表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

助手席に座るあなたへ

掲載日:2026/07/25

何人たりとも、西日から逃げることはできません。


それは天から降り注ぐ、暴力的なまでに鋭い鉄釘なのですから。


今、私は国道を西に向かって走っています。フロントガラス越しに突き刺さる光は、車のバイザーをいくら下げても、去年のボーナスで無理をして買ったハイブランドのサングラスをかけても、私の網膜を容赦なく焼き続けています。視界というキャンバスが、無慈悲な白に塗り潰されていく。専門用語では「眩惑げんわく」と言うそうですね。強烈な光によって、一時的に視機能を喪失する現象。


けれど私にとって、それはもっと別の……そう、忌まわしい「記憶の蓋」が開く合図なのです。


少し、話をしてもいいですか?

ハンドルを握る私の手が、まるで痙攣するように震えているのは、なにも光の強さのせいだけではないことを、あなたなら分かってくれるかもしれないから。……いえ、黙って聞いていただくだけでいいんです。この、白く塗り潰された世界の中で、誰かにこの「重荷」を預けないと、私はアクセルを踏み抜いてしまいそうなのです。


あれは、ちょうど一年前の今日でした。

やはり今日と同じような、梅雨が唐突に明け、アスファルトから立ち上る熱気が視界を歪ませるほどの猛暑の中でした。私は十年来連れ添った古いセダンを走らせ、妻の待つ家へと急いでいました。


いえ、「急いでいた」というのは、見栄を張った嘘ですね。本当は、一刻も早く逃げ出したかった。帰りたくなんてなかったんです。


当時の私は、仕事で取り返しのつかないミスを犯し、上司からは執拗な叱責を受け、部下からは軽蔑の眼差しを向けられていました。家庭に帰れば、そこには冷え切った空気が待っている。妻の紗代子とは、もう数ヶ月まともな会話もしていませんでした。彼女の視線は、いつも私を通り越して、背後の壁か、あるいはもっと遠い「ここではないどこか」を見ているようでした。


車内には、彼女が数日前に置き忘れた、あの鼻をつくほど甘ったるい、流行りの香水の匂いが染み付いていました。ムスクとサンダルウッドを混ぜ合わせたような、重苦しい残香。それがどうしようもなく鼻について……私は耐えきれず、窓を全開にしていました。熱風が入り込み、私の汗と香水の匂いが混ざり合って、吐き気がしたのを覚えています。


バイパスを抜け、街外れの直線道路に入った瞬間です。 太陽が、地平線すれすれの高さまで降りてきました。真正面。逃げ場のない光の暴力。


視界が、爆発したような白に包まれました。


道路の白線も、前の車のブレーキランプも、道端の街灯も、すべてが光の渦に溶けて消えた。私は目を細め、左手で顔を覆いましたが、光は指の隙間を縫って脳を直接突き刺してくる。まるで、私の脳の奥底に隠した汚い泥を、すべて暴き立てようとするかのように。


その時でした。 「ドン」という、重く、鈍い衝撃が、足元から伝わってきたのは。


心臓が喉のあたりまで跳ね上がりました。慌ててブレーキを踏みましたが、アスファルトを擦るタイヤの悲鳴さえ、光の中に吸い込まれていくようでした。

私は、何かを撥ねた。あるいは、何かにぶつかった。 そう直感しました。


車を路肩に止め、震える足で外に出ました。膝の力が抜け、崩れ落ちそうになるのを、ドアを掴んで必死に堪えた。振り返っても、そこには何もありません。

ただ、強烈な西日が道路を不気味な、どす黒いオレンジ色に染め上げているだけです。あまりの眩しさに、アスファルトの表面が陽炎のように揺れて、数メートル先さえ定かではない。


私は必死に目を凝らしました。すると、光の残像――。

あまりに強い光を見た後に残る、あの黒い点のようなものが、視界の中で狂ったように踊り始めたのです。「補色現象」というやつですね。白すぎる光を見た後に残る、実体のない影。

しかし、その影が、私にはどうしても「人の形」に見えたのです。


道路の真ん中に、誰かが立っている。 いや、不自然な角度で倒れているのか。

私は駆け寄ろうとしました。しかし、一歩踏み出すたびに西日がさらに強まり、その「影」は光の中に掻き消えてしまう。

「誰か……誰かいるんですか! 誰なんだ!」 叫びましたが、返事はありません。聞こえるのは風の音と、遠くを走る車の走行音だけ。


数分間、私はその場所を狂ったように探し回りました。しかし、道路には血痕も、衣服の破片も、靴の一片すら落ちていない。車に戻ってバンパーを確認しましたが、傷一つ、凹み一つついていない。

「気のせいだ。眩惑が見せた、ただの幻覚なんだ」

私は何度も自分に言い聞かせました。仕事のストレスと寝不足、それにこの狂おしいほどの西日が、私にありもしない衝撃を感じさせたのだと。そう結論づけると、私は逃げるように車に戻り、アクセルを踏み込みました。


ですが、その日からです。 私の視界に、あの日と同じ「白」が居座り続けるようになったのは。


家に帰ると、紗代子がいませんでした。

書き置きも、電話の着信もなしに。彼女は以前から、私との喧嘩の後に黙って実家に帰ることがあったので、その時も私は「またか」と思っただけでした。せいぜい一週間もすれば、不機嫌な顔をして戻ってくるだろうと。

しかし、一週間経っても、二週間経っても、一ヶ月経っても、彼女は戻らなかった。

不審に思った義理の両親から連絡があり、警察に捜索願いを出しました。警察は家の中を念入りに調べましたが、争った形跡もなければ、金目のものが持ち出された様子もない。遺書もない。結局、自発的な失踪として処理されました。


