残念ぽんこつクソザコチョロイン目隠れボクっ娘ザコ先輩。
> 後輩くん
> たすけて
> 今日狩ったホラゲがこわすぎておふろ入れない眠れない
> たしけて
> (HELP!と涙目で叫ぶキャラクターのスタンプ)
> ねえってば
> ねえさっきからなんか視線感じる
> これぜったいやばいやつだよおねがいたすけてすぐきておねがいだからこうはいくんこうはいくんこうは
> (泣いているキャラクターのスタンプ)
――また負けてる……。
先輩から怒濤の勢いで飛んでくる鬼チャット、もとい本日の敗北宣言かつSOS信号を冷ややかな目で眺めながら、『後輩くん』こと九城大雅は首が落ちるほどのため息をついた。
よっぽどの極限状態でスマホを連打しているのだろう、「買った」を「狩った」と誤変換していたり、「たすけて」が「たしけて」になっていたり、ひらがなのまま送ってきたり文章が途中で切れていたりと、布団にくるまってガチ泣き寸前になっている先輩がありありと想像できるようだった。
どこからどう見ても狩られる側である。
今日は泊まりコースかなあとぼんやり考えていると、鬼チャットだけでは飽き足らず通話までかかってきた。こうなってしまっては仕方がない、九城は観念してスマホをタップし、
『う゛え゛え゛え゛え゛え゛!! 後゛輩゛く゛』
断末魔ばりの絶叫が聞こえて、思わず通話を切ってしまった。
頭を抱える暇もなく秒で再着信。九城はスマホを耳に近づけすぎないよう気をつけながら、
『な゛ん゛て゛切゛る゛の゛お゛お゛お゛お゛お゛!!』
「うっせえわ! いま何時だと思ってんだ!」
スマホの向こうの先輩は、のっけからだいぶギャン泣き気味だった。ずびっと鼻をすする音がして、
『うう、ご、ごめん。でもこればかりは、こればっかりは仕方がないんだ。ほ、本当に視線を感じるの。もうダメだおしまいだ、あれはやっちゃいけない呪いのゲームだったんだぁ……』
「はいはいただの気のせいだから。なんかおもしろい動画でも見て一息つけって」
『わ、わかったよ。じゃあ、なるべく早く来てね?』
なんで俺がそっち行く前提で話してんですかねこの人……。
と、嘆いたところで仕方がない。これが先輩という人間なのだ。超がつくほど怖がりなくせしてなぜかホラー好きで、定期的にゲームなり映画なりの作品に手を出し、そのたびボロ負けしてSOSを求めてくる情けないやつなのだ。
アホなのである。
『あ、後輩くん。あの、えっとね? できれば、その……泊まる準備で来てもらえると……』
「あのさ、年下にそこまで泣きついて恥ずかしくねえの?」
『ぼ、ぼく悪くない! ぼく悪くないもんっ! 仕方ないでしょ、ほんとに怖かったんだもん! 悪いのはあんなゲーム作って世に出した制作者だよ!』
「恥ずかしい上にみっともねえ……」
自室の布団から起き上がり、九城は現在の時間を確認する。午前零時十七分。いやほんとに何時だと思ってんだ。
こんな時間に人を呼び出すなど非常識の極みなのだが、スマホからはなおも先輩のすすり泣くような声が、
『お願い、お願いだよ後輩くん。こんなの後輩くんにしか頼めないんだ。今日はぼくのところに泊まりにきてぇ……』
「……はぁ」
女の先輩から、部屋に泊まりにきてほしいとせがまれる。健全な男子大学生なら胸をトキめかせるようなイベントだろうが、生憎と九城の反応は淡々としている。
何分、これがはじめてではないのだ。
それどころか日常茶飯事である。先輩の人となりはすでに把握しているから、これは女の人を助けに行くというより、ダメ人間の世話をしに行くと表現した方が正しいのかもしれない。
「コンビニでなにか買っていくか?」
『そんなのいいから一秒でも早く来て!!』
「はいはい、じゃあ支度するから。一旦切るぞ」
『……ま、待って!』
通話終了ボタンに指を移しかけたところで、いきなり引き止められる。なんだよと問うと、先輩はなにやらもじもじした声で、
『通話……つないだままにしてくれないかな? 後輩くんの声が聞こえないと怖くて……』
「ザコすぎんだろ……」
『ザコじゃないが!?』
「じゃあ切るわ」
『ごめんなさい調子乗りましたザコでしたザコでいいですだからお願い切らないで』
