七話【衝突暴走】
眩暈。吐き気。多汗。咳。貧血。頭痛。
様々なモノが、俺をオソウ。
────視界は一瞬暗く。
”土佐学”を捉えていた眼の焦点はズレる。
様々なモノが、俺をオソウ。
光を失い、絶望の渦だけが脳を占領する。
それは、あまりにも現実離れし過ぎていて。
それは、現実であり得る事だった。
それは、サイアク。
「……」
言葉?
そんな余分なモノは、口から出てこない。
吐き気に堪え、眩暈に堪え、頭痛に堪える。
正直言えば、気を抜けば今にも倒れてしまいそうだった。
俺自身では、自分の顔は見れないが。それはさぞ、無様に青ざめている事だろう。
「……」
コトバ?
そんなモノは、浮かばない。
喉からは、今にも胃液が逆流してきそうな勢い。
だが、制止するのは出来ない。
今までに体験したことがないくらい、大きな、大きなモノが俺をオソウ。
「……っ」
キー――――――ン、と脳に耳鳴りが直接訴えてくる。
ああ、そうだ。こうなれば、やるべき事は一つだけだろう。
事実を確認しなければ。
「……あぁ」
「おいワタ────⁉」
何か聞こえた。でも、分からない。
俺は、走り出す。
一階の職員室へと降りて、乱暴にドアを開く。
まるで、それをコワスように。
「……ァ」
「な、なんだね君は⁉」
ダレカ知らない声が耳を通り抜ける。
だけど、関係ないだろう。
俺には、関係ない。
ランボウに、職員室に潜り込む。
誰かが、歩いてくる。
邪魔なヤツら。
「……」
「き、君⁉ 要件を言いなさい、何年生だね⁉」
「ド……ケ…………っ!!!」
「ぬわっ⁉」
肩にナニカがぶつかった。
だから、思いっ切り腕にチカラを入れて振り払った。
ガシャン。大きな音が聞こえる。
「……キャぁぁぁぁぁっぁぁぁ⁉…………」
ナニカ、キコエル。
女性の声。女の声。
オンナのサケビゴエ。
「カァ……さん?」
否、違う。それは、目標とは違う。
そう判断して、優子先生の使っている机に到達する。
そこは、カラッポだった。
「……」
それは、彼女が学校にまだ来ていない事を示している。
その事実だけで、俺は崩れおちそうになる。
普段……ならば。今は、普通じゃあない。
……ああ、ああ、ああ、ああ、あああ、あああ、ああああ、あああああ。
はやく、はやく、ハヤク、はyku、サガサナイト。
額から汗が下ってゆく。
冷たい、冷たい感触。
「……」
職員室を後にして、学校から出る。
ソトニキタ。
空は、こんなサイアクな状態にも関わらず鮮明な色彩を放って輝いていた。
ああ、実に憎い。ニクイ。
「────そこまで。少し、待ったらどう?」
「……」
また、走り出そうとした時。
背後から制止の声が聞こえた。
誰のコエか。分からない。
だが、覚えがあった。
「その様子じゃ、ダメみたいね」
「────?」
何を言っている。
今のオレの、何がダメだと言うのか。
コイツは…………。コイツは…………。
否、それは。
─────か?
だが、誰が止めようと関係ない。
俺は、それよりも。しなければならない事があるんだ。
あるんだ。あるんだ。あるんだ────。
彼女の声なんて無視して、俺は走り出した。
そして、母さんを探し始めた。
街中を走り回った。
◇◇◇
そして。
そして。
そして。
「は……、は…………、は…………?」
気が付けば、俺はどこかも知らない場所に立ち尽くしていた。
時は夕暮れ。日は沈みかけ、道路端にある電灯は心なしに照る。
「……どこだ。ここは」
俺は今まで、何をしていた?
俺は今まで、どうやってここに来た?
俺は今まで、何をサガシテイタ?
ピリッ。と、脳にノイズが走る。
思わず、俺はその場で跪く。
「意味が、分からない」
もう一度、自問自答する。
そして、俺の覚えてる限りの理性を思い出す。
確か俺は母さんの安否を心配するあまり、学校を途中で抜け出して……こんな所まで、きてしまったというのか?