でもね、私は知っているんです。 彼女は、あの光の中にいる。 あの日、あの直線道路で、彼女は私の前に立っていた。あるいは、もっと別の形で。


それ以来、私は西日を浴びるたびに、彼女に「再会」するようになりました。 最初は、仕事帰りの運転中、バックミラーの中でした。

眩しくて後ろがよく見えない時、鏡の中の真っ白な空間に、ひょっこりと現れるんです。まるで後部座席に座って、私の後頭部をじっと見つめているかのように。

驚いて振り返ると、そこには誰もいない。ただ、夕日の熱で暖められたシートの合皮が、かすかな匂いを放っているだけ。


次は、自宅の窓際でした。

夕暮れ時、カーテンを閉め忘れると、西日がリビングの隅々を執拗に照らし出します。強烈なコントラストの中で、家具の影が長く、不自然に伸びる。

その影の中に、彼女の指が見えるんです。 細くて、いつも丁寧に手入れされていた、少し爪の長い彼女特有の手が、影の中から這い出して私の足首を掴もうとする。

慌てて電気をつけると、人工的な光とともに彼女は霧散してしまう。でも、私の足首には、氷のような冷たさがいつまでも残っているんです。


私は考え始めました。 あの日、あの直線道路で、私は本当に「何も」撥ねなかったのだろうか?

西日で見えなかったのは、道路に飛び出した誰かではなく、実は、最初から車の中にいた「何か」だったのではないか。


実はね、あの日、あの瞬間の記憶には、もう一つ、どうしても思い出せない断片があるんです。

光に包まれる直前、私は助手席に座っていた彼女と、激しい口論をしていたような気がする。

彼女が私の仕事の失敗をなじり、情けない男だと笑い、私は逆上して彼女の細い首に手をかけ……。 いや、違う。それは絶対に夢だ。脳が作り出した、悪質な空想に過ぎない。

だって、あの時、私は一人で運転していたはずですから。

近所の人が、家を出る私を見たと言っていた。助手席には誰もいなかったと。警察の調べた防犯カメラの映像でも、運転していたのは私一人だった。


なのに、どうしてでしょうね。 私の車の助手席のバイザーは、あの日からずっと「下がったまま」なんです。

私が触れた覚えはない。何度元に戻しても、次に車に乗り込むと、まるでそこに誰かが座っていて、眩しさを嫌って下げたみたいに、ひっそりと傾いている。

そして、あの甘ったるい香水の匂いが、どれほど消臭剤を撒いても、どれほど換気をしても、西日が差す瞬間にだけ、濃密に立ち上ってくるんです。まるで、彼女の体温がそこに残っているかのように。


……おや、また光が強くなってきましたね。 ご覧ください。前の車のリアガラスが鏡のように光を反射して、世界を焼き尽くそうとしています。 あ、あそこに。

見えますか? 光の渦の中に、誰かいます。


道路の真ん中に、白いワンピースを着た女が立っている。 逆光のせいで、顔は真っ黒に塗り潰されて見えません。でも、分かります。あれは紗代子だ。

彼女は、じっとこちらを見ている。動かずに。手に、何かを持っていますね。

あれは……私が去年の彼女の誕生日に贈った、あの香水の瓶でしょうか。中身はもう空のはずなのに、光を反射してプロポーズの時にあげた指輪に付いているダイヤモンドのように輝いている。


彼女が、ゆっくりと手を挙げました。 手招きをしている。「こっちへおいで」と言っている。 光の向こう側へ。

影も、形も、罪も、そしてあの重苦しい記憶も、すべてが白く溶けて、無に帰る場所へ。


不思議ですね。 一年前はあんなに恐ろしかった光が、今はとても心地よく感じられる。

網膜が焼ける痛みも、もう感じない。むしろ、視界の端から、忌まわしい現実の色彩が剥がれ落ちていくのが心地いい。

赤、青、緑。この世を構成する瑣末な色がすべて混ざり合って、究極の「白」になる。 それは救済の色だ。


「眩惑」というのは、真実を隠すためのものではないのかもしれません。

むしろ、直視したくない醜い現実――自分の手が犯した過ちや、愛していたはずの人を憎んだ記憶――から目を逸らすために、神様が与えてくれた慈悲のカーテンなんですよ。

そのカーテンを開けた先に、何があるのか。 私は今、それを確かめに行こうとしています。


ハンドルを握る力が抜けていく。 指先が、光の中に溶けていくのが分かります。 アクセルを踏む足は、もう自分の意思ではなく、彼女の招きに従って動いている。

車の警告音が、どこか遠くで鳴っていますね。車線を逸脱している? 正面衝突の危険?

そんなことは、もうどうでもいいんです。この騒々しい世界から、やっと解放される。


だって、見てください。 彼女が、すぐそこに。 フロントガラスを突き抜けて、光そのものになって、私を迎えに来てくれた。

助手席のバイザーを押し上げ、彼女が私に微笑みかけている。

「お帰りなさい」という声が、エンジン音の中に聞こえる。


眩しい。ああ、なんて眩しいんだ。


これでやっと、私は彼女と同じ「影」になれる。

もう、ハイブランドのサングラスはいりません。瞳が焼き切れても構わない。私は目を見開いたまま、この白光の檻の中へ、彼女の腕の中へ飛び込みます。


さようなら。 あなたも、西日には気をつけてくださいね。


あまりに強い光は、時として、あなたの隣にいる「見えてはいけないもの」を、浮かび上がらせてしまう。

あるいは、あなたが心の奥底に封印した「本当のあなた」を、白日の下に晒してしまうから。


ほら、あなたのバックミラーにも、今、誰かが映りませんでしたか……?


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