ザコ先輩の命乞いを適当に聞き流し、通話をスピーカーモードに切り替える。先輩が早口言葉のようにあれこれ喚いている。気だるい足取りで支度を始めながら、この人ほんと変わってるよなあと九城は思った。
/
百瀬もも。上から読んでも下から読んでも「ももせもも」。それがザコ先輩の名前である。
九城のアパートから自転車で数分、五階建ての単身者向けマンションに彼女は住んでいる。部屋番号は501。築三年でオートロック完備で1LDKで最上階で角部屋という、学生身分にしてはだいぶ贅沢すぎる豪邸だ。しかも実家がかなりの金持ちで、バイトもせず奨学金も使わず、悠々自適な仕送り生活を満喫している。
安い1Kアパートで手狭な一人暮らし、多少仕送りがあるとはいえバイトしなければ生活が成り立たない身からすれば、まことに羨ましい限りである。
「先輩、着いたぞ」
『ほ、ほんと? ほんとだね? 待ってて、いま鍵開けるよ』
小高い丘の上にあるマンションなので、数分とはいえ自転車で一気に駆けあがるといい運動になる。九城は耳から下げた安物のイヤホンマイクへ文句を言うように、
「いい加減通話切っていいだろ」
『ま、待って! もうちょっと、あとちょっとだけだから! ……うう、玄関まで行くのも怖いよぉ……』
いくらなんでも怖がりすぎではないか。そこまで怖がりなのにどうしてホラーが好きなのか、怖いもの見たさにも限度があるのだろうと九城は思う。
ドアの向こうで百瀬がノブに手をかけた気配、
『……ね、ねえ。ところで後輩くん、ちゃんと後輩くんだよね?』
「は?」
『いや、ほら……後輩くんの姿をしたおばけじゃないよね? こういうときってさ、おばけが友達の姿でやってくるのって、怖い話だと割とお約束というか……』
「……」
『そ、そうだよ……! さっきまでずっとなにかの視線感じてたし、おばけが後輩くんに化けてるって可能性も……!?』
帰っていいだろうか。
『こ、後輩くん! えっと、後輩くんが本物の後輩くんだということをぼくに証明してくださいっ!』
「帰るわ」
『後輩くんが偽者なわけないよね!! だからお願い帰らないで独りにしないでえええええっ!!』
情けない絶叫とともに、ドアが開いた。
首まで布団にくるまった変人が飛び出してきた。
回れ右しかけた九城の腕をひっつかみ、涙目でぷんすか怒りをあらわにするのは、間違いなく百瀬ももその人だった。
「ううう、後輩くんのバカバカバカっ! どうしてそんなことができるのさ! 後輩くんは、もっと先輩に対する敬意の心を持つべきだよっ!」
「だったら少しは敬いたくなるところ見せてくれねえかな」
「ぼく年上! きみよりとーしーうーえーっ!」
少なくとも九城が人生で学んできた敬意とは、布団を被ったまま人前に飛び出してくるような変人に払うものではない。
百瀬ももの外見をズバリ一言で言うなら、前向きには『素朴』、率直には『野暮』である。化粧っ気がないとでもいうのか、一般的な女学生に見られる着飾った雰囲気がまるでない。布団にくるまっているのを抜きにしても、ここが彼女の部屋なのを考慮しても、若干サイズが合っていないブカブカのジャージ姿を都会的と称賛するのは無理だろう。
髪もかなり長い。たとえるなら、いろんな草花がのびのびと育った花壇のような印象。腿まですっぽり隠れる淡い撫子色を、肩のあたりで二つに結わってルーズなおさげにしている。前髪に至っては完全に目までかかってしまっていて、左側だけ留めて最低限の視界を確保している有様だ。
ついでに左右から、ぴょこぴょこと犬耳のようなクセ毛も完備している。家だから怠けた恰好をしているわけではなく、たとえ出かけるときだって彼女はこうなのである。
しかしながら、では百瀬が野暮ったいばかりで女性的魅力に欠けるかといえばそうでもない。声は鈍くさい見た目を裏切るように高く澄んでいるし、眼鏡の奥にある瞳はくっきりと大きくて円い。ロクなスキンケアもしていないくせして肌はシミひとつなく、ブカブカのジャージ姿ではわかりにくいものの、実は華奢な身の丈に不釣り合いなスタイルを誇っているのも九城は知っている。
