第六話◇ 幸福ホルモンは、貴方の声から分泌されます。〜伊集院桜子視点
◇◇伊集院桜子視点
「お嬢様、お帰りなさいませ。
――お話があります。」
あれから二日後。
午後十八時。
部活を終えて学園から帰宅した時のことです。
我が家で三十年以上家政婦として勤めて下っている山内さんに『ご両親がお帰りになる前に内密に』と呼び出されました。
「…何かございましたか?」
すると、山内さんは息を少し吐いてから切り出しました。
「――実は本日、財前慶一郎様がお見えになりました。」
その言葉に胸が“どくん”と跳ねました。
「――まあ!!!」
思わず鞄を落としてしまいました。けれど、こんな事六年前にご挨拶してから初めてのことでした。
「慶一郎様はお嬢様をとてもご心配されていたようです。それに、手土産の和菓子も差し入れして下さいました。」
その言葉に胸がジワジワと熱くなって泣きそうになってしまいます。
「っ、まあ、そうでしたの。」
(なんて律儀で思いやり深い方なのでしょうっ。)
感動で胸がいっぱいになっていると、山内さんが頷きます。
「源吉兆庵のお菓子だそうです。
練り羊羹の中に求肥が入っているのだとか。
“糖分は幸福ホルモンであるドーパミンとセロトニンが分泌される”と仰っておられました。」
机の上には美しい紙袋が置かれておりました。
(慶一郎様…!!素敵!!)
「……教えて下さってありがとうございます。」
「本当はお会いさせて差しあげたかったのですが…。奥様にお約束しているものでしたから。
『婚約の儀』まではお二人を会わせてはいけない、と。
――慶一郎様はとても素敵な好青年になっておられましたよ。」
山内さんが何気なく付け加えた一言に、心臓がバクバクと暴れ出します。
(―― ああっ、お会いしたかったわ。)
「――っ、ごめんなさい!どうしてもっ!
どうしても一言だけでもお礼の電話を差し上げたいのです!
どうか慶一郎様のご連絡先を教えて頂けませんか?」
すると、山内さんが溜息を吐きます。
「……仕方ありませんね。
ですが、短い時間にして下さい。
――本来であれば文通だけ、ということでしたので。」
山内さんから電話番号をそっと渡されました。
私はそれを震える指先で受け取り、そっと宝物のように両手で胸に抱きます。
「っ、行って参ります。」
◇◇
プルルルル……プルルルル……
私は緊張でドキドキしながら電話をかけます。スマートフォンを握る手が震えそうになってしまいます。
『…はい。財前です。』
――すると、低く穏やかな男性の声が私の鼓膜を震わせました。胸が甘く、ぎゅうっと痛い程に締め付けられます。
「――っ!!」
(……慶一郎様!!ああ、声変わりもされて、すっかり大人の男性になられて…!)
「……あ、あの…わたくしっ、」
(ど、どうしましょう、感極まりすぎて言葉が出てきません……)
すると、スマートフォンの向こう側で慶一郎様が息を呑む音が聞こえました。
『……もしかして桜子さんですか?!』
切羽詰まったような声に身体中が沸騰しそうになります。
「――っ!は、はいっ、桜子ですっ。
っ……すみません……どうしても…!!どうしても慶一郎様にお礼が言いたくて…。
――ご迷惑でしたでしょうか。」
すると、一瞬の沈黙の後に低くて心地良い声が耳元で囁きます。
『……っ迷惑な筈がないです。
――桜子さんの声を聞けて、僕の方が……嬉しい。』
「――っ!!」
その瞬間、身体の体温が一気に跳ね上がります。
私だけではなくスマートフォンの向こうで慶一郎様も息が詰まるほど緊張しているのが、伝わってきました、
「……っ慶一郎様、お会いしたかったです…。」
『…僕も。っ、僕も桜子さんにお会いしたかったっ、』
その言葉になんだか泣きそうになってしまいます。
「あの!! 来てくださって嬉しかったですっ!」
『……そんな、僕の方こそ突然お邪魔してしまって…。』
一瞬静寂が満ちた後私は意を決して伝えます。
「あのっ、そのっ!!この前お送りした御手紙のことなのですが!!」
『…桜子さん…。』
彼が受話器の向こう側で生唾を飲んだのが分かりました。
――その時です。
「お嬢様っ!そろそろ奥様がお戻りになられるそうです。」
「っ!!も、申し訳御座いません。我儘を言ってしまいまして…!それじゃあ切りますね!」
受話器を置こうとした瞬間、耳元に切羽詰まったような声が響きました。
『――ちょっと待って下さいっ。』
「え?」
『……僕も、貴女と同じ気持ちです。』
――その瞬間、胸の中に歓喜が押し寄せてきて思わず呆然としてしまいます。
「お嬢様っ!」
すると、焦ったような山内さんの声が聞こえてハッと我に返りました。
「っ……ぁ、ありがとう、ございます…。では、また…。」
『…っはい、お引き止めして申し訳ありません。
切りますね。』
ツー、ツー、ツー。
(……慶一郎様も、私と同じ気持ち……?)
