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魔王と輪舞曲を  作者: ひらみ
魔王たちと輪舞曲を
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礼拝堂の悪魔




 いたたまれない気持ちを抱えたままわたしは早足でつきみ荘を飛び出した。

 どこへ行くでもない、当たり前のことだけど行き先なんて決まっていない。

 ただ一人になりたくて杏里さんの前から逃げ出した弱虫だ。

 勢いだけで飛び出した動力なんてたかが知れている。

 方向性を持たぬまま進んだ足は、やがて衝動という燃料を失って歩みを止めてしまう。

 駆け足がただの歩行へとゆるやかに変化し、そしてついに立ち止まってしまう。

 胸腔を叩く鼓動が少し痛い。生きてるであろう実感が今は辛いだけだった。

 僅かに浮かんだ額の汗を拭うと天を仰ぐ。

 既に夕日沈み、空には夜の帳が降りていた。

 満天の星空の下で、わたし一人が世界に取り残されたみたいだ。

 ほぅ、と白い息が溢れた。

 春の夜はまだ少しだけ肌寒くて、頬や手をシンシンと冷やしていく。

 わたしはどこにもいけない感情のまま、ふらふらと外を彷徨い歩いていた。


「こんな時間だと購買にもいけないなぁ」


 ポツリと呟く。かと言って校内を歩き回っているとシスター達にドヤされてしまう可能性がある。

 選択肢を潰していくと夜道を散歩するしかないという結果。


「あ~あ……」


 後悔。別にわたしが悪いわけでもない。かといって彼女が悪いというわけでもない。

 ただ人に話すような会話じゃなかったというだけ。

 死人を黄泉還らせるなんて生命の冒涜に他ならない。他者からみればわたしの思考回路は異常と取られて当然だ。

 喪ったものを還そうという行為はことわりの外にあるものだ。

 人はそれを外道と呼び蔑む。

 けれど、なぜ人が人を生き返らせてはいけないのだろう?

 わたしの中の倫理感が禁忌を訴えかけてはいない。

 出来るなら――行ったっていいはずだ。

 望むなら、手を伸ばすなら――それを掴み取る権利があると思う。

 星空を見上げる。人の数ほど瞬く星達。煌めいては消えていくはかなき星達。

 ここからじゃ届かない。以前も望んだことがある。

 瞬く星を掴みとろうと手を伸ばしたこと――


「あら、恵じゃない」


「ひゃわっっ」


 あからさまに変な声を漏らしてしまう。星空に手を伸ばしている姿をはっきりと見られてしまっていた。

 これが漫画ならわたしはピョイーンっと効果音と共に飛び上がっていただろう。


「珠希先輩……?」


「ごきげんよう。星がとても綺麗な夜ね、恵」


 振り返ると珠希先輩が立っていた。濡れたように艶めく長い蒼髪が春風に攫われて音もなく揺れる。

 先輩は手で頬にかかる髪を押さえながら、出会った時のまま優雅な声で挨拶をした。


「ごきげん、よう。珠希先輩――あの、どうしたんですか、こんな時間に」


「それは私の台詞でしょう。恵こそどうしたの。こんな時間に――春先とはいえまだまだ夜風は冷たいんだからこんなことをしていたら風邪を曳いてしまうわよ」


 わたしに近付くと先輩は羽織っていたストールを脱いでわたしの肩にかけてくれた。


「あ、ありがとうございます。珠希先輩」


「別に大したことじゃないでしょう。私が少しだけ暖かい格好をしているから、ほんの少しだけ貴女にそれを分け与えただけだもの」


 当然というように先輩は毅然と言ってのける。

 ――わたしなら、無理だ。

 自信があるという言い方もおかしいかもしれないけれど、わたしは手をさしのべないだろう。わたしはそんな人間だから。


「それでどうしたの。こんな時間に外に居るなんて。もしかして相部屋主と折り合いが付かないの? なんだったら私から話をしてあげてもいいけれど」


「い、いえっ。だ、大丈夫ですっ」


 両手を振って結構ですと主張すると先輩はわたしの肩に両手を置いたまま見つめて、


「じゃあどうしたの」


「――その、少しだけ頭を冷やしたいって思ってて……それでちょっと歩き回ろうかなって」


「そう、じゃあ一緒に図書館へいらっしゃい。このまま外を歩いていても体を壊してしまうだけになるだろうし」


「図書館……?」


「そうよ。少し時間は遅いけれど図書館は生徒のために遅くまで開放してくれてるの」


 それは珍しいシステム、と思ったがよくよく考えたら昼間は通常の授業を受けているんだから、魔法学科は夜にしか出来ないのは当然かも。じゃあ先輩は魔法学科を受けに行ってるのかな。


