様には――」
心臓を掴み出してしまうような、夥しい血をまき散らし立ち上がるバケモノ。
壮絶。
立ち上がる力など有りようもないはずだというのに蜘蛛のバケモノは立ち上がり――。
「王の前だと言った。額衝け、下郎」
唯一、その力を支えていた二本の足を引きちぎるように打ち抜かれ無様に地に這い蹲った。
わずか一寸、早撃ちというにも程がある。
杏里さんの余裕はその絶対の信頼の元なのだろう。
「誰の夢だか知らねェよ――こっちにしてみりゃ悪夢なんだぜ。こんなモン、必要ねェ。だから壊すんだ」
大きく息を飲む。
「意識を殺すな、ゆっくりと見上げろ。真実はソコにある」
杏里さんがゆっくりと表を上げ天井を仰いだ。
ピシッ
まるでガラスにヒビが入るように濁った音。
そして耐久性を失い、割れるような激しい音と共に今までなぜか見上げることをしなかった頭上が視界に飛び込んできた。
目に焼き付く光景、
そうだ、あのとき見た蜘蛛の糸は――糸ではなく、
ロザリオ……生徒の持っていたロザリオ……。
「ヒィッ―――!?」
天井に張り付けられた娘、娘、娘娘娘娘―――どれもどこかしらに欠損部がある。
人形なんかじゃない、生身の人間――その部位が蜘蛛の糸で巻き上げられ天井中にみっしりと張り付けられていた。
「――いい趣味なこって。まだ……生存者もいるようだ」
ケッ、と胸が悪そうに言い捨てると、杏里さんはバケモノに向き直る。
「有象無象がどうなろうがオレの知るところじゃねェ、だがオレの庭を荒らしたツケはきっちり支払ってもらうぜ」
そういいをバケモノにらみつけると、血を流す前足を踏みつけた。
「グアアアアアアアアッッ!!?」
響く悲痛の絶叫。
激痛に喘ぐその表情はわたしたちとなんら変わりない。
「おうおう、色っぽい声出せるじゃねェか。ソソっちまうぜ」
苦しみ悶える姿を見てなにがおかしいのか、叫声に呼応するような哄笑をまき散らす。
まるであべこべ。
これではどちらがバケモノか分かったものじゃない。
胸焼けになり、この場で嘔吐してしまいそうな感覚。
それほどなまでに悠生杏里の行為は異質だ。
「も―――」
耐えきれない、
正気を保てない。
狂ってる、
歯車が軋む。
「もう―ーやめて!!」
「…………。」
わたしの制止の声に悠生杏里の哄笑が止まり、こちらを見据える。
「こんな行為、狂ってる……こんな行動間違ってる……!」
「…………あ?」
浮かされた熱が急激に冷めていくのか、先ほどまでの悪鬼のような表情はない。
かわりにわたしを見つめて心底から呆れたような表情になる。
「なにが狂ってるんだ、恵。オレはコイツのした行為の半分も満たねェ行為しかやってないんだぜ。オレが狂ってるならコイツはなんなんだ」
「――それは――」
「上辺だけで思考を満たすな。質で考えろ。死に購うのは死しかねェ」
「だけど! ――こんな惨たらしい方法なんて!」
「惨いも、酷いもねェ。――死は死だろ。この世界に不条理な死なんて存在しねェんだよ」
ヒラッとわたしを小馬鹿にするように手で扇ぐ。
「死はなにも生み出さねェし、死人に罪過は問えねェ。死はいつでも無価値なんだぜ。つまり罪過とはソイツの有限を摺り潰す行いのことだ。だからコイツから擦り切れるまで罰を搾り取るーー当然の権利だっろ、と!」
話をする間に足を上げ、それを振り下ろす。
踏みつけられた前足がミリ、と軋んでバケモノが喘ぐ。
「ちょっと! だからってあなたに誰かを罰する権利なんてないでしょ」
「じゃあ誰ならあるってんだ。誰だったらコイツをブチ殺していいんだ?」
「そっ、それは……」
答えられる筈がない。誰が殺していいかなんて答えは持ちあわせていようもない。
「……だったらイイだろ、誰も出来ねェってんならオレがやってやる」
――はあ?