まあそんな隠れた魅力も、彼女の性格及び言動の前では根こそぎ吹っ飛んでしまうわけだが。高校時代、伊達に『髪を切って普通の服を着て動かず喋らず座っていれば美人』なんてあんまりな評価を食らってはいないのだ。
「先輩さあ、ホラー相手に何回ボロ負けすれば気が済むんだよ」
「別に負けたわけじゃないが! こ、怖すぎて先に進めなくなったとかじゃないから! 明日は二限目から講義があるからね、今日はこのへんにしといてあげたの!」
「教科書みたいな負け台詞吐くじゃん……」
半泣きでいじっぱりな言い訳をしている通り、こんな夜更けに九城を部屋まで呼び出す通り、百瀬の性格はとにかく幼稚でおばかでぽんこつだ。この先輩、精神年齢が中学時代――もしかしたら小学時代かもしれない――からまったく成長していない。加えて身長が平均より低めなので、初対面で彼女が成人済みだと見抜ける者はそうそういないだろう。
いっちょまえなのは、ブカブカジャージの下に隠れた起伏だけ。それ以外はぜんぶぽんこつ。
ザコ先輩とは、そんな人物なのである。
「はいはい、じゃあさっさと風呂入って寝てくれ。今日はバイトだったから疲れてんだ」
「はあ、大学めんどくさいねえ。毎日お昼までのんびり寝て、後輩くんと一緒にゲームして暮らしたいなあ」
ついでに、ニート予備軍でもある。
百瀬に服の裾をつままれながら部屋にあがると、玄関と廊下とリビングはもちろん、キッチンも風呂場もトイレもぜんぶ電気がつけっぱなしだった。理由は言わずもがな。
実家の仕送りで悠々自適の1LDKマンション暮らし、となればそのリビングも九城の安部屋とは雲泥の差だ。ベージュ色の大きなカーペット、四人は座れそうなローソファー、最新型のノートパソコンとモダンなガラス製ローテーブル、九城の中古品より二回りは大きな液晶テレビ、マンガであふれかえる四連本棚、生地の質が明らかに違う花柄のカーテン、飛び込めば弾むようなベッドと人をダメにする抱き枕、そしてあちらこちらで視界を彩るぬいぐるみたち。暖色が散らばった案外女の子らしい部屋で、九城も最初はお邪魔するのに緊張したのを覚えている。
もちろんそんなのは文字通り、最初の五分だけだったけれど。
さて、目下九城の仕事は百瀬を風呂に入れることだ。でなければいつまで経っても寝られない。明日の講義が二限からとはいえ、この二十歳児に付き合わされて夜更かしなど絶対に御免である。
だというのに、
「~♪」
百瀬はローソファーに腰を下ろし、被っていた布団を脱いで代わりにペンギンを抱き締めた。それからスマホをいじり始める。なにくつろいでんだこいつ、と九城は百瀬を無言で睨む。
視線に気づいた百瀬は首を傾げ、
「どうしたの? 後輩くんも座っていいよ」
「いや違うだろ。さっさと風呂入ってこい何時だと思ってんだ」
「あ」
あじゃないが。
百瀬はぎこちなく視線を逸らしながら、
「……こ、後輩くん」
「なんだよ」
「あの、そのゲームでね? 主人公が、おふろでおばけに襲われるシーンがあって」
「おいザコ先輩」
「だだだっだって仕方ないじゃん!? 水回りは不浄霊が集まりやすいっていうし! 後輩くんだって知ってるでしょ!?」
九城は心の底から呆れた。このザコ先輩、こうして九城を部屋まで呼び出しておいてなお風呂にも入れないと抜かすつもりらしい。ザコすぎである。小学生でももうちょっと頑張るだろ。
「後輩くんだって経験あるでしょ? お風呂で髪洗ってるとき、なぜか背後から視線を感じること……」
「ああ……振り返ってもなにもいなくてほっとするけど、本当は後ろじゃなくて真上にいるってやつな」
「どうしてそんなこと言うの?」
百瀬がいきなり真顔になった。ハイライトが消えた虚ろな瞳で九城を見つめ、
「ねえ後輩くん、どうしてそんなこと言うの? ぼく、今日はもう絶対一人でおふろに入れなくなっちゃったよ? どうしてそんなこと言うの??」
「……」
やべえこれガチのやつだ、と九城は己の失言を悟った。
「……あー、聞いたことねえの? 割と定番ネタだと思ってたけど」
「はじめて聞いたよ!? じゃ、じゃあ今まで視線を感じたときも――う、うみえええええ!?」
想像力が豊かな百瀬は、『その光景』を映画さながらの臨場感で思い描いてしまったらしい。ペンギンを放り投げて九城に飛びつき、
