新婚旅行と新婚生活
第一章 失踪
一
私、山根沢真里花は幸せの絶頂であった。私ほど幸せな女はいないとも思った。
紺碧の海、遠くに白い雲、目を瞑ると打ち寄せる静かな波の音がチャイコフスキーの作曲したバレー音楽に出て来るくるみ割り人形の花のワルツの様にも聞こえる。これは幸せだから感じることなのだと思った。
目を開けると背の高いヤシの実が見える。日本の夏の様に湿度が高く蒸し暑い海辺ではない。海から向ってくる風もさわやかで心地よく頬を撫でる
。
私は昨晩のことを思い出していた。初めてではないが何時になく充実感を感じた。身体の充実感ではなく心の充実感と言って良かった。今まで何度も身体を合わせていたのに……、この充実感は何だろうと考えた。やはり皆に祝福されて結婚したからだろう。
渋谷トレビアンホテルの中にある教会で行われた式も厳かであった。バージンロードを歩いた父の眼に涙がたまっているのが分かった。
白人の神父の前で誓いの言葉を交わし、指輪をお互いの左薬指にはめ、ベールを上げキスをした。大学時代の友人の顔を見たら皆笑っていたが、目は羨ましそうに見えた。
それはそうだ。この夫、山根沢春平。誰が見ても完璧な男だと私は思っているからだ。
ビジネスクラスで八時間のフライト、機内で妹が撮っていた披露宴のビデオを二人で眺めて改めて幸せを噛みしめていた。バリ島の中でも最高級のホテルに到着し、プール付きのコテージのような部屋に通され一息ついた。
「真里花ぁ、今日はどうする? 車で出かける?」と何となくダルそうな春平の声だった。
「JTBの旅行日程ではウルワツ寺院でケチャックダンスを見ながらディナーってなってるわ。景色がいいらしい」
「そうか。その通りでいいか?」
「いいと思うわ。断崖絶壁からの海に浮かぶ夕日が綺麗で、シーフードがおいしいって言ってたわ。JTBの人が……」
「そうなのか。この五日間はゆっくりしたいよ。日常の仕事を忘れてさ」
「そうね。春平さんも普段の仕事が激務だからね。そういう気持ちになるのも分かるわ」
「それはそうと、披露宴でおれたち二人の写真が写し出された時、真里花の友だちの顔が引き攣ってたよ」
「え? そうだった?」
「そうだよ。やっぱり羨ましいんだよ。きっと」
私は今から一年前、会社からのニューヨーク出張中に春平と知り合った。都内の有名私立W大学を卒業し、公益法人東京観光振興財団の観光情報部に入社した。
大学時代から旅行が好きで色々な国を一人で旅行して歩いた。その経験が生かされて海外出張を命じられたのであった。現在二十九歳、父親がやはり外資系の会社の重役であるため裕福な生活ができていた訳であった。
三つ下の妹の靜も姉と同様に優秀でA国立大学外国語学科を卒業し、現在は外資系ホテルに勤務している。
私がニューヨークに出張中、外務省が開催した日本人会に出席し、そこで春平と知り合った。
春平は私より三歳年上で、現在三十二歳、東京大学法学部を卒業し、外務省に勤務していた官僚である。
私たちは知り合って一年で結婚にこぎつけた。年齢的にもこの辺が限界だろうとの考えが二人で一致したのであろう。自然と結婚話が出てゴールインしたという訳だ。
「バリって結構日本人が多いわね」
「そうだなぁ、コロナが収束して皆、海外へ足を延ばしているんだろうな」
「そのようね。新婚旅行って日本人がいないところがいいのにね?」
「そう? おれはあまりそう思わない。今は何処へ行ったって日本人は沢山いるよ。それだけ日本も国際化しているという訳だよ」
「外務省のお役人のお考えかしら?」
「それはあまり関係ないと思うよ」
春平は外務省に入省してから、国家公務員総合職試験に一回で合格し、いわゆるキャリア組として将来を約束されていた。
私は最初逢った時から春平の優しい笑顔と声に魅了された。私と結婚する前にどんな女性と付き合っていたのかは知らない。自分から訊いてもみなかった。
そういうことは訊かない方がいいのだと真里花は考えていた。知れば自分も色々考えて結婚にも踏み切れなかったであろう。
バリ島への新婚旅行は夢のようであった。お金の心配をしないで、何でも好きなものを食べて、何でも欲しいものを買った短期間の生活は今まではなかった。それも夫の春平のおかげだと感謝している。
私たちはこうして無事バリ島への新婚旅行を終え帰国した。新居は春平が二年前から住んでいる品川にある3LDKのタワーマンションの十五階に真里花が引っ越してきた。
新婚生活は私にとっては思ったほど大変ではなかった。二人とも結婚前の仕事を続ける共働きであるため、春平の帰りが遅く夕食は外食で済ませることが多かった。そのため休日と毎日の朝食だけは共に摂るようにしていた。
「あなた、お仕事忙しそうね? 身体大丈夫なの?」
「あぁ、大丈夫だよ。しかし、外務省の仕事は思ったよりきつい」
「キャリアの辛いとこね?」
「いやぁ、ノンキャリはもっときついよ」
「あなたのいる総合外交政策室って何をやるところなの?」
「えぇ、それも知らないの? 何度か話したと思うけど……」
「そんなこともあったかしら? 難しくて分からなかったのかも知れない」
私は夫、春平の仕事についてはあまり詳しくは知らなかった。東大を卒業して外務省に勤めるキャリアであることは知っていた。
それだけで将来は約束された人物であることは誰もが納得する人であり、そのことを話すと周囲のものは皆、「すごーい!」としか言わなかった。
見た目にも高身長、草食系の顔つきで、スリムな体型の真里花にぴったりの男だと自分でも思っていた。
「総合外交政策室はね、色々あってね。おれのいるのは安全保障政策課と言って、日本の安全保障に関する外交政策の企画・立案及び総括をするってことになっているんだよ」
「何かお役人のような答えだわ」
「そうだよ。まさにおれはお役人だよ」
春平は現在、係長だが今の政策課課長から内々に来年四月から課長への昇進することを聞いていたらしい。そのことはまだ妻の私には話さなかった。私は知っていたが黙っていた。
春平はそのようなことは昇進が決定し、辞令をもらってから言えばいいことだと思っていたのだろう。なぜなら一般企業と同様に官僚の場合も糠喜びになることもあり得るからだ。
物語は始まったばかり。もちろんまだ続きます。