聖堂の銀盤
めでたし 聖寵 みちみちてるマリア
主 御身と共にまします。
御身は乙女のうちにて祝せられ
御胎内の御子 イエスズも祝せられたもう
天主の 御母聖マリア
罪人なる我らの為に
今も臨終の時も祈り給え
アーメン
天使祝詞が終わるのが入学式終了合図のように、天使たちは各々の場所へと帰っていく。
大聖堂に響きわたるパイプオルガンの音色。力強く儚く耳を打つ。 旋律は聖堂中に反響し、より深く広いメロディへと変化していく。
神の家、神の住まう庭、
光射す聖堂、荘厳な音楽、
それを奏でる神々しい銀色乙女。
「イテ・ミサ・エストですね」
さっきまで別の場所にいたはずの悠生さんがわたしの横にいた。
表情には出さないがどことなく不機嫌そうな声音で壇上の上で銀盤を奏でる少女を見ている。
「『行け、典礼は終わった』って意味だったっけ?」
「典礼にも規律があります。向こうで話したように典礼という結界が敷かれるということですね。その規律の一つ、『司祭の赦し無く、典礼を退出すること赦さず』」
人差し指をふりふり、と揺らしながらそういう悠生さん。
「ようするに結界の効果が破れちゃうからってことだよね」
「はい、けれど典礼にはなんの強制力はありません。本当に規律としての結界だけなのでなんの現象も起こり得ませんけど」
少女達が次々と出ていく中、銀色少女の歌声は高く響きわたる。 どこか物悲しく、冷たいような歌声は胸を鷲掴みにされるような錯覚を覚える。
それは遠い日々の憧憬――忘れようとしている傷を抉り出される、残酷な聖唱。
「――彼女は、織ヶ碕灯子。中等部では私が来るまでずっと学年一位を防衛し続けていた才女です」
織ヶ碕……どこかで耳にしたことがあるような……思い出せない、思い出せない程度のことなら大したことじゃないんだろう。
周りを見ても彼女の演奏を聞いている者など誰一人としていない、 彼女たちにとってこの旋律はただ儀式の終わりを告げるという記号程度でしかないのだろう。
それでも彼女は静かに、淡々と――詩と演奏を続ける。
誰にも届かぬ理想郷は続く。
たった一人、
誰ひとりとしていない彼岸で唱い続ける少女。
昼下がりの陽光に照らされ、ふわふわと柔らかそうな銀髪が揺れる。制服より延びた指先は不健康なほどに白い。柄もいわれぬ不安感、目を離してしまうと溶けて消えてしまうのではないかというほど、儚げな容姿。
悠生さんのそれとはまた違う『危うい美貌』
命の灯火が消えようとする瞬間、その美しさを増すように。その儚さは内包された時間のみで浪費されていく。
無色だ。わたしにはこの少女の姿が透明色に見えた。
触れることも、はばかれるガラスの乙女。
――織ヶ碕灯子。
わたしがそんな思いに囚われているうちに銀盤を弾く指先が終止符を放った。
――典礼の終了。
賛美曲弾き終えると、その銀のシルエットが立ち上がる。
銀色のまばゆい髪を揺らめかせながらこちらを向くと目を細め凍りつくような視線を向けた。
ひりつくような眼光。
色素の乏しい金色の瞳がわたし達を捉えていた。
壇上の上、目を閉じると今一度わたし達を見据える。
「―――ごきげんよう。私の唄を聞いてくださる人が居たなんて驚きです」
そう一言述べるとわたし達に頭を垂れた。
黒の修道衣に身を包んだ少女。今まで普通の女の子ばかりで学院がそういう場所であると正しく認識出来なかったけど、そのブレが矯正された気がする。
修道衣の少女はどこか神々しくて、わたしは思わず目を背けたくなった。
灯子さんという少女は風を起こさぬような歩みで壇上の階段を下り、わたし達の元へやってくる。
悠木さんが一歩踏み込んで、一つ頭を下げた。
「――ごきげんよう、灯子さん。お加減は如何?」
「御陰様で息災も無く過ごせていますよ、杏里さん」
何気ない挨拶のように思えた。
「先ほどの典礼曲、とても素晴らしいものでしたわ。よほど研鑽を重ねられたのでしょう。胸を打たれました」
「お耳汚しばかりで恥ずかしいかぎりです。私が杏里さんに勝るものと言ったらこれくらいしかありませんので」
笑顔の悠木さん、そして繕わぬ鉄面皮である灯子さん。
表情を顕にする悠木さんに対して灯子さんは人形のように表情が動かない。
「ご謙遜を。あれだけのモノを持っていて卑下なさるなんて罰当たりじゃありませんこと? もう少し誇っていただかないと嫌味に聞こえます」
「まだまだ一芸に秀でると言えるようなレベルでは無いので、否定をしているだけです。誇るのでしたら右に及ぶものがいなくなった時にでもそうさせてもらいましょう」
目を閉じたまま灯子さんが淡々と述べる。
不思議なことにそれは目の前の相手を直視したくないという拒絶の色を帯びているように見えた。
「それよりもいつもなら私の姿を見るなりそそくさと居なくなる杏里さんがどういった風の吹き回しでしょうか」
「あら、逃げてるようにお思いだったのですか? それはお目出度い頭の持ち主ですね。脳髄引っこ抜いて軽いおつむに味噌でも突っ込んでもらってはいかがでしょうか」
「結構です。それよりご自分の頭を調べてもらってはいかがですか? その浅慮な脳幹に電極突き刺して、捻れ切った性根を正してもらうことをオススメします」
ん? なんだ……この不穏な空気は……。
けれどわたしの中でどちらも同様の色を帯びていると感じている。
笑顔の裏に張り付いた確執、奪われたものと奪ったものなら当然かもしれないけれど、それだけではすまない、この殺気はなんなんだろう。
兎も角、間にいるわたしの配慮もしてほしいところだ。
私はいま冷戦中の国家間の爆心地にいる気分だ。
衛生兵はどこですかーっ?