「こ、後輩くん! 後輩くんのせいだよ!? 責任取って一緒におふろ入ってっ!」
「は!? いくらなんでもそれはダメだろ女として! おいコラくっつくんじゃねえ!」
さすがの九城も少し面食らった。前述の通りこの先輩、女性としての体つきだけは平均よりも遥かに恵まれている。よって、こうもぎゅうぎゅうくっつかれると二の腕あたりにやたら柔らかな――
言うまい。
「いつも通りここで待っててやっから! それでいいだろ!」
「むりむりむりむり絶対むりっ!! しんじゃう! 一人にされたらしんじゃう!! 後輩くんには朝まで隣にいてもらいます、ハイ先輩命令っ!!」
「ザコすぎんだろ百瀬ももォ――――――ッ!!」
「ザコじゃないですぅ―――――――――ッ!!」
まさか、本当に一緒に入れるわけもない。
百瀬のザコっぷりに付き合わされていると、こうして下らぬ言い争いになるのはいつものことだ。髪を切って普通の服を着て動かず喋らず座っていれば美人な先輩とひとつ屋根の下――と表現すれば魅惑的な響きかもしれないが、実際問題、ここまでドが付くぽんこつ相手だと青春もへったくれもないのだ。
とはいえ、迷惑かといえばあながちそうとも限らない。
なにを隠そう九城大雅、両親共働きの家庭で幼い頃から妹二人の面倒を見てきた歴戦のお兄ちゃんである。九城自身自覚していないが、いかにも「仕方ない」という雰囲気を醸し出してはいるが、実は人の世話をするのがキライではない。高校時代もその面倒見のよさを遺憾なく発揮し、『百瀬ももの保護者』というある意味不名誉すぎる称号を頂戴していた。
真夜中に泣きつかれる程度は今更だ。ともかく九城にとって、百瀬はいつまで経っても手間のかかる三人目の妹みたいなもの。
なんだったら「こいつを真人間に矯正できるのは自分しかいない」という妙な使命感の下、今宵もザコ先輩と熾烈な肉弾戦を繰り広げている。
/
『い、いい? なんでもいいから、とにかくずっとぼくに話しかけててね? 三秒以上間が空いたらしんじゃうと思って。というかしんじゃうから。絶対に絶対にお願いね?』
「……はいはい。わかったからさっさと済ませてくれ」
恥とかねえのかな、と。
スマホ越しに聞こえる衣擦れの音を聞きながら、九城は百瀬宅天井を見上げて緩いため息をつく。スマホの向こう側、そしてリビングからドア一枚隔てた向こう側で、百瀬がへっぴり腰になりながら決死の覚悟でシャワーを浴びようとしている。要するに服を脱いで素っ裸になっている真っ最中であり、いくら恐怖から逃れるためとはいえ、その様子を男相手に通話で生中継するなど頼むから恥を知ってくれと九城は思う。
「先輩ってさあ、ほんと恥とかねえの?」
『こ、これは後輩くんを信頼してるからだよ。誰にでもこんなことする女だと思わないでほしいなっ』
本当だろうか。もし今の百瀬を夜道に一人でほっぽり出したら、そのへんを歩いているオッサンにも全力で泣きつきそうなのだが。そして「今日はあなたの家に泊めてくださいっ!!」などと平気で叫び、不審者扱いされて警察にそっと通報されるのだろう。
違うんです誤解ですこれにはワケがあああ、とお巡りさんに涙目で言い訳するザコ先輩が、くっきりはっきり想像できた。
「ともかく、髪とか明日の朝でいいからちゃっちゃと体だけ洗っとけ。そんな会話のネタもねえし」
『うう……後輩くん、ぼくを絶対一人にしないでね? ぜんぶ後輩くんに懸かってるからね? 命預けるからね?』
「シャワー浴びるだけでそんな重い覚悟背負うことある?」
浴室の折戸を開ける音、シャワーからお湯を出す音。健全男児にとってはいかんせん不健全な音色がスピーカーから響く。正直なところ今すぐ通話を切ってやりたい気分だったが、そんな真似をすれば百瀬が絶叫ののち全裸ですっ飛んでくるとわかりきっているので、仕方なく話しかける。
「明日の朝メシはあるもんでいいよな」
『うん、後輩くんのごはんはなんでも美味しいからね!』
メシの話題を振った瞬間、百瀬の声がぱっと明るくなった。恐怖心どこいった。思考回路がところてんなのだろうか。
『あっ! あのねえ、ウインナーっ! 後輩くんがこないだ買ってきてくれたウインナーが残ってるから食べたいなあ! カリカリに焼いてさ!』