「不正解。今日はただの予習をしようと思って図書館を借りるの。自室だとすこし集中し辛いから」


 そういいながら胸に本を抱えて歩き出す先輩。わたしはその姿をぼぅと眺めていると、

 「どうしたの? ほら、行きましょう」と声をかけてくれた。

 別段、することがあるわけでもないわたしはその誘いに乗ることにして先輩と一緒に図書館へと向かった。

 透明色の吐息、わたしと先輩の吐き出すそれはまるで変わらないというのに。

 この慈愛の深さは月よりの高い隔たりがある。

 たとえばわたしが三年生になったとき、目の前の先輩のように振る舞えるだろうか。

 誰かの力に、なれるのだろうか。

 考えれば考えるほど、遠く霞む。

 今は遠いせなかを見つめた、すこし早足でその姿を追いかけていった。





          /





 図書館の中はもう日はすっかり落ちているというのにそれなりの人がいた。

 流石はお嬢様学校だ。あまり自覚は無かったケド、淑やかな場の空気を感じ取ると嫌が奥でもそんな場所だって思わされる。

 そっと音も立てずに立ち上がって、本を上品な仕草で仕舞う。

 眼の前で行われる動作、一つ一つが自分より高等だと理解出来るような作法に思わず驚いた。


「恵、こっち」


 入り口で呆然と立ち竦むわたしに小さく手招きをする先輩。

 慌てて、けれど音を立てないようにわたしは先輩の元へと歩く。

 皆、静粛に椅子に座って本を読んでいる。

 大きなテーブルが入り口からズラリと7~8台並べられて、その奥の大きな空間に処狭しと本棚が整頓され並べられている。それこそ隙間無くみっしりと。


「うわ~……すごい蔵書」


「それはそうよ。うちの学院は日本でも有数の蔵書だもの。調べものをするのには適しているのよ」


 そういって入り口のカウンターにいた、シスターに本を手渡す。 二、三言の言葉を交わして再びわたしの前までやってくるとウインクをしてわたしの肩をぽんと叩いた。


「それじゃ、行きましょうか、恵」


 そう言って適当な席に案内されてその隣に座る。

 周りを見渡してみると、みな黙々と本を読んでいる。

 粛々とした空気の中で会話なんて出来るんだろうか。

 そんなことを考えているうちに隣の席に先輩が座った。

 いつの間にか手にしていた本をテーブルに置くと一冊だけ開く。


「さて、それじゃ――恵、なんでもいいから話をしましょう」


「え?」


「話したくないこともあるでしょう。それは話さなくてもいいの。でも吐き出さないと悶々とすることもあるから――恵が話したいことを話せばいいのよ」


 すでに先輩は本を読んでいる。ぺらっ、と楚々とした仕草で捲る。

 人間とは知性の生き物である。言葉を介して他人に己の意志を伝えることが出来る。

 言語とは人類が生み出した最も万能の術である。

 会話をすることで自己の鬱積したものを吐き出してしまえることもあるって云ってくれててるんだと想う。

 力になれるか分からないけれど私に話して多少なりともストレスを解消しなさい、ということ。

 コトッ、と硬いものが置かれた音が聞こえて、視線を向ける。珠希先輩が用意していた紅茶だった。


「紅茶、ミルクティは好き? と言ってもこれしか無いんだけれどね」


 ゆらっ、と沸き上がる湯気。冷えた躯に浸透しそうだ。先輩の足下に置いた水筒を見る、おそらく持参したものをわたしにくれたんだろう。


「冷めないうちにね。冷えた紅茶なんて美味しくないんだから」


 もう一つ用意していた紙コップ。おそらくシスターに貰ったものかな。半分近くコップに満たした紅茶を両手で包み込むように触れながら、わたしに可愛らしいウインクを送ってくれる。

 