ああ、俺はバカだ。
ワルイコトをした。少しばかし、右腕に痛みが走る。
理性もなく獣の様に徘徊している最中に、どこかにぶつけてしまったのだろう。それは、どうでもいい。
自分の心配なんて、いらない。
そんな事は考えるだけでも、自分が憎く感じてしまうから。
「……あ、そうだ」
そうだ。と閃く。
まずはメールを確認しよう。
それで、今の正確な時刻と状態を把握しようという算段だ。
だがしかし────。
「あ」
俺は、スマホの入ったカバンを学校に忘れてきてしまっているコトに気が付いた。そりゃそうか、なんせ俺は手ぶらで外に出て行ってしまったのだからな。
誰かがしてくれた、自制の手すら振り払って。
外に、出てしまったのだ。
……ああ、クソ。
と、今更自身の行動に後悔をする。
「せめて、もう少し理性的だったらなぁ」
場所が分からない。連絡手段もない。時刻も分からない。
そして手ぶら。
これ、どうしたらいいのだろうか。
全ては俺の責任なのだが……まぁ、まずは取り敢えずは家に帰る事が優先事項だろう。俺は再び、立ち上がる。
「じゃあ、せめて道路の看板を探すか」
道路の看板さえ見つかれば、そこがどこか分かるだろうさ。
俺の故郷は、俺の住む町は或間。
大丈夫、覚えている。
記憶障害の病気などではない。
「よし」
という事で、俺は歩き始めた。
俺がいた場所は、よく分からない森の獣道だった。
舗装はされていない、ただ壊れかけの電灯が立っているだけ。
その中を俺は歩いて、灯りがある方へとただひたすらに歩く。
地面の雑草は深い。ざわざわカサカサと、虫がどよめく音はあちらこちらから聞こえてくる。
虫嫌いの自分にとって、ここは地獄と同程度の場所だ。
「くそぉ」
ああ、早く出なければ。
そう少し心が焦燥させてくる。
歩いて、歩いて、ただひたすらに歩いた。
でも、道は遠くも近くもならない。
森の外には出られない。
まるで迷路みたい。
日はずんずん沈んでゆく、時はどんどん進んでゆく。
外気は陽光の消失で、更に冷たく。
吸い込めば、肺は果物ナイフで刺された様な刺突特有の痛みを感じ。
外気に直接触れる両手両足は凍って、今にも使い物にならなくなりそうだ。
息を吐けば、それは粉雪の様に白く染まる。
「……」
この感覚。
この森の感覚、焦燥感。
────どこか、少し懐かしい。
何故か、何故だろう。
それは、俺にも分からない。
でも、一度、同じような体験をしたことがあるような気がするのだ。
根拠はない。冷え過ぎによる、俺の狂い切った脳が感じる気のせいかもしれない。
分からない。
……分からない。
ただ分かるのは、はやくこの森から脱出しなければ死ぬ。
ただ、それだけ。
「寒、ぃ……」
凍えて喉が縮み、最早声すら出せない。
あまりの寒さに、身震いしか出来なくなっていた。
そんな中、希望は────あった。
森から出れた。
歩いて、歩いて、歩いて、遂に森を抜けた。
ここを歩いたかもしれない昼間の記憶など、全く身に覚えはないが。
ともかく、急ごう。
「……亜矢場?」
森を抜けた先は、車道だった。
そこには電灯も適度な間隔であるし、なにより看板が立っていた。
ここは丘の上らしく、辺りの町を一望できる。
車道に立つ看板には、亜矢場。と、そう書いてあった。
……亜矢場は比較的狭い町で、或間の隣町である。
一体、昼間の俺はどれだけ歩いたというのだろうか。
だが、これで安心だ。
ここが一望出来る場所だった為、或間の町の光もまばらだが、ここから視認出来る。これならちゃんと歩いて、家に着く。
俺は助かったと、少し興奮して。
……少し、小走り気味に歩き出す。
「なんか、電灯も暖かい気がする」
……心なしか、電灯が暖かい。
俺は歩き出す。
どんどん歩き出す。
後は体力だ、このかなりの距離を走れる体力が必要だ。
だが大丈夫。俺ならいける。
謎の自信が、俺にはあった。
大丈夫だと、問題ないと魂が告げていた。
電柱、電灯、電柱、電灯、電灯、電柱。
視界から、ソレラが通り過ぎてゆく。
光があると安心するな。
改めて、人工物の凄さに驚く。
良かった良かった、と安堵の息をつく。
だが、それも束の間────。
「……」
俺は立ち止まる。
視線の先には、ナニカが映っていた。
目を細めて、それを凝視する。
『見てはいけない』
心が、そう忠告する。
しかし、それは真に俺の理性には届いていない。
「ん……?」
それは全長三メートル弱の、黒塊。
人間ではない、直感的に理解する。
ソレハ、黒いマントローブを纏っていた人型で鮮明には見えない。
夜という事もあり、細部は見えない。
ダメだ、上手く見えない。
────……一歩、前に進む。
自分の無意識で。
見えない。細部まで見えない。
アレは、一体なんだ。
────……一歩、更に前に進む。
だが、まだ見えない。
まだ見える訳がない。
あの黒塊は、数十メートル先にいた。
夜の真っ暗闇の中、ましてや裸眼でこの距離離れた物体を鮮明に見るなど不可能に等しい。
人間の肉眼は、それほど高性能ではないのだ。
だから。
────……一歩、また進んだ。
すると、それは消えた。
いや、視界から光が消滅した。
……どこに、消えた?