心のなかで困惑を重ねている内に、銀髪の美少女がわたしのほうに視線を向けた。
「お初にお目にかかりますね、私は織ヶ碕灯子と申します」
「ど、どうも初めまして。わたしは鹿島恵って言いますっ」
一度、灯子さんは視線を落としてわたしのリボンを見つめる。そして視線を戻すと優雅に首を傾げた。
「では恵さん」
「――は、はい……」
涼やか声色で名前を唱えられると、なんだか神経がムズムズする。要するに身体がまた緊張状態になっているという証拠。厭な発汗で肌がじっとりとする。
そんな葛藤を知る由も無い灯子さんは、ゆるりと頭を下げる。ステンドグラスより降り注ぐ七色の日差しを浴びて、白銀にも似たふわふわの髪はまるで天使の輪が差しているように見えた。
「――これからよろしくお願いしますね。仲良く致しましょう」
同級生となるわたしを歓迎するような挨拶をしてくれる。こういう学校ってどちらかというと閉鎖的で新参者を排除する傾向がある。
それは内側で完成した文化が異端を受け入れることで破綻するのを防ぐ装置なんだけど……わたしが今、話している限りではそんな偏見を振りかざす人はいない。これは正直、すごいことだって思う。
「……? どうか致しましたか?」
「あ、ううん。ここの人たちって物怖じしないっていうか、みんな新規の人間に優しいなって思って」
「神の前では誰もが平等だからです。なにかを学び、切磋琢磨する人間に上下は付けられません」
透けるように白い両の指先を絡めて祈るようにする灯子さん。いや、祈るようにではなく本当に祈っているんだ、神様に。
「誰かを貶めることで自分の格が上がったと錯覚してしまうのはさもしいことです、故に私たちはそうならぬように努めなくてはなりません」
「は、はい……」
ヤバい……本当に天使みたいだ。
自分はなにも悪いことなんてしていないけれど、なんだか悪いことをしている気分になる。
一瞬だけ、後ろのステンドグラスに描かれた聖母の姿と重なって眩暈がした。
「ですから、恵さんも遠慮なさらず私達に接してください。変に気を使われてしまうとこちらが萎縮してしまいますから」
「そう、ですね。頭に入れときますっ」
鈴の音色のような声音にわたしの心は解されていく。確かに壁を作っちゃうとまずいかもしれない。
わたしは息を吸い込んで一つ納得するように頷いた。
「よろしくお願いします、灯子さん」
わたしの言葉にゆっくりと頷いてくれると可愛らしく首を傾けた。
「さて、頃合いですから行きましょうか。恵さん」
会話を強引に断絶させるかのように、強めの声音で杏里さんがわたしにそう話しかけてきた。
「え、あ……うん」
これといって断る理由もなかったので曖昧ながら一つ、頷いて、
「それじゃすみません、灯子さん。挨拶もそこそこですけどわたしたちはこれで失礼しますね」
「いえ、構いません。私があなたがたを呼び止めてしまった体でしたから……」
笑顔を崩さずそう優しく言ってくれる。艶やかな銀髪が開かれた扉から吹き抜ける風でふわふわと揺れ動く。
そっといたずら風が彼女の香りを運んできた。
少女の香りは悠木さんのように華やかなものではなく、とても素朴な香り。
そうだ、この古ぼけた教会の匂いに酷似していた。
悠木さんの小さな手がわたしの手を引いていく。なんとなく後ろ髪引かれる思いがあって灯子さんのほうを振り向く。彼女はわたしの姿をじぃ、と見つめ、
「またどこかでお会いすることもあると思いますけどそのときはよろしくお願いしますね」
杏里さんと同質の天使の微笑み、きっとだれもを骨抜きにしてしまうだろう。
杏里さんと違うところはとても儚げで笑みを浮かべたまま消えてしまいそうな印象を受けることだ。
――幽霊みたい。
それがわたしの織ヶ碕灯子への印象だった。
「ごきげんよう」
挨拶。優しく、残酷な響きは三人しかいなかった大聖堂にりん、と反響した。
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「――彼女の服が違うのは、典礼の正装だったからですね」
「けどわたしたちってふつうの制服じゃない、なんで灯子さんだけ修道服だったの?」
始業式が終わり、わたしたちは自分達の教室へと向かう。