「ありがとうございます、珠希先輩……」


 湯気が顔に当たって鼻先が湿る。

 それがなにより暖かい。

 わたしは意を決して、閉ざそうとしていた想いを先輩にぶつけることにした。

 緊張から渇いた口腔を湿らせるため、その液体をゆっくりと口付け流し込む。

 渇いた土塊に染みこんでいく心地、ミルクティの甘さで肩の硬直が少しだけ解けたような気がした。


「珠希、先輩――」


「ん、なぁに恵」


 先輩は顔を上げない。こちらを見ずに相槌を返す。


「なにかをやり直せるとしたら……珠希先輩はやり直したいって思いますか? そしてやり直しますか?」


 なぜか、なぜだか知らないけれど珠希先輩ならわたしの言葉を笑わない、無碍にしないと思えてしまった。

 何故かなんてことはわからない、ただこの先輩の持つ密度がわたしをそうさせるのかもしれない。

 ぺらっ、と乾いた洋紙の音。「そうねぇ」と一言、先輩が呟くとペンを持った手を顎に当てる。


「やり直したいと思うでしょうね。そしてそのためになにかしようとする」


 そこまでいうと困ったような喉になにかがつっかえたような表情になって「でも――」と付け加えた。


「きっと、寸前になってやっぱり考え直すと思うわ。やっぱり振り返ってはいけないんだって」


 小心者だから――と言って眉を困らせたまま不器用にはにかむ先輩。


「じゃあ――先輩はやり直しはいけないことだって思っているってことですか」


「ううん、そういうわけじゃないわ。やり直せるんだったらやり直したいこともあるけれど……やり直してしまったら今の私ってどうなるんだろうって思うと怖くなるの――たとえば今が不幸だと感じていたとして、やり直した先が幸福だなんて限らないでしょう」


 ――それは理屈だ。

 ――わたしはそうは思わない。


「もしかしたらそっちの未来の私はすごく厭な人間かもしれない。そう思うと今がいいって思うんじゃないかなって」


「それは可能性の問題じゃないですか。人はよりよい未来を選ぶ権利があったっていいと思うんです――そのためにもう一度違う道を選ぶ権限だってあっていいじゃないですか」


 クスっ、と先輩が子供をあやすような優しい視線でわたしを見る。先ほどまでのわたしのように紙コップを持ち上げて、液体で喉を潤す。離れるか否かの所で「恵は強いね」と呟いた。