胸の奥で、理性の形をした氷が音を立てて融けていきます。
私は顔を真っ赤にしてその場にへたり込んでしまいました。
『…僕も。っ、僕も桜子さんにお会いしたかったっ、』
「――っ!」
彼の言葉が頭の中で響いて離れません。
(――ああ、なんて私は欲深い人間なのでしょう。声をお聞き出来ただけで大進歩なのに。
電話をかける前よりも、さらに慶一郎様に会いたくなってしまったわ。)
私は火照る頰を誤魔化しながら両親と一緒に食事の席に着いたのでした。
食後に頂いた慶一郎様が下さったお菓子はとてもとても美味しくて。
(ああ、甘いもので幸福ホルモンが分泌されるというのは本当なのね。)
私はとても幸せな気持ちでその日、眠りついたのでした。
◇◇
――夢の中では、青年になった慶一郎様と私が、美しい紫陽花の咲き乱れる庭園で手を繋いで歩いています。
恋人同士のように指を一本一本絡み合わせて、時々スリッと慶一郎様の熱い指先が私の手の甲を撫でます。
「っぁ…。」
――繋いだ手が熱い。
手を繋いでいるだけなのにまるで愛撫されているようなその動きに、思わず甘い吐息が漏れてしまいそうになります。
「慶一郎様…。」
私が上目遣いで見上げると、大人になった彼が私を優しい眼差しで見つめておりました。
「どうしましたか?桜子さん。」
「…桜子は、貴方をお慕いしています。ずっと、ずっとお会いしたかったです。」
私がそう言うと、慶一郎様が口元を綻ばせました。
「――ええ。僕も。
僕も貴女と同じ気持ちです。」
幸せ過ぎて、ふわふわする頭でそっと彼の胸に縋り付きます。
すると、慶一郎様が私をギュッと抱き締めて下さいました。
「…これが夢じゃなかったら良かったのに。」
――切なそうに歪める顔はどこか妖艶で、とても苦しそうで。
「――私もそう思います。」
私は泣きながら彼の背中にそっと腕を回すのでした。
◇◇
――目が覚めると、頬に涙が伝っておりました。
私は机の上の写真立ての中の慶一郎様の笑顔に、スーッと指を這わせます。
そして、そっと和歌を呟きました。
「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」
古今和歌集に収録された小野小町が詠んだ句です。
(…私は夢だってわかっていたわ。だって、慶一郎様と私が今お会い出来る訳がないもの。
――それでも。
それでも夢から覚めたくなかった。)
夢で繋いでいた大きくてゴツゴツした温かい手を思い出しながら、私は『ふぅーっ』と深呼吸をします。
恋しい気持ちはどんどん膨らんでいきます。
(慶一郎様、早く現実で貴方にお会いしたいです。)
あと数ヶ月で本当に現実でもお会い出来るのは、頭の中では理解しているのです。
それなのに、それが凄く凄く遠い道のりに、私には思えてしまったのでした。