大聖堂を出て、高等部の校舎のほうへと歩いていた。
話題は先ほどの儚げな少女の話。なんとなく気になってしまったから杏里さんに訪ねてみたわけ。
「それだけ敬虔なクリスチャンだからです。既に彼女は卒業と共にシトー修道会に行くことが決まっていますから」
「えっ、シトーってたしか。ものすごく厳しいって……」
「厳しいなんてものじゃ。外部との交流を完全に遮断している人たちの集団ですし」
「確か笑ったり喋ったりするのも禁止だとか……わたし死んじゃいそうだよ、そんなの」
「昔ほど封建的制度は廃止されてきていますけど、あそこだけは別ですからね。そういう生き方を選んだ人間が門を叩く場所です」
九世紀以降から急速に修道会の貴族化が始まったらしい。そんな修道会が富裕化していく時代、それに異議を唱える改革運動があった。
それが十世紀。――元々、女修道会の多くは王族、貴族によって設立されたという背景が多いせいもあってか、権力が集約されるのは当然の成り行きだった時代の話だ。
「お金持ちが宗教を傘に暮らしていたりしてた時代があったんです。修道院は貴族の駆け込み寺のようなもので、避難所として機能してたんです」
「そんな制度に反発したのがシトー修道会だったっけ?」
「クリュニーを中心とした色々な修道院です。それで設立されたのがシトー、そしてプレモントレ修道会です。初期修道院の規律を重んじる聖女主義というんでしょうか」
「聖女主義?」
「ああ、これは私が勝手にそう言ってるだけですけれど……清貧、貞潔、服従、きびしい禁欲。日々の祈りと学習によって魂を完徳に導く閉ざされた聖女の園」
『閉じこめ』られることで、危険と誘惑を『隔離』た静謐の世界――。
「――繭に包み全てを遮断することで、人工的に聖女を生産するための花園――それがシトー修道院です」
外界の欲を切り捨てて、祈りと労働だけを積み重ねていく日々。
――遡行し、暗唱し、研鑽し、恭順し、
――少女たちは彼岸で祈り続ける。
それを厭世とは言わない。少女達は此岸のことなどに興味はない。
暗闇にひっそりと咲く花の名をわたしは知らない。
「…………すごいんだね、灯子さんって」
「すごいですね。ある意味、化け物って言っていいくらい」
歩きながら、深いため息「でも」という言葉を置いて
「――私は嫌いですね」
はっきりと、
何者をも拒まず、受け入れる少女がそう言った。
なんとなく、それに驚いてわたしはふと立ち止まってしまった。
理由を問いただそうと、小走りに杏里さんの歩調似合わせるように小走りになるとズキッと膝に小さな痛みが走った。
「イタタっ」
「……? どうしたんですか、恵さん」
「んんと……あちゃあ、膝擦りむいちゃってるみたい」
スカートをめくり上げると膝に小さな擦りむき傷がある。
たぶんマキナ先生と衝突した時、転けたからそのときに付いた傷だと思う。
傷口を指で触れるとだいぶ乾いてきてるのカサっとした感触があった。
「どうしよ、このくらいなら放っておいても平気だけど――って杏里さん?」
「――恵さん、はしたないです……」
少しだけ頬を染めて、わたしのほうをみないようにしながら咎めるように言った。
――そんなこと言われてもただスカートを膝上までめくりあげただけなんだけどなあ……。
「コホン……どちらにせよ、そのままにして雑菌などが入ると大変ですから、保健室に行きましょう」
咳払いをして仕切直すように、わたしに近づくと杏里さんはめくりあげたスカートの裾を掴んで正す。
「いきましょう、恵さん」
と言ってわたしの指に指を絡めて再び歩き出した。
わたしとしては、この程度なら大丈夫なのにくらいに思っていたから、杏里さんの行動に少しだけ呆気に取られ、されるままになっていた。
これがお嬢様と庶民の感性の違いだろうか。
先ほどの話を思い出すと、修道院でも貴族と市民の軋轢はあったのかな、なんてことを妄想しながらわたし達は保健室へと行くのだった。
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毎度のことながら
本作品の団体、宗教、主張はすべて架空のもので私個人の創作です。
ですので現実と混同なさらないよう留意お願いします。