 心象を曝かれた気がしてザワザワと胸が締め付けられる。


「私は捨て切れないもの。私自身も大切だけれど他の人達も大好きだから」


「他の人達の話は今、関係無いじゃないですか」


「いいえ。じゃあ未来を選んだとして選ばれなかった『今』は虐殺されてしまうのよ。それはどう思う?」


 思わずその言葉に絶句する。

 考えても見なかった認識だった。

 そう。違う未来を選ぶということは異なる未来を殺すということ。そして先輩が虐殺という言葉を選んだのは『他の人間の未来』も巻き込んでしまうからということ他ない。

 ――無意識による殺害行為。未来を変質させるという行為は自然災害で、無自覚の災厄のようなものだ。

 言葉を無くしてしまったわたしの表情は珠希先輩にどう見えたのか。

 先輩はフッ、と相好を崩して手元のミルクティを見つめた。


「でもね。それでもそんな未来を必要としてるのなら仕方がないんじゃないかな、って私は考えているの」


 やさしい手つきで先輩は自分の右手を触れる。今まで気づいていなかったけど右手には手袋を填めている。

 その手を慈しむようにゆっくりと触れている。


「絶望の淵にいる人間に、なんて言葉を掛けていいのか――私には分からないもの。人の出来ることなんて、手を握って、抱き合って、愛を交わすことしか出来ないでしょう?」


 美しき薔薇が右手を奏でるように触れる。

 憂いを滲ませる表情はなにかを悼んでいるように見えた。

 それはきっと自分では救えないモノがいるという苦悩。力を持つ故の苦痛なのだろうか。


「――――。」


 そう、深淵では言葉も届かない。行為すら感じられない――光なき牢獄だ。

 そしてそこに落ちた人はもう人ではない、人の皮を被った形容しがたい存在なのだから。


「だからいたずらに否定はしないわ。ただ肯定もするつもりはないけれどね」


 ふぅ、と色っぽい唇から吐息が漏れる。両手を顎に乗せて目を閉じてそう宣告した。


「先輩のほうがきっと強いです。わたしはそうは考えられない」


 わたしはきっと、選ぶ。

 その時が訪れようとするならわたしは迷わず行くだろう。ヒト為らぬ領域まで。

 だから自分が怖くなる。自分に怯える。


 わたしは――闇を見つめている。


「強くないわよ、強がってるだけ。ほんとうの私は誰よりも幼くて弱いんだから」


 そうだろうか。わたしにしてみれば珠希先輩は眩しい。闇を見つめるものにはこの輝きはとても息苦しく感じてしまうのだ。

 触れがたい薔薇、棘に喉を引き裂かれ絶命する姿を幻視した。


「んん」


「…………。」


 咳払いと沈黙。

 一呼吸の後、会話が止まる。なんだかすごく気まずい空気が充満してわたしは息継ぎも出来ないくらいの重圧に喉をごろごろと鳴らす。


「あ、あのお」


「なに?」


「先輩、右手」


「ああ、これね」


 先輩は右手の手袋を撫でるように触れると、その手にペンを持たせた。


「あ……」


 まるで掴むことを忘れたようにペンが床に吸い込まれた。


「ご覧の通り。右手は木偶の坊ね。手としての本来の機能は失われてるの」


 もう一度、落としたペンを握ろうとするが、まるで力が篭もるような様子が無い。小さな震えだけが珠希先輩の必死さを物語っている。

 

「先輩って、本来は『右利き』……ですか」


「ええ。生まれ付き『右利き』よ」


 ふぅ、と息を吐いて右手を目の前にかざす。


「でもほとんど機能していないわ、感覚だけは切り離さないように処置したけど、生活をする上では右手は棒みたいなものね」


「それって…………」


 言葉を失う。それは言うまでも無い。


「お察しの通り。多重の魔法手術アナクロにおける後遺症ね」


 知っている。日々消えていく魔法の粋を後世に残すため魔法使い達は人体改造にも似た処置を身体中に施すのだと。

 それは地獄すら及ばない。いや、地獄すら生温いと吐き捨てるほどの苦艱だと聞いた。

 身体中に霊針を通し、細胞単位から身体を書き換えるのだ。

 魔力を、魔力の通る器官へ――魔術器官コーデックに改造する。

 常人ならば狂うであろう所業。人為らざる外法師達は百年にも及ぶ時間を血統強化に務めてきたのだ。

 血脈を捨てたわたしが及ぶべくも無い。


「ああ、気にしないで。こう見えて動かないなりの動作とかもちゃんと弁えているのよ」


 わたしの痛ましい視線に気がついたのか、珠希先輩は少しだけ声音を弾ませて苦笑を漏らす。

 わたしの瞳に写ってる掌はなんの変哲もないように見えた、けれどそこには剣束家が選び得た求道。

 ――その血統が宿っているのだ。


「辛くなったりしませんか」


「辛かったり苦しかったりは仕方がないじゃない。私たちは生きているんだもの。私は剣束の家に生を受けたのだからその運命を受け入れてるわ」

 

 それはとても悲しい声。憂いと躊躇い――その感情が内混じりになった言葉。

 

「なによりね。この右手は私にとっての“救い”であり“理由”でもあるから」

 

「救い、と理由……?」


 その手に宿る歴史をわたしは知らない。けれど珠希先輩にとってその右手は命よりも大事なものなのだろう。


「大事、なんですね」


 わたしは先輩に囁くように言った。

 先輩もおだやかに、


「そうね。私にとってこの右手は“絆”だから」


 ――そして自虐的に笑う珠希先輩。

 この時のわたしには先輩の肩に取り憑いていた呪いもその重さも知らなかった。

 そしてそのことをわたしが知るのはかなり後のことである。

 自らを異貌へ変質させながらも人としての側面を宿し続けるその在り様、そんな生き様。

 右手をさも大事そうに抱く珠希先輩の姿はただ、とても儚く、そして美しいと思った。

 





