■第36話「崩れ始める均衡」
静けさは、唐突に訪れた。
三勢力が去ったあと、街は元に戻ったように見えた。人の流れも戻り、店の灯りもいつも通りに灯っている。だが、そのすべてがどこか不自然だった。
表面だけが整えられている。
その下で、何かが軋み始めている。
カイルたちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
誰もすぐには動かなかった。
グレンがようやく口を開く。
「……なあ」
声は小さかった。
「さっきの、マジで全部断ったんだよな」
「そうだ」
カイルはあっさり答える。
「いや、そうじゃなくて」
グレンは言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「普通、あれってどれか選ぶ流れじゃないのか?」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
思わず声が大きくなる。
周囲の何人かが振り返るが、すぐに視線を逸らす。
関わりたくない。
その意思がはっきりと伝わる。
グレンはそれを見て、さらに顔をしかめた。
「……ほら、見ろよ」
「完全に避けられてるじゃねえか」
セラはその様子を見て、くすっと笑った。
「いいね」
「どこがだよ」
「分かりやすい」
「何がだ」
「変化」
その言葉は軽かったが、意味は重い。
ナナが静かに言う。
「均衡が崩れた」
短い言葉。
だが、核心だった。
レイヴンが腕を組む。
「まあ、そうなるな」
落ち着いた声だった。
「今まではな、あいつらも様子見だった」
「どこまでか、どれくらいか、探ってただけだ」
「でも」
少しだけ間を置く。
「もう違う」
グレンが顔を上げる。
「何が違うんだよ」
「決まったんだよ」
レイヴンは言う。
「お前らが、どこにもつかないってな」
それはつまり。
「全部が“取りに来る側”になる」
空気が一段重くなる。
グレンが乾いた笑いを漏らす。
「……最悪じゃねえか」
「そうだな」
レイヴンは否定しない。
むしろ、当然だと言わんばかりだ。
カイルは少しだけ考える。
選ぶ。
選ばない。
どちらでも、結果は変わらない。
(……面倒だな)
単純な感想だった。
だが、それで終わる話ではない。
ナナがゆっくりと視線を上げる。
「来る」
その言葉に、全員が反応した。
だが、今回は違う。
目に見える形ではない。
気配もない。
それでも分かる。
空気が、変わっている。
「……どこだ」
グレンが小さく言う。
「見えねえぞ」
「見えない」
ナナは答える。
「でもいる」
その時だった。
通りの向こう。
人混みの中に、ほんの一瞬だけ“違和感”が走る。
誰かが動いたわけではない。
だが、流れがズレる。
ほんのわずか。
それだけ。
だが、確実に。
レイヴンの目が鋭くなる。
「……始まったな」
低く呟く。
「何がだよ」
グレンが聞く。
「接触だ」
短い答え。
「まだ戦いじゃねえ」
「でも」
一瞬、言葉を選ぶ。
「もう止まらねえ」
その言葉の直後。
空気が“裂けた”。
音ではない。
だが、感覚としてそれに近い。
次の瞬間。
カイルの横を、何かが通り抜けた。
速い。
だが、見えない。
「……っ!」
グレンが反応するより早く。
カイルの手が動く。
何もない空間に、触れる。
その瞬間。
影のようなものが、わずかに形を持った。
人だった。
黒装束。
裏の人間。
「……見えてるのね」
低い声。
驚きではない。
確認だ。
カイルは何も言わない。
ただ、その手を離す。
影はすぐに距離を取る。
だが、完全には消えない。
存在を示すように、あえて残っている。
「おい……今の何だよ」
グレンが震える声で言う。
「裏だ」
レイヴンが答える。
「様子見に来やがった」
セラは楽しそうに笑う。
「いいね」
「よくねえって!」
ナナは静かに周囲を見る。
「一つじゃない」
その言葉通りだった。
別の方向でも、同じようなズレが起きる。
さらにもう一つ。
視線。
圧。
気配。
すべてが増えていく。
王国。
裏。
ギルド。
それぞれが、距離を測っている。
「……これ」
グレンが言う。
「いつ爆発するんだよ」
誰も答えない。
だが、全員が分かっている。
もう時間の問題だ。
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
周囲を見渡す。
見えるもの。
見えないもの。
すべてが、こちらを見ている。
(……なるほど)
ここからは。
選ばないという選択が、意味を持つ。
だが。
それでも。
「来るなら来ればいい」
小さく呟く。
グレンが顔を引きつらせる。
「いや、それ毎回言うけどさ……」
レイヴンが笑う。
「まあ、間違ってはねえな」
セラは満足そうに笑う。
「いいね」
ナナが静かに言う。
「始まった」
「だから何がだよ」
「全部」
その言葉で、空気が変わる。
街は、もう元には戻らない。
均衡は崩れた。
そして。
次に来るのは。
衝突だ。




