9 風の記憶、石に刻まれて
森の風が静かに枝を揺らし、落ち葉がざわめいた。
岬は、獣道のような細い道を、先を行く遊天の背を追って歩いていた。
「……ここ、来たことある気がする」
小さくつぶやいた言葉は、自分でも理由が分からない。
ただ、胸の奥に柔らかく疼くような感覚があった。
振り返った遊天が、珍しく真剣な瞳を向けてくる。
「お前……“亜雷”って姓、どこで聞いたんだ」
「え?」
「お前の名だ。“岬”って名前だけじゃなくて、“亜雷”……その姓。誰がつけた?」
問いかけは、突き刺すように鋭かった。
岬は戸惑いながら答える。
「物心ついたときから、そう呼ばれてた……父が名乗ってた、名前」
遊天はしばらく黙っていたが、ぽつりと呟いた。
「……だったら確かめよう。ここから東に、一日半くらい歩いたところに、廃村がある。“かつての亜雷族”が住んでた村だ」
岬の心臓がどくりと鳴った。
「それって……!」
「俺が小さい頃に暮らしてた場所だ。もしお前がそこに“懐かしさ”を感じたなら、……たぶん、答えがある」
そう言った遊天の背中に、どこか震えるような覚悟があった。
翌日、二人は霧に包まれた小高い丘に立っていた。
朽ちた木の柱、崩れかけた井戸、地面に埋もれかけた石板。
岬が足を止める。
「ここ……知ってる。夢で見た。……この木の、下」
駆け寄ると、そこには苔むした丸い石碑が埋もれていた。
遊天が静かにその石を拭うと、そこに刻まれた文字が現れる。
『この子が無事に未来を生きてくれますように。――烈牙』
岬は、目を見開いた。
「……父の名前……」
遊天がその場にしゃがみこむ。
「俺の親父だ。……俺の、父親。烈牙は……あの時、お前を連れてこの世界を出たんだ。母を残して。俺を置いて」
唇を噛み、嗚咽をこらえるように視線を落とす遊天。
岬はただ黙って、その背を見ていた。
「俺には、母が全てだった。でも……お前を連れていったのは、それが“民族の運命”だったからか?」
「……民族?」
「亜雷族には“未来を視る力”がある。その力が、お前に……引き継がれた」
岬の脳裏に、何度も襲った“未来の断片”がよぎった。
崩れる崖、血に染まった手、誰かの名を叫ぶ声――
「……あれが……」
そう、すべて繋がった。
自分の姓、自分の見る夢、そして父が遺した言葉。
「じゃあ……私は……」
「――俺の、妹かもしれない」
遊天の言葉が、時間を止めたように響く。
「でも、俺はもう、お前を妹だと思えなくなってる……」
その声に、悲しみと、どうしようもない想いが滲んでいた。
岬は答えられなかった。
ただ、胸の奥がぎゅっと締めつけられる感覚だけが、確かにそこにあった。
火を囲む夜、沈黙の中で、遊天がぽつりと呟く。
「お前が、ここに来てくれてよかったよ。……俺の人生が変わった」
「私も。……この旅で、いろんな自分に出会った」
「怖くねえのか。自分が何者かも分からねぇのに、前に進むのって」
「怖いよ。でも、止まったら――それこそ自分じゃなくなる気がする」
遊天が静かに笑った。
「……そういうとこ、親父そっくりだな」
岬も微笑む。
そして、風が吹いた。どこか遠くで、星の光がきらめいていた。