日比谷公園内殺人事件
第二章 回想
一
平成二十四年、今から十年も前のことだ。深川新美がまだ警視庁に在籍していた時の話だ。この話は長くなるが、知っておかなければならない事実なのだ。私の夫を探すにしても大事なことだが、私はまだ知らされていないことであった。
真夏の暑い日が過ぎて九月に入り鈴虫の鳴き声が目立ってきた日のことである。日本は中国、韓国との間で島の領有権をめぐる対立が激化し、両国関係が悪化していた。
韓国とは、李明博大統領による竹島上陸が発端となり、李大統領の「天皇謝罪要求」発言も続いて関係が冷え込んだ。日本は竹島問題を国際司法裁判所に単独提訴する準備を進めていた。
中国との間では、日本政府が尖閣諸島の国有化に踏み切ったことから中国側の反発が拡大。中国は公船を繰り返し尖閣周辺の日本領海や接続水域に送り込むとともに、反日デモを容認し、日本製品のボイコット支持など強硬な対抗措置を取った。
一部のデモ参加者は暴徒化し、日系のスーパー破壊や工場放火を繰り返し、日中関係は極度に悪化した。一方、日本の一般庶民も韓国や中国への悪感情を持つものが多くなっていたそんなある日のことである。
*
九月二十日、日比谷公園の雲形池近くの茂みの中で男性の遺体が早朝散歩をしていた主婦により発見された。朝五時半頃でまだ少しずつ辺りが明るくなって間もない時であった。
その主婦は犬と一緒に散歩中、リードに繋がれた飼い犬が茂みの中に入って遺体の足に食いついていたため、近寄ってみたら、男性と思われる遺体が仰向けに倒れているのが分かった。
主婦は直ぐに近くの日比谷公園前交番に駆け込んで知らせた。交番勤務の巡査二名は直ぐに主婦と一緒に遺体の確認に行き、その後管轄の丸の内警察署に連絡。丸の内警察署からは刑事課員および鑑識員を含め六名が車に分乗して臨場した。
遺体は一見して殺害されたことが明白であった。左胸部に刃物が突き刺さっていて、その他にも左上腹部に刺創が見られ、そこからも多量に出血したと思われ遺体の周囲には赤黒い固まった血液が広がっていた。
丸の内警察署から一報を受けた警視庁捜査一課は四係紺野班へ臨場を命じた。命を受けた紺野与一郎係長以下六名の刑事は鑑識員四名を伴って現場に向かった。
「係長、所轄の初動捜査でガイシャの身元が割れました。財布の中にあったそうです」
深川新美は丸の内警察署員から渡されたガイシャの免許証と名刺を見せた。深川は捜査一課四係の主任警部補として既に五年ほど経っていた。
「うん、山根沢春樹。世田谷区代田か。ほう、外務省の官僚ねぇ。厄介だなぁ」
「財布の中には五万ほど残っていました」
「そうか。指紋やゲソ痕取れたら後で教えてくれ」
紺野はそう言い残して遺体の周囲を眺めた。鑑識員の一人から死亡推定時刻は前日の夜十時から十一時の間との報告があった。
「バッグの中身は調べたか?」
「えぇ、仕事関係の書類ばかりです。それも難しい書類です。中国や韓国の軍隊がどうだこうだというような感じです」
深川はそのような国家間の軍備の問題などには全く興味がなかった。
「そうか。外務省だからな。名刺には外務省総合外交政策室となっていたなぁ」
「なんだか難しそうですね」
「あぁ、面倒臭そうだな。お役人じゃぁなあ。まぁ、とりあえず一課長に連絡し帳場を立てるよう頼め」
翌日、丸の内署内に「日比谷公園内男性外務官僚殺人事件」の捜査本部が立てられた。
刑事部長の命で松坂博管理官が捜査の指揮を執ることが決まり、朝九時から捜査会議が始まった。
「管理官の松坂だ。ガイシャは外務省の官僚だ。早急に事件の解決を望む。よろしく頼む。まずは今まで分かっていることから報告をしろ」
松坂管理官は警視庁きって若手のキャリアだ。深川としては管理官の命令口調は警察組織では当たり前で、かつ毎度のことではあるが、四十代そこそこの若いスーツ姿の管理官の立ち姿には諦めに似た感覚を覚えた。管理官の命令に最初に捜査一課の柳瀬が答えた。