突拍子の無い発言に思わずわたしの思考が寸断される。
なにを言い出しているんだ、この人は……。
あまりに思考が吹っ飛びすぎてて、それに追随するだけでも頭がおかしくなりそうだ。
どうしてこんな人、と頭の中がぐるぐると巡って優しくしてくれた杏里さんの表情が浮かび上がる。
訳がわからない、目の前の悪魔と記憶の中の天使がどろどろと瞼の裏に重なりあって像を結ぶ。
「それに――オレを杏里さんって呼ぶなよ。百歩譲っても……オレは杏里くんだ」
なにかが――その時音をたてて壊れた。
「うそ……」
「嘘なんていうかよ。オレはれっきとした男だ」
「じゃっじゃあ、その声」
「声変わりがきてねェんだよ」
「その容姿!」
「美人だろ?」
「その格好!!」
「趣味だ」
「………………。」
言葉にならない。言葉にしようがない。
とにかくこらえようのない感情が沸き上がり、わたしの胸元をグジグジとかき回す。
「――ここはオレの庭だ。好き勝手に荒らされたら困んだよ。だからコイツには相応の苦痛を与えてやらねェと収まらないってことだ」
「――――。」
わたしの横をすり抜けようとする杏里くん。通りすがり際に、
「オマエ、オレに見惚れていただろ? なんなら抱いてやってもいいんだぜ」
その言葉に――視界がカァ、赤く染まった。
甲高く響く音、
乾いた破裂音ような振動。
気がつけばわたしの手は杏里くんの頬を平手で叩いていた。
「あなた……最ッ低……」
涙が流れそうになっているのを堪え、網膜に涙を湛えたまま呻くように言った。
叩かれた当人は、平静のままゆっくりと頬を撫でる。
「ハッ……上等だ」
ニヤリと心底まで邪悪そうな笑みを浮かべてわたしを見つめた。
「は、はっ――GRRRRRRRRRRRRッッ!!」
突如、沈黙を守っていたバケモノが起きあがり、わたしに向けてその巨大な前足を振るってくる。
「――え!?」
当然わたしは反応が出来るわけもない。一般人が急な危機に瀕した時の行動は停止である。
当然のことながらわたしはその凶悪な爪が眼下に振り下ろされようとしているのに身動きひとつ出来ない。
「ちぃッ……!」
杏里くんの舌打ち。わたしを押し倒すように腰あたりにタックルをするとそのままわたしを突き飛ばして、地面を転がる。
間一髪のところでその刺槍の前足はわたしに突き刺さることもなく地面を大きく穿ち、石床に穴をあけた。
「ちゃっかり自己修復してやがったのか! ――マキナ!」
わたしを押し倒したままの姿勢で振り返り、マキナ神父の名前を叫ぶ。
だがその命令よりも早く神父はバケモノに肉薄し、先ほどの如く右足を唸らせる。
今度は機敏に6本の足を器用に動かして、神父の攻撃をかわすと二本の前足で神父を貫くように動かす。
「―――ッ」
蹴りをかわされた直後の体勢では、回避は困難。だが神父は神業めいた動きで、前足の一本目を頭を 左右に動かすスウェーだけで回避しきる。
だがもう一本の攻撃を回避する手段がない。胸を穿つ角度にえぐり込むように迫る爪。
直撃――だれもがそれを予想しただろう。
だが、その前足を銃身でかろうじて受け止める。
あれだけの質量がのしかかる攻撃だ、神父の身体が沈んで地面に亀裂がはしる。
「――なぶって楽しんでいる場合ではなかったな、人間。形勢逆転というヤツだ」
さらにねじ込むように神父に体重をかけるバケモノ。押し込まれて神父の額に爪が押しつけられる。
数秒先の未来は死。額をかち割られ脳漿をまき散らし絶命する姿。
爪先がマキナ神父の額に食い込んだ時、
「阿呆め――膂力の有無が戦力を決めると思ったか」
そうつぶやくと、神父の魔力が瞬間的に膨れ上がった。
刹那、神父の額を貫こうとしていた前足が大きく宙を舞いわたしの近くに滑るように転がって止まった。
グァアアアア!!!?
その絶叫に向き直ると前足を失い、悶えるバケモノといまだ健在の神父。神父のその手には――
――光の剣……?
銃身から光状の剣が突き出している。見た目としては銃剣、突撃兵などが扱うそれである。
その銃剣を、光が形を成し剣の代換をしている。
「光霊剣だ」
杏里くんがつぶやいた。
魔法を唱える――というように、魔法を行使するには必ず予備動作を必要とする。
呪文を唱える、一定の動作をする。魔法という秘業を行使するということはそれ相応の代価を支払わなければならないのだ。
「ありゃ、厳密には魔法じゃない。魔力を集約させて束にして形成してる刃だからな。原理は光と同じだ」
光も収斂させ、指向性を持たせることで殺傷能力を獲得するように、魔力を集約させて刃と成した。
それがあの剣。
「あっ」と口にして思い出す。
わたしはこの人(杏里)にムカついているんだった。
慌ててしかめっ面をするわたしを横目に笑う杏里くん。
神父のほうに向き直ると既に攻防が入れ替わっていた。
腕を切り落とし、苦痛に喘ぐバケモノの懐に一気に肉薄すると光剣を振るって前足だけでなく四方の足を同時に切り落としていく。
神業的。あまりの早さにわたしの目には捉えきれない。
それゆえに現実性が薄く、まるで弟が遊んでいたモンスターをやっつけるゲームを見てるような錯覚すら覚える。
それほどの手練れ、どこを破壊すれば敵を倒せるか理解しきった妙技。
バケモノの一瞬、やられたことに気づかず呆然と立ち尽くし、体バランスが崩れることでようやく自分が切られた事実に気がついた。
再び、沈む巨体。地面に突っ伏して額を擦りつける。
「これでは再生も叶わんだろう。投了だ」
額にゴリッ、と赤い銃口を突きつけて言い放つ。
苦痛と苦渋にゆがむ、シャザール先生だったものの顔。
今にも飛びついてその、端正な顔をかみ砕こうとしているようだ。
「ご苦労だぜ、マキナ。そのまま生かしておくとまた面倒やらかしそうだな。王の判決を下してやる――ここで朽ちろバケモノ」
ニヤッ、とまた嫌らしい笑み。首をかっきるような仕草の後に親指をあげてそれを裏返す。
明確な殺人許可――
「ちょっ……まっ!」
わたしが制止の声をあげようとした瞬間、
ふわりと、丸い珠のようなモノが潜り込んでくる。
なんだろ、と考えたその時、
――風が爆ぜる。
いや、風が爆ぜたわけではない。
強烈な爆発だ。
圧縮された空気が炸裂して、まるで竜巻のようにあらゆるものを薙ぎ払う。
その強烈な風を真っ正面から受け止めてしまった わたしは撥ね飛ばされて教会の壁に叩きつけられ――
「……あれ?」
――てない?
