第十五話◇首筋に落ちた恋の証〜財前慶一郎視点
◇◇財前慶一郎視点
――『婚約の儀』で一ヶ月ぶりに会う着物姿の桜子さんは信じられない程美しかった。
(っ桜子さん……!可愛すぎて破壊力が物理法則を逸脱してるんだが?!)
思わず思考が停止し、『オイラーの等式』で例えるという愚行を犯してしまった。
だが、あれはもう言葉を探そうとしても無理だった。彼女の存在そのものが、美と調和の極限値に達していたからである。
親族同士が向かい合う場で、僕は表向き冷静に見えていたかもしれない――けれど、本当はずっと、手が震えていた。
緊張しているのに、桜子さんに触れたくて触れたくて仕方がなかった。
――すると、雅臣様がまさかの神采配をして下さった。
(二人きりになる時間を……与えてくださるなんて)
胸の奥で理性が小さく悲鳴を上げていた。
「…こちらが私の部屋ですわ。」
そして、二人きりで部屋に入ったその瞬間、限界に達した。
「…桜子さん、僕の方を向いて。」
入念にドアを閉め、彼女を後ろから抱き締めると喉の奥から勝手に言葉が溢れた。
「――やっと。
やっと、捕まえました。
桜子さん、凄く…、凄く会いたかったです。」
その瞬間、桜子さんが泣きそうに眉尻を下げた。
「っ、私、私もお会いしたかったです、一ヶ月お会いできなくて寂しかった…!!」
(……桜子さん……)
胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ち、僕はもう二度と、彼女を離したくないと思ってしまった。
「お誕生日、おめでとう御座います。
…これを桜子さんにお渡ししたくて。」
僕はそっと一つ目のプレゼントを桜子さんに渡す。
すると、彼女は驚いたように目を見開いた後、震える指でケースを開いた。
「…なんて素敵なんでしょう…。もしかしてこれは、婚約指輪ですか?」
――そう。一週間程前、母と兄さんと一緒に買いに行ったハリー・ウィンストンの婚約指輪だった。
指輪のサイズは母が伊集院家に確認を取ってくれたらしい。
「ええ。今日お渡しするためにご用意したのです。
桜子さんに似合いそうなものを選ばせて頂きました。」
キラキラと輝くダイヤモンドがまさに彼女の美しさに相応しい。
すると、彼女の頰に涙が伝った。
「…嬉しいっ、すっごく嬉しいです。」
その言葉に胸が痛いくらいに締め付けられる。
「…ようやく貴女に婚約指輪をお渡し出来て良かったです。でも、これはどちらかと言うと家族で用意したものなので。
――これが、僕個人からのプレゼントです。
あまり高価なものではなくて、申し訳ないのですが。」
そう言って僕は桜のモチーフのピンクゴールドのネックレスを渡した。
すると桜子さんは嬉しそうに口元を覆った。
「…まあ、凄く可愛いです。私の名前に因んだものを選んでくださったのですね?!」
「…ええ。今、僕が貴女につけさせて頂いてもいいですか?」
すると桜子さんの顔がジワジワと赤くなる。
「…ええ、お願いします。」
僕は緊張しながら彼女の首にそっとネックレスをつける。
細い首と、いつもは長い髪で隠れている剥き出しのうなじがやけに色っぽくて、思わず生唾を飲み込む。
「…出来ました。」
僕の言葉に桜子さんは嬉しそうに鏡を覗き込むととても美しく笑った。
「――まあ。素敵ですわ。なんだか慶一郎様がいつも一緒にいて下さるみたいで嬉しいです。」
――その瞬間、僕は再度後ろから強く彼女のことを抱きしめていた。
「……桜子さん。
本当は……今すぐキスをしたいです。
けれど、口紅が取れてしまったら……皆さんに気づかれてしまいますね。」
掠れた声で呟くと、桜子さんがびくりと肩を震わせ、潤んだ瞳でこちらを見る。
「っ、…はい…。」
「…けれどここなら、誰にも分かりません。」
首筋にそっと唇を落とす。
「っぁ、」
最初は触れるだけ。
次の瞬間、ほんの少しだけ吸うように深く。
桜子さんの白い喉が、震える。
「……っ…慶一郎様…」
耳元で上擦ったひどく艶やかな声が落ちるたび、僕は呼吸が荒くなるのを抑えられない。
「……僕も、もう…。限界なんです。」
――その時だった。
トン、トン、トン、と階段を上る音がする。
(…まずい!)