否、俺の目の前に広がっていた道路はどこにある?
俺の視界はマックロであった。
黒に、黒。光すらも吸収し、反射させない真黒。
なんだ、と困惑した後。
唐突に、それは理解する。
「……え?」
視界は黒かったが、外界は黒くなど決してない。
先程と変わらない。だというのに、何故俺の視界が黒いのか、暗いのか。
それはもう、自明。
……その黒塊は、俺の眼前へと迫っていた。
『”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””ァ』
「────」
あまりの恐怖と驚愕で、思わず俺はコトバを失った。
何を言っている?
……ナニヲイッテイル?
理解出来ない。
しかし、おぞましい事だとは理解していた。
それは恐怖からか、嫌悪からか、どこから来ている感情なのかは分からないが。
「”””””””””””””””””””””””ィ?」
「────は」
瞬間。
俺は、吹き飛ばされていた。
衝撃と痛みは、その後に、遅れて到達する。
「がっ⁉」
まるで、魔法の様な一撃。
コイツは、ナニヲシタ?
今のは、どう考えてもおかしい。
まるで、無理やり俺を不思議な力で遠ざけて、その後吹き飛ばした事によってココにいると、世界を騙しているかのような。
瞬間移動したような。
だがとにかく、腹が痛い。
どうやら、腹を蹴られた事になっているらしい。
だが俺は、それを知らない。
俺の認識力じゃ、捉えきれなかったのか。
それとも、不思議な力が働いたのか。
それは、考える事も叶わない。
そんな悠長に時間を浪費するもなら、即死。
その光景は、容易ではないが想像出来るものだった。
今は、コイツから逃げるしかない────!!!
コイツは人間じゃない。
コイツはまた、別の”いきもの”だ。
コイツは”ベツジゲン”の存在だ。
人間じゃない。紛れもなく、化け物だ。
人間の些細な筋力などで対抗、行使した所でそれは焼け石に水よりも、無意味。
意味などない行動だ。
ならば、逃げるしかない。
俺には、それしか選択出来ないのだ。
ステータス差、レアリティの差、レベル差。
埋めることの出来ない格差の絶対値を、先程の一撃で俺は見た。
だから、俺は勢いよく立ち上がり黒塊の反対方向へと逃げる。
「────は、ぅぁ……ぁあ!」
停滞しかけていた心臓を全開稼働させる。
呼吸は無意識に浅くなる。深くすれば、脳が疲労に気づいて、この刹那の内に気絶するだろう。それを無意識の中で、体はソレを理解っており、調節したのだ。
ただ走る。走り続ける。
数秒前までいくつの電柱を通り過ぎた。
だが、今の電柱は一つ通り過ぎるだけでも、あまりにも長く感じた。
冷え切った体は、一瞬にして灼熱に至る。
ああ、こんな現実嫌だ。
狂喜乱舞。今の俺の心境。
ああ、叫んでそのまま死んでしまいたい。
ああ、このままわけもわからず死んでしまいたい。
ああ、理想に目を背けて安楽死したい。
ここで俺は逃げ切れるのか?
否、それは最初から不可能と理解りきっている。
つまるところ、この抵抗はほぼ無意味。
いや、完全に無意味。
そんな些細な努力は、努力と呼ばない。
だが、俺は逃げる。
そんな妄言を吐いても、人間は逃げる事しかできないのだ。
「────、あ────っ」
破裂するかの様に、心臓が壊れる音がする。
引き裂かれる様に、脳細胞がコワレテユク。
だが、俺は逃げる。
そんな肉体的限界なんて、捨てて行け。
ただ逃げるのだ。逃げるしかない。
更にもう一段階。
体内がグチャグチャに。
五臓六腑が潰れる。
それが錯覚か、それは幻かは分からない。
錯覚だろう。人間は、臓器が全てコワレても生きてるほど強い生物ではない。
ただ、この疲労は本物だ。
右腕が前より痛む、その痛みが。
俺を、現実へと引き戻す。
「”””””””””””””””””””””””””””””””?」
「────く、そっ!」
お前は一体、何者なんだ。
お前は、なんなんだ。
そう問いかけたい。だが、無理だ。
俺には、無理だ。そんな余力はないし、そんな勇気もない。
俺には、そんなにも素晴らしい高等感情は持ち合わせていない。
振り返らない。
ただ、前を見て走る。
一秒の体感時間は、永遠に引き延ばされる。
額からは汗がこぼれ落ちていく。
違う。それだけではない。
俺の目元には、水がたまっていた。
涙、しているというのだろうか?