        /





 先輩と話した後、私は一足先に帰ることした。

 あの静寂の空間に居続けるのがいたたまれなくれなくなってしまったというのは秘密だ。

 とにかく先輩も色々と大変なんだ。あの年齢であんな風な表情を作れるということはそれだけの苦悩があったということ。

 けしてわたしだけではない、誰もが苦悩し、窒息しそうな世界の中で明日を夢見て生きているのだ。

 見上げると煌々と月が輝いている。雲一つ無い綺麗な夜空。

 世界はこんなにも壊れかかっているのに、この世界はなぜ美しいのだろうか。

 誰かがスイッチを押すだけで忽ち世界は死に絶える。そんな世界だというのに、わたしの前の景色はいつでも綺麗だった。


「バカみたい」


 ぽつりと、つぶやく。

 だれかの何気ない一言に翻弄されて、右往左往にかけずり回って ――多くの人に迷惑を掛けて……。

 立ち直ったつもりだと思ってたけど、全然ダメだ。

 わたしはなにも変わっていない、あの日のまま。

 暗澹あんたんとした気持ちで桜並木通りを歩く。

 あの月明かりがわたしの胸中を照らしてくれたらと縋るような気持ちを抱いてみた。

 けれど掌は空を切るだけで、その願いは水泡と化していく。

 部屋に帰るにしてもまだまだ時間は早い、重苦しい気持ちのままでは杏里さんには逢えない。

 いや、もう誰にも逢いたくなかった。

 こんな馬鹿げたことを考えてしまうわたしを、

 こんなにも愚鈍な自分自身を消し去りたくなってしまうから。

 方向性を喪った心と行き先を見いだせない身体。

 まるで死霊の徘徊のようにわたしは目的地を示すでもなく夜の学区を歩き続けた。

 月明かりだけがわたしの道筋を照らし、遥か先、茫洋と浮かぶカタチへ誘う。

 気がつけばわたしは昼間迷い込んだ礼拝堂の近くに立っていた。


「ここは、礼拝堂?」


 誰もいないのかやや遠くに見える礼拝堂の窓から光は漏れていない。

 誰もいない教会は外から見るだけでもなんだか異質な感じがする。

 昼間は人の気配、熱を感じるせいもあって、それほど忌避しないが無人の聖堂は人を寄せ付けぬナニカがあるように思えた。


「―――?」


 なにかが、動いた。

 月明かりの届かぬ入り口のためその陰がなんなのか見えない。

 もぞもぞと正体不明のなにかが蠢いている。


 異様。

 ――それは、人の動きとは思えない。

 カサカサと乾いた音、

 がしゃがしゃと硬質な響き、

 わたしはのどを鳴らして、それを呆然と眺めている。

 その黒陰は忍び込むように礼拝堂の中へぬるり、と入っていく。

 大禍時おおまがときは当に終わっているというのに、そこには魔が刻に彩られるべき存在がのっぺりとした闇に潜んでいた。

 ただ魅入られた。魅入った。

 異形、異型―――ヒト、では、ナイもの。

 わたしはその存在がなんであるか知りたくなってしまっている。

 それは忌避すべき感情。普通であれば、得体の知れない怪異に遭遇した者の執る正しき行動は逃避、逃走以外に無い。

 けれどわたしは今、恐ろしいほどに魅了されている。

 その存在がなんであるかを確かめたいと、願っている。

 取り憑かれたように、礼拝堂の前まで歩いていくと遠目にその堂舎の輪郭を双眸で射貫いた。

 近づけば余計に礼拝堂内が閑寂かんじゃくの空気に包まれていることを肌に感じる。けれど確かにアレは居て――ここへと入っていったのだ。

 それだけは確かだ、確定でもないというのにわたしはそれを正しいと意識的に理解している。

 ドクン、ドクン。

 心拍数が振り切れそうなくらい跳ね上がって五月蠅い。呼吸を置いてきたように脈拍だけが回転して息が詰まりそうだ。

 ともすれば胸腔を突き破ってしまいそうな心臓を掌で制すように握りしめながら一歩、また一歩と未知の扉へと歩み寄る。



 ナニカが居た、


 不明のナニカがわたしの前にいたのだ。


 瞳孔に焼き付いた黒い影はわたしの沈み込んだ深淵に一滴のしずくとなって染み渡る。

 この世界より外れた異形がそこに存在する。

 目の前に正気を破る狂気がある。

 ドクン、ドクン。

 はっはっ、と犬みたいに吐き出す息が生暖かい。

 シンとした寒さが脳髄までも侵入してわたしの感覚を鈍らせているのではないかとも錯覚した。

 なにより、この世為らざる異臭。

 その目の前にいるかもしれない自分に異常な高揚感が包み込んでいた。

 ――ふと濃厚な血の匂いがした、気がする。

 


 わたしはノブに手を掛け、意を決したように禁忌の扉を開け放つ―――!