気がつくと力強い腕の中にいる。
その顔を見上げると凛々しい好青年。冷たい光を宿した瞳がわたしを見下ろしている。
わたしはマキナ神父の腕の中でお姫様だっこされていたのだ。
「あわわ、あわわわわっ……!」
「怪我は」
「なっないですっ……」
「ならいい」
どうやら暴風は一瞬だけだったらしい。
ただその炸裂弾のような暴風で見回せば礼拝堂は半壊になっている。
天窓は割れて、見事なステンドグラスもただの空気穴に、主の像はへし折れて、もちろん長椅子もビロードの絨毯も云うまでもない。
「っ痛……どういうことだ、こりゃ。おい、マキナ! 新手がいるなんて訊いてねェぞ」
ガラッ、と原型を留めていない木の長椅子の残骸を押し退けて現れる杏里くん。綺麗な金髪が暴風で乱れていた。
「さあな、俺も知らなかったことだ。そもそも複数犯だったということも今知った事実だ」
わたしをお姫様のように抱えたまま、激昂する杏里くんとは対照的に淡々と答えるマキナ神父。
「そもそも調べるのはお前の仕事だろう。俺の仕事はハジくだけだ」
初めて異性に抱かれることでどきどきと乙女全開状態のわたしの心境など知るまでもなく、神父はわたしの身体をゆっくりと下ろし、夢の時間は終わってしまう。
「分かってるっての、クソ。で――逃げられたのか?」
「あの死に体にどれほどの力があったのか知らんが、どうやら逃げられたようだ」
「チッ」と舌打ちをして足下の木椅子の残骸を蹴りあげる杏里くん。
「いつまでもこうしてても仕方がねェな。おい恵っ、帰るぞ」
「待ってよっ、上のみんなはどうするのよっ」
「あ? それはオレたちの仕事じゃねェよ。あとは聖徒会がやってくれる。――早く逃げないと見つかっちまうぞ」
杏里くんがそういうや否や、わたしの手を掴む――
今までの杏里さんと今の杏里さんの乖離に戸惑いを隠せず
わたしは先ほどの嫌悪感が沸き上がると「イヤっ」と言ってその手を振り払う。
「…………。」
「…………ごっ……ごめ」
嫌悪感に勝る自己嫌悪が胸中を這いあがる。慌てて謝ろうとするわたしの声にかぶせるように、
「チッ……じゃあひとりで帰れよ。せっかく迎えにきてやったのによォ」
そう言って悪態をつくと杏里くん、背中を向けると乱れた髪を二度、三度と撫でた。
どことなく寂しそうな様子で、二度、三度と足場を蹴飛ばすとそのままクルリと踵を返す。
「じゃあな、部屋替えなら―――なにも言わねェから」
わたしの行動を拒絶と取ったのか、背中を向けたまま杏里くんがそう言って歩きだす。
それに沿うように神父もその後ろ姿を守るように歩きだし、不意に立ち止まるとわたしを見つめた。
「――どんな判断をしようと彼奴は気にしない。そういう奴だ、だからお前も気にしないことだ」
そういうと主に仕える騎士のようにその背中についていく。
ひとり取り残され、全快したステンドグラスの窓穴から春先の冷たい風が吹きすさぶ。
熱が冷めたように、不意に冷静になって。
「――帰らなきゃ、いけないよね……」
悪夢のような時間は終わった。
わたしが失踪してしまうかもしれなかった、事件。
一度、天井を見上げて――。
いまだに張り付けにされている生徒たちを見る。
両手を合わせて、心の中で謝ると後ろ髪引かれる思いでその場を後にしたのだった。
事件は終わった。
その時、わたしは勝手にそう思っていた。
けれど――事態は今も流動を続けていてとんでもないことに発展するなんてこの時は思ってもみなかった。
要するに、
つくづくわたしは愚か者だったという事実だった。
これにて物語における序章を終えました。
今回部分は元々、私が荒れていた時に書いてた部分もあって荒摺りです。
納得いってない部分ですので細かく修正をするかもしれません。
もしよろしければお付き合い頂けたら嬉しいです。
尚、誤字脱字など報告いただけると幸いです。
作品内における設定、宗教、主張は現実に沿うものではないことを留意していただけると助かります。