「へいへい」
百瀬ももは、ドを付けても足りないくらいのぽんこつである。よって料理もできない。放っておくと悠々仕送り生活に物を言わせて、一日三食すべて外食という贅沢三昧を平気でやらかすので、九城がしばしばメシを作りに来てやっている。
部屋を見る。四人は座れそうなローソファー、最新型のノートパソコン、モダンなガラス製のローテーブル、大きな液晶テレビ、マンガであふれかえる四連本棚、人をダメにするベッドと抱き枕、他にもコードレスの静音掃除機や、オシャレなマダムが使うようなオーブンレンジまで。
「ほんといい生活してるよなあ」
『後輩くんはお金とか大丈夫? アルバイト大変じゃない? お父さんとお母さんの話、遠慮しなくてもよかったのに』
「いや、それはさあ……なんか違うだろ」
百瀬の発言について補足しておく。九城は高校時代から続く『百瀬ももの保護者』であり、同じ大学に通うにあたって、彼女の両親から金銭面での支援を提案されたことがあるのだ。ただでさえ学業とアルバイトの二足草鞋なのに娘の世話まで頼むのは心苦しいから、せめてもの感謝の気持ちを込めて、と。
その場で断ったけれど。
『そう?』
「そうだろ。アルバイトしなきゃなんねえのはウチの問題だしな。それに、なんつーか……金ありきの付き合いになるみたいで他人行儀だろ、今更」
伊達や酔狂で高校時代から保護者をやっているわけではない。妹二人を育てあげた歴戦お兄ちゃんの九城にとって、百瀬の面倒を見るのはよくも悪くも日常なのだ。それでお金を渡されるのはバツが悪いし、家の事情でよそのご両親に気を遣わせるのも申し訳ないと思う。
『そっかあ』
えへへ、と百瀬はだらしなく笑って、
『つまり後輩くんは、好きでぼくと一緒にいてくれてるってことだよねっ。うれしいなあ』
「そこまでポジティブならシャワーくらい一人で浴びてくれよ……」
『ほ、ほんとに怖かったんですー! そうだ、今度後輩くんも一緒にやろうよ。後輩くんだって絶対びっくりするよ、たとえばねえ――いやあああああ思い出しちゃったあああああ!?』
バカなんだろうか。いや、紛うことなきバカなのだが。
『も、もうあがる!! 後輩くん、ちゃんとそこにいるよね!? ぼくを独りにしてないよねっ!?』
「してないから落ち着けって」
『あああああ真上から視線感じる気がするうううぅぅ!!』
「聞けよ」
百瀬は聞いちゃいない。蹴飛ばすような勢いで浴室の折戸を開け、しばしドタバタと跳ね回る音がしてから、
「――後輩くんたすけてえええぇぇっ!!」
バスタオル一枚巻いただけのすっぽんぽんで飛び出してきた。
九城はキレた。
「服 を 着 ろ ッ !!」
「体はちゃんと拭きました!」
「拭けてねんだ! 拭けてねえんだよ!」
「もうやだこわいいいいいっ!!」
もしかすると九城は、百瀬に男と認識されていないのかもしれない。
また飛びついてこられる前に、九城は神速の動きで百瀬を脱衣所の向こうに叩き込む。青春もへったくれもない彼女が相手とはいえ、さすがにバスタオル一枚の恰好でくっつかれるなど冗談ではない。ブカブカジャージに埋もれていた体の起伏がありありと浮き出て、なんかもうどえらい感じになっていた。
ここまでくると恥を知れという話ですらなく、単なる痴女である。九城が断固閉め切ったドアを百瀬がドンドン叩き、
「うえええええなんでどうしてひどいよたすけて独りにしないで後輩くん後輩くん後輩くん後輩くん」
「……」
その情けなさすぎる命乞いの声を聞きながら、九城はもう、心の底から、
――ザコすぎんだろ、百瀬ももォ……。
頭が、痛かった。
/
はっきりと断言しておくが、九城と百瀬は決して付き合っているわけではない。
同じ高校の先輩後輩であり、多少踏み込んだ表現を借りたとしても、『気が置けない友人』が精々だと思う。たとえ同じ部屋で寝泊まりしようが、バスタオル一枚のどえらい恰好を見せられようが、告白という過程が存在しない以上恋人同士でないのだけは事実なのだ。
そしてだからこそ九城は、百瀬ももというあまりにそそっかしすぎる人間を、後輩として真っ当に心配しているのである。