「恵さん?」


「ひゃわっ」


 冷たいドアノブに触れたや刹那、背後からわたしの肩に手がそっと置かれた。

 その声と繊細な指先に飛び上がりそうなくらい驚いて乙女とは思えぬような声をあげると、思わず振り返りながら一歩跳び退いた。


「……杏里さ、ん……?」


 そこにはパチクリ、と目をまん丸くして不思議な生物を観察するような杏里さんの顔があった。

 姿勢はわたしの肩に触れたままの状態で硬直している。少し驚いたのだろう、たらっ、と冷や汗が頬を伝っている。



「はぁ……あまりに恵さんが遅いので迎えにと。なんだか驚かせてしまったみたいでごめんなさい」


「うっ、うぅん! だ、大丈夫っぜんっぜん、びっくりしてなんかないからっ」


 両手を大げさに振って驚いていないことを全面に押し出すが、それが逆効果になるということをわたしは理解していない。


「そう、ですか、ならいいんですけど」


 それだけ言うと杏里さんは固まった姿勢を正し、わたしの方に真面目な顔を向けた。



「恵さん。さっきは言い過ぎました。それを謝りたくて恵さんを探していたんです」


「ああ――うぅん、悪いのはわたし、常識的に考えれば杏里さんの考えは間違ってないもん。ただ正しすぎたから悔しかっただけなんだと思う」


 そう、常識に適した考えを持っていたならきっとそんな不健全な考えなど持ちようがない。

 逸脱した思考をするモノはやはり逸脱した者のみなのだ。


「――疲れてるんですよ、恵さん。新生活だってこともありますし、少しだけナイーブになっているだけだと思います。心配しなくとも時間が解決してくれますから」


 こんな時でも杏里さんはわたしに優しい。わたしにとってそれはとても苦しい――まるで臓腑を素手で握りつぶされているようにキリキリと痛む。


「――うん」


 押し殺した声で答える。

 そうじゃない。わたしは――ヒトデナシなんだ。

 そう叫ぶ言葉を飲み込んで一つだけわたしは頷いた。


「なんか今日は杏里さんに迷惑をかけてばっかだね。本当にごめんね。―――わたし……」


「恵さんっ」


「は、はい?」


「――迷惑かどうかは当人の裁量です」


「……?」


「勝手に私の気持ちを奪わないで欲しいの」


 わたしの瞳を注視したまま杏里さんが真摯な声を漏らした。

 その言葉にわたしは疑問の表情を顕にした。

 それを見ると杏里さんは一つ髪を揺らして静かに紡ぎ始める。


「たとえば、ある善人が善行を行ったとして、それは誰しもにとって善意になるわけじゃないですよね」


「え、善意は善意じゃないのかな……?」


「それは一面でしかありません。たとえその人の行動悉くが善行であったとしても誰かとって見れば悪行である可能性はあります。このように感情とは必ず大きく分類するなら二面の顔を持っているわけです」


「善意に類する悪意、悪意に類する善意ってコト?」


「善人が気まぐれに行った悪意こそ、とある人間にとって善意となることだってあります。――だから人の心は鏡じゃありません。光と陰がある透明な硝子のようなものなんです」


 生まれついた悪人がきまぐれに齎す善行がある。

 神の申し子のごとき善人が図らず起こす悪行がある。

 では――この世界の正しさってなんだろう?


