病院
「元に戻してこいって、まるで捨て猫だな。」
女の人が出て行った玄関の方をみてふっと笑って鈴木は言うと、何もなかったように散らかった床をもろともせずキッチンへ向かって行った。
さっきまで賑わっていたリビングはしんとしていた。俺は何をしていいのかわからずぼーっと立っていた。
そういえばと、さっきの女の人が原稿や〆切など聞き覚えのある単語を言っていたのを思い出す。原稿、〆切といった単語は特定の職業のものだ。
今まで気にしていなかったが、俺の自殺を止めた変わったこの男について俺は何も知らなかった。だから俺は一つ聞いてみることにした。
「あの、原稿って…あなたもしかして…」
そう言いかけたとき、鈴木は散らばっている本やら服やらをあさりだし、一冊の本を俺に渡した。
「美野里テツ。それ、俺のペンネーム。で、さっきの小さいお姉さんが俺の担当の梶ちゃん。」
渡された本は、今話題になっているホラー小説だった。この前映画化が決まったとかニュースになっていたっけ。ふと、近くの本棚をみると美野里テツと書かれた背表紙の本が何冊か入っていた。
俺は手に持った本と鈴木を見比べる。
「ーーえ、うそ。本当ですか?」
「こんなんでも一応先生と呼ばれてます。」
ヘラっと笑って鈴木は言った。この男の職業はだいたい予想がついていたが、まさかそんな有名な作家だとは思わなかったので俺は驚いた。鈴木はそんな俺をみて可笑しそうに笑う。
「それ、やるよ。ってか色々本あるから暇な時とか適当に読んでいいから。」
まるで、俺がこの家に住むような言い方だったので、ハッとする。そうだ、今日は自分の家に帰ることを言わなければ…、そう思い俺は鈴木の方を見て口を開いた。
「あの、鈴木さん…」
「今日、出掛けるから。」
「え…、は?」
俺の言葉を遮り、携帯電話をポケットからとりだすと鈴木は電話をかけはじめた。俺はそれを静かにみていることしかできなかった。
出掛けるって、俺と一緒になのか?何処へ?
疑問符が頭の上をとぶ。
唐突に、いや、まるで俺が『帰る』と言うのを止めるために言ったのではないかと思う。出掛けると言った男は目の前の俺のことなんかお構いなしのようで、電話越しの相手と親しげに会話をしている。
「あ、今から空いてる?……じゃあ今から行くわ。…うん、大丈夫。悪いな、じゃあな。」
電話を切ったので改めてさっき言いかけたことを言おうとしたが、そそくさと自室に行ってしまった。俺は「今日は家に帰る」と言うタイミングをつかめない。
しばらくして部屋からでてきた鈴木は片手にポロシャツとジーパン、ベルトを持っていた。
「これ、俺のだけど着て?さすがにスーツはなぁ。」
俺が寝ていたソファに無造作にかけてあるスーツを見て言う。
話が勝手に進みよくわからないが、やはり俺も鈴木と一緒に出掛けるらしい。
俺は結局家に帰るとも言えず、その服を受け取ってしまった。
◆◆◆
「はい、じゃあここにお名前と住所お書きください。下の質問にお答えください。」
俺は言われたままその紙に記入をし、受付の女の人に渡す。
俺は病院にきていた。ここ何年かまったくお世話になってなかったので妙に緊張している。
鈴木と一緒にきたこの病院は精神科で、どうやら鈴木はこの病院に知り合いの医者がいるようだった。俺が受け付けをしているとき、鈴木は医者と何か話していたが今は俺の隣で漫画雑誌を熱心に読んでいる。
俺は名前を呼ばれるまで今後のことについて考えていた。
自分の名前が呼ばれ、診察室に入る。診察室で待っていた優しそうな医者は桂木と名乗った。早速診察が始まったが、診察内容はただ質問に答えるだけだった。
問診の内容は昨日鈴木にされた質問と似たようなものだった。
「鬱病、ですね。」
「うつ、病…?」
鬱病という言葉は聞いたことはあったが、まさか自分がそのような病気だとは思いもつかなかった。確かに精神的に追い込まれてるという自覚はあったものの、それは自分が単にストレスをためやすい性分なのだと思っていて、病気だとは思わなかった。
桂木先生は診断書らしき紙にカリカリと書いていく。書き終わると俺の方を向き、ゆっくりと口を開いた。
「今あなたには休みが必要です。人生に何回かある休憩時間と思ってください。」
自分が病気だというのが信じられなくて、桂木先生が病気について話してくれてるのにあまり聞いていなかった。ただ「はい。」とだけ返事をしていた。
「…お仕事のことですが…。今お仕事はどんな状況ですか?」
「…昨日、辞表をだしました…。でも、まだ正式には退職したということにはなっていないと、思います…。」
「そうですか…。とりあえず、休職をお勧めします。上司の方に相談してみてください。診断書お渡ししますね。」
仕事の話がでてきて、急に息苦しく感じた。
休職…、考えてもみなかった。たしかに、これから仕事を探すのは困難だと思う。でも、あの会社に俺は戻れるのだろうか、いや、戻りたいのだろうか。
「で、ここからは私事ですが…。テツから聞きました。」
まさか、鈴木は俺のことをヒモと言ったのだろうかとヒヤヒヤしたが、桂木先生の口からはヒモという単語はでてこなかった。
「平岡さんはテツの友人でしたっけ?…あれを頼ってもいいかと思います。まぁ、ちょっと強引で変わったやつなんで扱いにくいかもしれませんが。鬱病には理解があるやつだから。…まだこの世の中、鬱病は理解されにくい病気なんです。」
とりあえず休憩しましょう、と桂木先生は最後に優しく言った。
抗鬱剤と睡眠薬を処方してもらい、俺たちは病院をあとにした。
隣で鼻歌混じりで運転する鈴木は俺の病名をわかっていたのだろう。俺の診察結果を聞いてこなかった。
「あー腹減ったー。なんか食べる?あんま重いものは無理だよな。」
俺は鈴木の横顔をじっとみる。
この人はなんでこんなに俺を気にかけるんだ。
他人にまで迷惑かけていいのだろうか、いや、いいわけがないだろう。
窓の外から見える急いで横断歩道を渡るサラリーマンの姿をみると今の自分は働きもせず何をしているんだろう、情けないと思ってしまう。
仕事を途中でほったらかし、死のうとして、結局死ななくて、生きている。人に迷惑かけて、そんなの要らない人間じゃないか。
仕事を投げ出す勇気はあっても死ぬ勇気はないんだな、俺って。
どんどん暗い気持ちになっていってしまう。
もう、何も考えたくない。
やっぱり死ねばよかったと、また思う。でもきっと死ぬ勇気なんてないと、また思う。堂々巡りの思考が嫌になる。
俺はこんなにもダメな弱い人間だったのか?
ーー病気なんだから仕方ないじゃないか。
病気?俺は本当に病気なのか?
そう自問自答したがただの怠け者のようにしか思えなかった。
「譲?大丈夫か?」
自分の名前を呼ばれてハッとする。
心配そうに覗き込む鈴木に、何故か申し訳ない気持ちでいっぱいになった。