「――い、いいかい後輩くん、この手を絶対に離しちゃダメだよ。慈しみをもってしっかり握っておくように。もしトイレとか行きたくなったら、遠慮せずぼくを起こしてくれていいから。というか起こして。間違っても一人でこっそり抜け出したりしないでね、一人にされたらしんじゃうから。いいね? 絶対だよ?」
「……先輩さあ」
常夜灯に切り替えられた照明を見上げながら、九城はもう今宵何度目かもわからないため息をつく。
九城大雅は男であり、百瀬ももは女であり、単に高校からの先輩後輩であって、間違っても恋人同士ではない。
だというのに、
「なあ、どうしても同じベッドで寝なきゃダメか?」
紛れもない、百瀬が普段から使っているベッドと布団で。彼女が奥、九城が手前、一応間にペンギンとイルカのぬいぐるみを挟んではいるけれど。
顔のすぐ隣から、百瀬の若干早口な反論が返ってくる。
「だ、だめ。仕方ないでしょ、後輩くんがいても怖いものは怖いの」
「だからってさあ。別に俺は床でも」
「それじゃあ、後輩くんがちゃんと傍にいてくれてるかわからなくなるでしょ。この手が大事なの、この手が」
そう言って、百瀬が九城の手をぺちぺちと叩く。眠れなくなって家族に泣きつく小学生のような理屈である。それを小学生どころか成人済みの大学生が、至って真剣な顔で力説しているのだから悩ましい。
九城はいい。身内かそうでないかの違いこそあれ、こういうのには妹の世話で慣れているし、調子に乗って愚かな真似をする不埒者でもないつもりだ。こちとら生活能力皆無な妹二人を長年世話したベテランお兄ちゃんである、その鍛えあげられた精神力をナメてはいけない。女の先輩と同じベッドだろうがなんのその、話が終わればすぐにでも寝付ける自信がある。
しかし女である百瀬にとっては、いかんせん迂闊すぎると九城は思うのだ。先ほどのシャワー生中継もそうだが、恐怖を紛らわすためなら九城となにをしたって構わない、とでもいうかのような浅はかすぎる言動は非常によろしくない。あまりに警戒心がなさすぎる。もし泣きついた先が不逞の輩で、百瀬に対して邪な気でも起こしたらどうするつもりなのだろう。
一見野暮ったい見た目でも、そのザコっぷりを全力で見ないふりして目を凝らせば百瀬は充分に美少女。知り合ってこのかた浮いた話は聞かないが、これからの大学生活で九城以外の異性と面識を持つ機会もあるだろう。そのとき百瀬は、きちんと自分の身を自分で守ることができるのだろうか。
そう大いに疑わずにはおれないほど、百瀬という少女はあぶなっかしいのだった。
「もうちょっとこう、男に対する警戒心というか、自衛の意識というか。そういうのないわけ?」
「むう、そんなこと言わないでよ。ぼくと後輩くんの仲でしょ? 後輩くんは昔からぼくを助けてくれるし、信頼できるってわかってるから特別っ」
「……」
率直に尋ねれば、呆れるほど純粋無垢な返答が返ってくる。なんというか、初対面の異性でもちょっと優しくされたら、その瞬間にコロッと落ちてしまいそうというか。
こういうのを、たしか今ドキのオタク言葉では『チョロイン』というのだったか。
「ていうか後輩くんこそ、なんかこう……ないの? 美人で年上な先輩と一緒に寝られるわけだし、実はすごくドキドキしてます! とかさ!」
「あんだけ無様晒したのにまだ自分が美人とか調子乗れんのか」
「言わないで! ほんと無様になるからそんなはっきり言わないでぇ!」
「まあ、よく見ると美人なのは否定しねえけども……」
「えっ……は、はわ……」
チョロすぎだろ。
「え、えへへ、えへへへー! 後輩くんに言われると嬉しいなあ! じゃあやっぱりドキドキする? ドキドキしちゃうっ?」
「妹に泣きつかれたときのこと思い出すなあ。ありゃ中学生の頃だったか」
「ぼくおねえちゃん! きみよりおーねーえーちゃーんーっ!」
だらしない笑顔を見せたのも束の間、今度は九城の手を涙目でビシバシ叩いてくる。本当に百瀬は、視線を向けるたびコロコロと表情が変わる。笑ったかと思えば次の瞬間には泣いており、泣いたかと思えば次には赤くなって、赤くなったかと思えばまた笑っている。彼女が九城の中で、『二十歳児』という不名誉な称号をほしいままにしているひとつの所以である。