「だからこそ、他人の気持ちを勝手に計ることは間違いだと思うんです」


「つまり……人の感情を勝手に推し量るなってこと?」


「はい、私の感情は飽くまで私だけのものです。いくら見知った人間であろうとも私の感情を忖度そんたくする権利はありません」


 自分の気持ちは飽くまで自分だけのもの、他人に解せるものではないと彼女は言った。


「――なんとなく……わかるけど、けどどうしてそんな話をするわけ?」


「ですから、」


 はぁ、と一つため息。わたしの巡りの鈍さに漏れる嘆息なんだろう。


「恵さんを疎ましいなんて感じたことなんて一度たりともありません。私は恵さんのことを気に入っていますし――それ以上にもっとあなたのことを知りたいと思っているんです」


 そこまで言って、腰に手を当てると、


「だからそんな寂しいこと二度と言わないでください。じゃなきゃ次は本当に怒りますから」


 と、わたしに言い聞かせるように言った。


「――――。」


「いいですね、恵さん」


 もう一度、当惑するわたしにに対して決然とそう言い切った。


「う、うんっありがとう、杏里さん。あのその……色々迷惑かけて」


「恵さん」


「あ、あはははっ、ごめ――じゃなかった。うんっ」


 ダメだしの言葉にあわてて言葉を選ぶ。だけど上手な言葉が浮かんでこなくて誤魔化すように頷くだけ。それでも杏里さんは優しく笑ってくれた。


 氷解する。心のしこりがそんな言葉で解けていくのを感じた。

 何気ない、本当に何気ないことだっていうのにそれがなにより嬉しい。

 ああ、小難しいことじゃないんだ、わたしが欲しがってた言葉は……。

 ちょっとだけ溢れ出そうな涙を堪えながら笑ってる杏里さんに笑顔を返した。

 ほんの少しだけでもその気持ちに沿えるように、優しさの欠片でも返せたらと願うように。


 閑寂の礼拝堂に陽気な笑い声が響いた。

 それはきっと。



「おや、こんな時間に生徒が出歩いているとは……どういうことでしょうか」


 ゾゾ、と背筋を這い巡るような低温な声音。振り返ると大きな影。

いや、影じゃない。これは人。のそりと細長い痩躯は一度あったことがある。そう――



『あなたの、こころに巣食う闇を救ってあげよう、鹿島恵くん』


 奥底に保管されていた言葉が黄泉フラッシュ還る《バック》。


「ごきげんよう、シャザール先生。勉学の熱を発散しようと夜風を楽しんでいますわ」


 わたしが振り向くより早く杏里さんが、そののっそりとした影に向かって答えた。


「ご、ごきげんよ……シャザール先生」


 わたしもそれに習い、怖ず怖ずと振り返ってその痩躯に挨拶を返した。


「ごきげんよう、天使たち。話は了解したのだが――主の御座おわす教会の前で涼むというのは関心せぬな」


「失礼しました。わたくしが恵さんに無理を言ってここに来たいと云ったのです」


「それは何故なにゆえかね。このような辺鄙へんぴな場所に訪れる用など無きよう思えるが」


「此処に在らされる『聖体』を確かめに」


 ザワッ……と急に空気が濃密に染まる。

 なにが起こったのかわたしには理解できない。

 まるでその言葉自体に強力な力でも篭もっているかのように空気の質が変化した。

 息すら吐けないほど重圧。肌がヒリヒリと痛んで張り裂けてしまいそうな感触が全身を満たす。


「…………ああ、悠生くんともあろうものが、あのような妄言を信じているとは。哄笑の的になってしまうではないかね」


「私は自己の目で噂が虚言か事実まことかを確かめようと来たんですよ。そして結果ではなく過程にこそ意味があるというのが私の持論です」


 鼻で笑うような態度の先生に毅然とした態度で言葉を返す杏里さん。


「なるほど。行動にこそ本質がある、と。だが世界は結果こそが真理ではないかな? その過程が如何に素晴らしかろうがそれらは唾棄すべき滓であると」


「結果だけがすべてだとおっしゃっるでしたら――今日までの主の御心はすべて虚栄のものであったということになります」


 きっぱりと、神の足下で許されざる言葉は吐き捨てた。


「杏里さん……」


 月光の悪戯か。月陰りに阻まれシャザール先生の表情は覗えない。

 ただ強張るような声音で絞り出されるように言葉をこぼす。


「悠生くん……その発言は此所このばで在ることを意図してのことかね」


 重く、胃の内容物を吐き出すかのようにシャザール先生は杏里さんに言った。

 その低く響く声は殊更に夜気を浴びて低く通る。