「ガイシャは山根沢春樹、五十二歳、世田谷区代田二丁目在住、外務省総合外交政策室室長です。死因は胸部および腹部を刃物で刺されたための失血死です。昨晩の夜十時から十一時の間に殺害された模様です。遺留物はガイシャのものと思われるバッグ、その中には仕事上の書類と財布が残されており、財布から現金五万二千円と免許証、ガイシャの名刺、その他仕事上に付き合いがあったものの名刺、キーホールダーに四つのキー、車のキー、その他読みかけの本一冊などが入っていました」
柳瀬は会議室の前面に移し出されたパワポの画面に向かってポインターで示しながら報告した。
「そうか。遺留品の中の本のタイトルはよく見えないが、何て書いてある?」
「あぁ、これですか。『国家安全保障と宗教』です。米国のジェームス・バノンとかいう作家の訳本です」
「そうか」管理官はその点についてはあまり興味を示さなかった。
「次、鑑識」との催促に鑑識の山畑がパワポ画面に映して説明した。
「ゲソ痕が取れました。二人のゲソ痕です。ガイシャのゲソ痕ともう一人のゲソ痕はこんな感じです」と言って最初に被害者のものを提示した。
その直後、山畑は、
「したがって、これは犯人のものと思われるゲソ痕です。ナイキのスニーカーです。大量に出回っている特別なものではありません。サイズは二十六・五センチと思われます。男物だと思います」と述べた。
「それは断定してもいいのか? 女性でも二十六・五センチはいるのではないか?」
松坂管理官の眉間に皺が寄ったのが分かった。
「可能性はありますが、極めて少ないです。女性の平均靴サイズは二十三・五センチです。もしこれが女性だとしたら、相当身長が高い女性だと思います。少なくとも百七十センチ以上ですね。おそらく男性と考えていいと思います。それから凶器の刃物は刃渡り二十センチの片刃包丁です。指紋はガイシャのものしか採取されていませんでした。刺創は左側からこのような角度で心臓と肺に達しています。どちらが最初の刺創なのか分かりませんが、刺創の角度から見て犯人は右利きと思われます。確実に殺そうという殺意が感じられます。」
「分かった。周辺の防犯カメラはどうだ」
「日比谷公園内には防犯カメラはありませんが、公園内のレストランが幾つかありそこの防犯カメラをチェックしましたが、犯行時間前後には怪しい人物は映っていません。とにかく深夜ですので……」
「当たり前だ。深夜だからこそ、そこに映し出された人物は怪しいってことになるんだ。防犯カメラは重要だ。所轄の捜査員も加わり、もっとよく調べろ」
「はい」
「その他報告はあるか? ジドリはどうだ?」
「今のところ目撃者は現れていません」
深川はガイシャの職業が気になっていた。外務官僚だ。それも国家安全保障の政策を扱う部署だ。通常の物取りや怨恨による殺人事件ではないと思うが……。
「管理官、まずはカンドリから始めましょう。自分が外務省に出向きます。ガイシャは相当な地位の官僚です。それも国家の安全保障を扱う重要人物と言ってよいと思います。外務省から警察組織そのものにも何か言ってくる可能性もあります。その前に捜査を進めた方がいいのではないでしょうか?」
深川の発言に松坂管理官は苛立ちを見せた。
「そんなことはおまえに言われなくても分かっている。そっちは深川と柳瀬に任せるが、上の考えもあるだろう。それを待ってからだ。その他は防犯カメラ、ジドリなど所轄も応援頼む。鑑識は新たに分かったことがあればその都度報告しろ。捜査が長引くと良くない。精力的に頼む」
管理官のその言葉を最後に会議は終了し、捜査員は夫々目的の場所に向かって散って行った。
韓国・中国関係の難解な部分ははしょってもいいかもです。