■第4話「前日」
学園の空気は、目に見えないまま確実に変わっていた。
きっかけは一つ。
ガルスの指名。
それだけだった。
⸻
「明日だな」
朝の教室。
グレンが机に突っ伏しながら言った。
「何がだ」
「何がじゃねえよ……」
顔を上げ、じっとカイルを見る。
「ガルス戦だよ」
「ああ」
短い返事。
「お前ほんと緊張とかねえのか?」
「特にない」
「なんでだよ」
「別に大したことじゃない」
「大したことだよ!」
声が大きくなって、周囲の何人かが振り向く。
すぐに小さくなった。
「……大したことだろ」
もう一度、今度は低く言う。
「相手は二年上位だぞ。しかもランキング戦だぞ」
「そうだな」
「“そうだな”で済ませるなよ……」
グレンは頭を抱えた。
隣ではセラが楽しそうに机に肘をついている。
「いいじゃんいいじゃん」
「何がだよ」
「こういうの、分かりやすくて」
「何が分かりやすいんだよ」
「流れ」
セラはにやりと笑う。
「最低ランクが、上位に指名される」
「それだけ聞くとただのいじめだな」
「普通はな」
セラはカイルを見る。
「でも今回は違う」
その目が細くなる。
「どっちが“普通じゃないか”分かるから」
グレンがため息をついた。
「……お前らだけだよ楽しんでんの」
「お前も楽しめばいいのに」
「無理だ」
即答だった。
教室のあちこちで、似たような話題が交わされている。
「ガルスが指名したらしいぞ」
「相手、あの最低ランクだろ?」
「でも昨日の話聞いたか?」
「意味分からん勝ち方したってやつ?」
興味と疑念。
そして、ほんの少しの期待。
その全部が混ざっている。
カイルはそれを聞き流しながら、窓の外を見た。
(……変わったな)
去年とは明らかに違う。
あの頃は、ここまで話題になることはなかった。
“変なやつ”で終わっていた。
だが今は違う。
“分からないやつ”になっている。
それがどういう意味を持つのかは、まだはっきりしない。
⸻
昼休み。
訓練場の端。
カイルは一人で立っていた。
軽く体を動かすつもりだったが、人が多すぎてやめた。
(……落ち着かないな)
いつもより視線が多い。
明日のことを考えれば当然だが、それでも面倒だった。
「やっぱここにいた」
後ろから声。
振り返る。
ナナだった。
一人でいるのは珍しい。
「どうした」
「少し、いい?」
「構わない」
ナナはカイルの正面に立つ。
じっと見てくる。
視線がまっすぐで、逃げ場がない。
「明日、戦うんだよね」
「そうなる」
「勝てる?」
単純な問い。
だが、意図はそれだけじゃない。
カイルは少しだけ考えた。
「分からない」
正直に答える。
ナナの眉がわずかに動く。
「分からない?」
「やってみないと分からない」
それが本音だった。
勝つか負けるかではない。
“どうなるか”が分からない。
「……そう」
ナナはそれ以上深くは聞かなかった。
だが、次の言葉は少しだけ違った。
「昨日の動き」
「何だ」
「思い出そうとした」
「思い出す?」
「どうやってやってたのか」
カイルは黙る。
ナナは続ける。
「でも、再現できなかった」
当たり前だと思った。
「そもそも、どう動いてるのかが分からない」
それも当たり前だと思った。
「だから、考えた」
ナナは少しだけ視線を下げる。
「動いてないのかもしれないって」
沈黙。
風が吹く。
わずかに砂が舞う。
カイルは何も言わない。
ナナは顔を上げた。
「違う?」
問い。
だが、その中に答えは含まれている。
「……さあな」
カイルは肩をすくめた。
「意識してないから分からない」
ナナはしばらく黙っていた。
そして。
「……やっぱり分からない」
そう言って、小さく息を吐いた。
「でも」
少しだけ間を置く。
「怖いとは思わない」
「そうか」
「うん」
ナナは頷く。
「ただ、気になる」
それだけ言って、去っていった。
足音が静かに遠ざかる。
(……気になる、か)
理解されない。
だが、拒絶もされていない。
その距離が、少しだけ不思議だった。
⸻
その日の放課後。
訓練場の空気は、昨日よりもさらに張り詰めていた。
明日が本番。
それを全員が理解している。
中央では、ガルスが一人で軽く体を動かしていた。
無駄のない動き。
重さと速さが両立している。
「……やっぱり強いな」
グレンが小さく呟く。
「見ただけで分かる」
「そうか」
「分かんねえのかよ!」
思わず声が出たらしい。
慌てて口を押さえる。
「いや、分かるけどな……」
言い直す。
「お前の“分かる”とは違う」
「どう違うんだよ」
「説明できない」
「そればっかだな」
ため息。
セラはその様子を見ながら笑っている。
「いいね、バランスいいよ」
「何がだ」
「片方は全部分かる気でいる、片方は何も分からないって顔してる」
「お前はどっちだよ」
「両方」
即答だった。
「分かるし、分かんない」
意味が分からない。
だが、セラはそれ以上説明しなかった。
ガルスが動きを止める。
こちらを見る。
視線が合う。
逃げない。
逸らさない。
ただ、見てくる。
カイルもそのまま見返した。
数秒。
それだけで十分だった。
ガルスは、わずかに口元を歪めた。
「明日だ」
それだけ言う。
「ああ」
短く返す。
「逃げるなよ」
「逃げない」
やり取りは、それで終わった。
だが、周囲の空気は一段と重くなる。
「……マジでやる気だぞ、あれ」
グレンが呟く。
「そりゃそうだろ」
「お前もな!」
「どうだろうな」
カイルは空を見上げた。
夕日が沈みかけている。
長い影が伸びる。
明日。
確実に戦うことになる。
理由は分からない。
仕組みも説明できない。
だが。
(……まあ、いいか)
小さく息を吐く。
どうなるかは、やってみれば分かる。
それだけだった。
⸻
そして。
翌日。
ランキング戦当日。
訓練場には、普段の倍以上の人が集まっていた。
観戦席も、立ち見も、ほとんど埋まっている。
「……やばいな」
グレンが引きつった声で言う。
「人、多すぎるだろ」
「だな」
「だな、じゃねえよ……」
セラは完全に上機嫌だった。
「いいねいいね、盛り上がってる」
「お前だけだよ楽しんでるのは……」
中央では、すでに試合がいくつか終わっている。
だが、誰もが次を待っていた。
「次の試合」
ディアスの声が響く。
空気が一瞬で静まる。
「ガルス」
ざわり。
視線が集まる。
「対戦相手」
わずかな間。
全員が分かっている。
それでも、言葉を待つ。
「カイル」
名前が呼ばれた。
完全な静寂。
そして。
視線が、集中する。
逃げ場はない。
カイルはゆっくりと前に出た。
その足取りは、いつも通りだった。
変わらない。
何も変わらない。
ただ。
周囲だけが、大きく変わっていた。