「後輩くんがいじめる! しつれー極まりますっ!」
「二十にもなってこんな夜更けに人呼び出すわ泣きつくわの方がよっぽど失礼だぞ」
「ど、ド正論……うう、なにも言い返せないよぉ……」
ペンギンとイルカの向こう側で、犬耳みたいな百瀬のクセ毛がへにゃりと垂れた。気がした。
九城の手を握る彼女の指先が、少し震えたのを感じた。
「こ、後輩くん……ひょっとしてなんだけど、怒ってたりする? ごめんね、迷惑かけて……」
「ん? いや、怒ってないけど」
「え?」
「ん?」
間、
「それに迷惑って、なんの話だよ」
「え? だ、だって……こんなの失礼だって」
あー、と九城は話が嚙み合っていないのを察し、
「いや、今のは一般論というか。やるなら俺だけにしとけよって話」
「……じゃ、じゃあ、怒ってない? 迷惑じゃない?」
「そりゃあ、あんた」
笑った。
「迷惑なんだったら、最初から同じ大学なんか選んでねえだろ」
「……、」
「あんたがそそっかしいのは織り込み済みだよ。先輩と一緒だとなんだかんだ、退屈しなくて楽しいしな。今更気なんか遣わなくていいの」
九城は他人に言わせれば世話焼き体質らしいが、嫌いな相手と愛想笑いだけで付き合えるほど人間ができているわけでもない。
高校で出会ってから現在まで、百瀬が一体どれほどの無様を九城に晒したと思っているのだろう。それで愛想を尽かすのなら、もうとっくの昔にさよならしているのだ。
「ってか、先輩もそういうの気にするのな。いや、いい傾向だと思うぜ。せっかくナリはかわいいんだから、もうちょっと人目ってのを意識してだな」
「…………」
「あとはそうだなあ、とりあえずジャージ以外の服も着てみるとか。そうすれば他の男も放っとかねえだろ……いやダメだな、あぶなっかしすぎて俺の気が休まらねえわ。大学じゃ女と出会うことしか考えてねえやつもいるらしいから、先輩もちょっとは気をつけろよ――」
そこで九城はふと気づく。さっきから隣の百瀬が、電源を引っこ抜かれたみたいに一言も喋らなくなっている。もしかして気でも悪くさせただろうか、と耳をそばだててみると、
「…………すぅ」
「ウッソだろこいつ」
寝ていた。ペンギンとイルカに顔をくっつけて、すよすよと規則正しい寝息を立てていた。
え、そっちから訊いといて勝手に寝ることある?――と、開いた口が塞がらないとはまさにこのことだった。ついさっきまで笑ったり怒ったり落ち込んだりしていたのに、一体どこに寝落ちする要素があったというのか。なんとなく、遊び疲れた赤ちゃんは食事中でもコテンと寝てしまうことがある、という話が脳裏をよぎる。なんとなく。
まったくもって、呆れたけれど。
(……ま、いいか)
いつまでも怖いだの眠れないだのと騒がれ続け、結局徹夜になるオチも覚悟していたのだ。それと比べれば、むしろ百瀬の方が先に寝てくれたのは幸いだともいえた。
これで九城も、ようやく肩の荷を下ろして眠りに就ける。
――百瀬ももは眠気に対してもザコであり、たとえ話し中であってもコテンと寝てしまうことがある。
どうやら、彼女を『二十歳児』と呼ぶエピソードがまたひとつ増えてしまったようだ。
/
百瀬はベッドを揺らなさいようゆっくりと体を起こし、ペンギンの後ろからそっと隣を覗き込んでみる。常夜灯を点けているおかげで、ぼんやりとではあるが九城の寝顔を確認できる。女と一緒のベッドで手までつないでいるというのに、この男はドギマギした様子もなくあっさりと夢へ旅立ち、今では憎たらしいほど静かな呼吸を繰り返している。
ため息が出た。ちょっぴり自己嫌悪のため息だった。
(……寝たフリしちゃった)
九城はなんの疑いもなく寝落ちしたと思ったようだが、いくら百瀬でも人と話している最中にいきなりコテンと行くわけがない。そんな赤ちゃんみたいに思われているのはなかなかに心外だ。いや、そのお陰で事なきを得たともいえるのだけれど。
なぜそんな真似をしたのか。
(うー。今ぼく、ぜったい顔真っ赤だよ……)
ズバリ言えば、不意打ちを食らった。そのせいで全身ほっこほこになってしまったので、バレたくない一心から寝たフリを決め込んだワケだ。
ズルいと思う。普段は先輩に対する敬意なんてゼロで、情け容赦ない塩対応ばっかりしてくるくせに。