 まるで怒気を孕んでいるように。


「結果だけで捉えるのでしたら、主は利権と時代に遺棄された愚者でしかありません。――主を大いなる子にせしめているのはその行程ではないでしょうか」


 心の中でなにかがカチリ、と音を立てたような気がする。そうだ、わたしの違和感はそれなのだ。

わたしが、かの主とやらを敬えないのは、その結果を知っているから……。

 否定され、冒涜され、裏切られ、それでもなお神を啓じた彼だからこそ信仰されているのではないか。

 その美しさこそ、信仰――そもそも信仰に結果はない。

 あるのは永遠に続く信心の祈り、敬うという過程のみしかない。

 だからわたしは『無いもの』に祈りを捧げることができないんだ。

 先生は一度喉を鳴らす。


「……先の発言は不問としよう」


 と、発言の意図も意味も問わずに切り捨てた。


「悠生くん。そもそも神に疑問を抱くことこそナンセンスです。リユウなど己の内で作ればよい」


 そこまでいって胸に手を当てると、


「疑念、疑惑こそ悪魔の甘言。一切を捨てることで無心の祈りに辿り着くのだ」


 そこで言葉を切ると「それこそが我ら信徒の至高である」と付け加えた。

 杏里さんはというと、その発言を気にした様子もなく、腰に手を当てたまま聞いているのか聞いていないかのように先生を注視していた。


「――ただ、事実のみを述べるのであれば此処にその『聖体』とやらはない」


 杏里さんの発言がないことで、肯定と捉えたのか続けざまに先ほどの噂話とやらを否定する。


「無いものは無い。こればかりは悠生嬢とて過程がどうとも言えぬだろう。0という数値には過程などという言葉すら意味がない」


「本当にない、んですか……?」


 忘れられそうなわたしが間に割って入るよう言った。そもそもその『聖体』とやらがなんなのかすらわたしは知らないんだけど。


「うむ、安置するのであればここではなく大聖堂のほうだろう。ここに安置する意味はない」


 頷く先生。それを見つめていた杏里さんも暫し沈黙を守って、やがてひとつ頷く。


「そうですね。ここの管理をなされているシャザール先生が無いと仰るのですからきっと無いのでしょう」


「ええ、悠木くん。察しが良くて助かる。それにキミタチの本分は勉学だ。そのような浮ついた話にフラフラとしてるのは良く無いな」


 そういうと片手に携えていた、厚めの書籍を胸の前にあげて開く。


「もし迷いがあるのならば聖書を読みなさい。答えは聖書の中にある」


 そう言ってぱたんっと乾いた音を立て本を畳む。そのまま杏里さんに手渡して、

 「真理はすべてこの中に――」と言った。


「ありがとうございます、シャザール先生」


 杏里さんは聖書を両手で受け取るとニッコリとほほえみを漏らした。


「時に運命とは残酷を強いる。だがそのような時こそ己が信仰いしが試される場だ。キミたちは悩み、大いに邁進するがいい――若いということはそういうものだ」


「とても為になるお言葉だと思います。流石はシャザール先生ですね、私も恵さんもいたく感銘を受けました」


 白々《しらじら》しいとは思いながらも、この場で指摘する人間はいない。

 この場の視線は金髪の美少女に独占している。


「私もシャザール先生のように強い信仰を以て、真理の意志を手に入れられるように邁進したいと思います」


 それだけ言うと、彼女は深々と頭を下げた。

 それを見てわたしも習い、慌てて頭を下げる。


「今宵も冷えてきました。私と恵さんはこれにて失礼します。」


 そこでシャザール先生に「ごきげんよう」と別れの挨拶をすると可憐な様子で背を向ける。

 暫し、その所作に見蕩れてしまいつつ、


「ご、ごごっごきげんようっ」


 ハッと正気にかえると縺れるように挨拶をしてとその場を後にした。


 ただ、あの時の影が頭の片隅にこびり付いてる。

 あれはなんだったのか。

 人間為らざる異形。

 無念なことに、今日も熟睡ぐっすりとはいかないらしい。

 わたしの前途は波乱含みと決められているのだろうか。

 そんな悪態などが思い浮かぶだけ心は浮かんでいるのだろう、そんな風に自身を持ち上げて杏里さんの後ろ姿を追いかけたのだった。




作品で登場する個人、団体は創作です。

主義、主張、宗教、設定等は現実に則さないものがあることを留意お願いします。


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