「失礼します。お茶とお菓子をお持ちしました。」
ドアをノックする音がして桜子さんがビクリと肩を揺らす。
僕達は慌てて距離を取り、正座した。
「…どうぞ。」
桜子さんがなんとか声を絞り出すと、ドアが開き、山内さんが抹茶と大福の乗った盆を持って静かに入ってくる。
「まあ、お二人とも。とても綺麗にお座りになって……。」
穏やかな笑みを浮かべながら盆を置く。
(……危なかった……!)
胸の鼓動をなんとか押し殺す。
さっきまでの気配が、まるで痕跡ひとつないかのように見えているらしい。
「お着物、崩れておりませんね。良かったです。」
山内さんは本当に何も疑っていない。
桜子さんは緊張で少しだけ頰を赤らめているが、山内さんには『初々しい照れ』にしか見えていないようだ。
「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ。」
彼女は口角を上げると、そう言って静かに去っていった。
ドアが閉まる――。
その瞬間、僕は心の中で大きく息を吐いた。
(……助かった……!!
でも……桜子さんの首筋の赤みが……僕の理性を殺しにきている……)
横を見ると、桜子さんは俯いて、真っ赤な顔で唇をぎゅっと結んで震えていた。
(……可愛い……可愛すぎる……!!)
「…食べましょうか。」
僕がなんとか平静を装って彼女に声をかけると、桜子さんが恥ずかしそうに見つめてくる。
「…ええ。」
しばらく二人とも黙り込んでいたが糖分を摂取するとだんだん脳が落ち着いてきた。
「…そういえば、二人で何かをゆっくりと食べるのは初めてですね。桜子さんはお手紙で『和菓子が好き』と仰っていましたが、他には何がお好きなんですか?」
すると桜子さんが少し考え込んだ後、こう言った。
「そうですねぇ。好き嫌いはないですが、苺と和食が好きです。慶一郎様も和食が好きとおっしゃっていましたよね。」
その言葉に思わず口元が綻ぶ。
「はい、そうですね。そういえば友人と京都に行った時に食べた生麩田楽がとても美味しくて…。
桜子さんにも食べさせたかったです。」
「まあ!いつか一緒に行けたらいいですね。」
そんな事を話していると、ふと中等部の時に桜子さんにプレゼントした蛙のぬいぐるみが目に入った。
「これ…。懐かしいですね。婚約してから初めての桜子さんの誕生日に贈ったものですよね?」
その言葉に桜子さんが笑顔で頷く。
「はい!ケロちゃんっていう名前なんですわ!
ふふ、なんだか慶一郎様のお側にいられるような気がしていつも一緒に寝ているんですの。」
その言葉に思わず僕はカァアアッと顔が熱くなり、慌てて視線を逸らす。
――するとそこには僕が送った自分の写真が額の中に入っており、思わず固まってしまう。
「……これ。」
「…っ!!も、申し訳ありません!片付けるのを忘れてしまいました。」
そう言って桜子さんが真っ赤になってアワアワと焦り出し、思わず嬉しすぎてニヤついてしまいそうになる。
「――いいえ。とても嬉しいです。」
先程まできちんと部屋を見る余裕はなかったが、桜子さんらしい落ち着いた色合いのインテリアに思わずホッコリしてしまう。
「っもう、私ばっかり好きみたいで恥ずかしいですわ。」
小さく呟いた彼女の言葉に思わず目を見開いて真顔になってしまう。
「――いえ。僕だって貴女に負ける事がないくらい桜子さんの事を好きな自信がありますけど。」
すると、彼女は顔を赤らめながら小さく呟く。
「…本当はキス、したかったです。
次お会い出来た時はして下さいますか?」
その言葉に再び僕の理性のタガが外れそうになる。
「…はい。
――喜んで。」
心拍、呼吸、視線、全てが彼女に支配されている。
僕はこの恋を、もう証明ではなく実感でしか語れない。