一緒にいるのが嫌なら、最初から同じ大学は選んでいないと。
百瀬と一緒は、退屈しなくて楽しいと。
あんな、びっくりするくらい優しい声で。
そのあとも、なんかいろいろ褒めてくれてたし。
九城は昔からそうだ。百瀬が本当に不安になっているとき、落ち込んでいるときに限って、ああやってこっちが恥ずかしくなるようなことを平気で言う。そのくせ当人に特別な意図はまったくなくて、あくまで友人として励ましているつもりでいる。
ひどい女たらしもいたもんだと思う。
だってここに一人、それで心底やられてしまったバカな女がいるのだから。
シャワーを通話で生中継して、バスタオル一枚で飛び出して、一緒のベッドで手まで握って、それでも『手のかかる妹』止まりなのは大変納得がいかないけれど。
(警戒心ゼロのダメダメな先輩……って思ってるんだろうなあ)
淡い笑みをこぼし、少し前の問答を思い出す。
(ひどいなあ。ぼく、これでもかなり警戒心強いよ? 誰にでもこんなことするわけないじゃん。きみ以外の男なんて、優しくされたって助けられたって土下座されたって脅されたって殺されたって絶対にイヤなのにさ)
恐怖を紛らわせるなら誰だっていい――そんないい加減な気持ちで、百瀬が隣を許していると思っているのだろうか。そんなわけがないのに。百瀬にとっては九城がなくてはならないし、九城以外の選択肢なんてありはしないのに。
(ていうか、警戒心とか自衛の意識とか、そんなのきみだって大概だよ。今の状況、ぼくがその気になったらいくらでも襲い放題だってわかってる?)
男に優しくされたらコロッと騙されそう、と九城は思っているだろう。そういう九城だって、百瀬に言わせれば、女に涙を見せられたらコロッと騙されてしまいそうだというのに。
言葉遣いが素っ気ないので、一見すると冷たくて近寄りがたい印象を受ける。けれど実際はなんだかんだ気配り上手で面倒見がよくて、おまけに背は平均以上だし、顔だって男前だし、運動神経がよくて学力だってそうマズくないし、身だしなみはきれいだし、掃除も洗濯も炊事もぜんぶできる。
この男もまた、よく見れば案外優良物件なのである。
(きみも、女の人には気をつけてよね……)
高校の間は、幸い浮いた話は聞かなかった。九城はどちらかといえば相手のペースに合わせる性格で、話しかければ普通に受け答えしてくれるけれど、そうでなければ口数もあまり多いとはいえない。加えて金銭面で難がある家庭の事情もあって、特例として部活動に所属せずバイトすることを認められていたから、正直クラスで目立つタイプではなかったのだと思う。
しかしだからといって、大学でも心配無用とは限らない。大学は高校よりも遥かに自由な環境で、同時に多くの生徒が成人を迎え、将来についてより一層考え始める場所でもある。「九城くんって意外と……」なーんてすり寄ってくる女が出てこないとも言い切れないのだ。
それは困る。
とても、めちゃくちゃ、ものすごく、すさまじく、とてつもなく、困る。
だって、百瀬は。
百瀬は――
(……)
九城は、大学四年間のうちに百瀬を独り立ちさせようと目論んでいる。社会人になったあともこうして一緒にいるとは限らないから、いい加減安心させてくれと。
けれど、もし。
「――ねえ、大雅くん」
自分でもほとんど聞き取れないくらい小さな小さな声で、百瀬はささやく。
もしも、
「もしもぼくが、ずっとダメなままだったら」
こんなことを考えてしまう自分は……きっと、悪い子なのだろう。
「――そのときは、ずっと一緒にいてくれる?」
九城大雅には、二人の妹がいる。共働きで忙しい両親に代わり長年九城が面倒を見ていたが、そんな妹たちは九城の高校卒業にあたって、決意新たに兄離れをすると決めたらしい。
感謝している。だってそのお陰で九城は進学を選ぶことができて、こうして今でも百瀬の隣にいるのだから。
百瀬の今がこんなにも、満たされているのだから。
ペンギンとイルカを取っ払い、遮る物がなくなった彼へもっと近づく。彼の匂いと体温をすぐ傍で感じながら、百瀬は笑みとともにゆっくりまぶたを下ろす。
恐怖はとうに、消えている。
残念美人はいいぞ……。