────キー――――――――――ン。
と、直後に耳鳴りが響く。
それに連動するかの如く、右腕の痛みはさらに増す。
『”考えるな、涙するな。逃げるな。志摩弥には、その資格なんてない”』
……ナンダ、ソレハ。
脳が震える。
腕が、脚が、手指が、足指が、耳が、鼻が、口が、喉が、全てが凍結し。
全が震えた。
……ナンダ、ソレハ。
「”””””””””””””””””””””””ァ」
「────」
背後から声が。
……違う。生物が出してはいけない振動が、聞こえた。
アイツは、俺を追っているんんだろうか。
ならば、何故。
何故、俺を追う。俺を、狙う。
思い当たる節なんてない。
俺は善人として生活してきた。
俺は平穏に生きてきた。
だというのに、アイツは何故俺を狙う?
分からない。
意味が、分からない。
意味……ナンダ、ソレハ。
────俺は、減速する。
意図的ではない、疲労による体の限界の到達。
肉体的限界が、ココだ。
なるほどな、と俺はため息を吐く。
今走り、どれぐらい進んだだろうか。
多分、距離にして百メートル程度。
時間換算で、十五秒程度。
「……ぁげほっぅ、ぁ!!!」
立ち止まれば、疲労はいきなり俺を襲う。
あまりの苦しさにもがき、悶絶し、全ての体内機能が叫ぶ。
もう動けない、と。
────もう、動けない。
────もう、走れない。
────もう、逃げれない。
その言葉の真髄は、”死”。
「……げほっ、はは、ははは」
俺は、力なく背後へ振り返る。
そこには、徐々に、徐々に、こちらへ瞬間移動する黒塊がいた。
距離にして僅か十五メートルほど。
もう、一瞬で追いつかれる。
追いつかれて、どんな方法かは知らないが、俺は、殺される。
────視界が赤く染まる。
これは幻覚だ。だが、しかしそれは同時に未来であろう。
これが俺の数秒後の未来って訳だ。
八つ裂きとかにされて、死ぬんだろうか。
分からないな。
「はは、ははは……なんなんだお前はッ!!!!!!」
現実を見て、諦観し笑う。
自暴自棄……ダメだ、それはダメだ。
自暴自棄になったら、どれだけ後悔するというのだ。
ソレで、さっき後悔したばかりだというのに。
志摩弥という人間は、どうやら学ぶ思考すら今は機能してないらしい。
体が重い、重心が歪む。
右腕が、更に痛む。
我慢できない、ああ、もう楽になって叫んでしまいたい。
この車道は、まだ一回も車が通っているのを見ていない。
しかし、叫べば町の住民の誰かが気付いてくれるかもしれない。
────気付いたとして、なんだ?
気付いたからといって、助けてくれるとは限らない。
当たり前だ。俺でも、他人が俺の様になっていたら、助けないかもしれない。
だって、怖いじゃないか。だって、死ぬ可能性を孕んでいるんだ。
死は怖い。死というには、まだ早い。死にたくない。
だが、無慈悲にもバケモノは進んでくる。
「””””””””””””””””””””────」
「……あ」
距離にして、眼前一メートル。
それは、目の前に迫ってきていた。
それは、目の前で止まった。
なんで。か、それは分からない。
分からない事が多すぎる。
あまりにも分からない。
血流は速く、鼓動は高鳴る。
「────あ」
「”””””””””””””””””””””””””””?」
ソイツは、長い長いながいながいナガイ腕を黒いマントローブから出して、俺の右腕に近づけてきた。
ソレの皮膚は、灰色で、蛆が湧いていて、焼け爛れている状態。
到底それは人間の腕と言える代物ではない。
「────あ」
「””””””””””””ァ」
ソイツの長い腕が、俺の右腕に触れようとする。
────あ。ダメだ。
脳が、否。俺の心の、魂の深海に眠るナニカが思考する。
『フレルナ』と。
触れるな、と。
脳がパリンと割れる。
世界が割れる。
見ていたモノが、全て崩れた。
ナニモカモガ、コワレタ。
崩壊のメロディー、世界の波動を、衝動を、原典を理解する。
ダメだ。これは、俺の思考ではない。
俺の奥底に眠る記憶。深海に眠る、深淵に眠る。
深い深い記憶が。
────叫んでいる。
『フレルナ』と。
叫んでいる。
だが、しかし。バケモノに人間語は通じない。
前提として、まずソレハ声に出していない。
「や、めろ────」
バケモノの魔は止まらない。
そこには理性の欠片もなく。
その闇は、俺に触れた。
瞬刻。瞬間。刹那。
────。
「────────あ?」
世界は、俺の右腕を起点として薄暗い赤電撃と共に紅に染まった。