六話【的中?】
「……ひぃ」
或間町の朝は寒い。
自転車のハンドルは冷ややかな風に煽られて、
自転車のペダルは巻き起こる旋風に冷却され、
自転車に乗る志摩弥は眼前に吹く絶対零度の外気に凍える。
ああ、寒い。
そう白雪に染まるため息を吐きながら、外気に触れて痛みを感じる指先に力を一層入れて、ハンドルを握りしめる。
志摩家から、高校までは速くこげば四十分弱でつく。
なに、焦る事はない。
少し速くこげば、余裕をもって学校に登校出来るのだから。
「さて、と」
────目の前に広がるのは、坂道だ。
俺の通う高校は、この或間の丘の上に建っている。
自転車通学の俺にとって、ここは命を削らなければ登れない恐ろしい山。
ま、行きが地獄な代わりに帰りは天国ではある。
上りが一つあるならば、下りも一つあるのがこの世の摂理。
目の前に広がる世界とは、そういうものだ。
そんな言い訳をしても、目の前の現実が変わるわけもなし。
だから、登るほかないのだ。
だから、俺は、この死神を登る。
◇◇◇
「────は、ぁっ。げほぉっ、ごほぉ⁉」
丘を越えて、わが校の正門に着いた。
予想通りではあったが、俺の五臓は死んだ。
高校の駐輪場に自転車を運ぶころには、もうそれは咳、咳、咳、咳の連鎖だ。
咳をすると、気持ち悪くなってまた再び咳をする。
自制は不可能。実に見事な負のループだ。
膝に手をついて、俯いて。
息を整える。ああ、少しクラクラする。
自身の少し歪んだ視界を確認して、極小な音で舌打ち。
こんな事で疲労しきってしまう自分が憎い。
これから授業があるというのに。
「……おはようございます。大丈夫、ですか? かなり辛そうに見えますが……」
「……え?」
ふと、俺の鼓膜に見知らぬ声が通り過ぎた。
俯いていた顔をあげる────と。
そこには、黒髪黒眼。
ストレートの、煌びやかで美しいカラス……いや、まるで悪魔の黒翼の様な、紫
光を放つその黒き髪。
ビー玉の様に、水晶の様に、透き通った様な眼光に、常に真剣に現実を、物事を見ているであろう黒き眼。
そこには、まさしくな美人が立っていた。
一瞬、彼女のあまりの美しさに見惚れてしまい、眼と眼が合ったその刹那。俺の思考は、停止しかけていた。
「え……あ────」
そして、次に。
俺は思った。
────誰だ、この人は。と。
見たこともない、声の聞き覚えもない。
……だが。
彼女の制服に、二年生専用のバッジが付いている事に気が付く。
この高校の、二年生。
つまり、俺の一個上だ。
記憶を探る。
「……ありがとうございます」
感謝を最初に。
取り敢えずだ、別にこの咳はただの疲労によるものだし。
心配しなくても、大丈夫だ。
「そう、ですか? あなた、本当に顔色が悪い様に見えますけど……」
「っいや、大丈夫です!」
一歩。
彼女が歩み寄ってきた。
それを、俺は手を出して制止させる。
別に他人に心配されるほどの……咳でもないし、眩暈でもない。
問題ない、問題ない……問題、、ない。
「本当に?」
「ああ、いや、ええ本当に」
同時に、再び視界が揺らいだ。
だがこれも、別に問題ない。
ただの疲労によるものなのだから。
これは、俺が貧弱すぎる故の罪なのだから仕方がない。
「……」
でも、それでも、彼女は心配そうな眼差しでコチラを見てくる。
大丈夫だと、言っているのにも関わらず。
「……」
「……」
俺がどこかに行くこともなく、
彼女がどこかに行くこともなく。
互いに膠着状態に陥り、気まずい雰囲気が空気に浸りこむ。
────ああ、朝から俺は何をやっているんだ?
眩暈に酔いしれながら、自問自答した。
でも、答えは浮かんでこない。
「……そう、ですか」
静寂を破ったのは、彼女の方であった。
重苦しくも、彼女はそう言った。
実に残念そうな声で。
「……? 、お気遣い……ありがとうございました。でも、俺は大丈夫なので……」
まぁでも起点は出来た。
俺はそう言って、感謝を伝え、この場から去ろうとした。
眩暈と咳が治まってきたのだ。
しかし、彼女は俺を呼び止めた。
「少し待って下さい!」
「────」
どうした。
この俺に、まだ、なにか用があると言うのだろうか。
というか、この人は他にやらなければいけない事とかないのだろうか。
そんなムダであまりにも失礼な思考は、脳の隅へと追いやる。
そして、立ち止まって彼女の方へと振り返った。
彼女は、コチラを真剣な眼差しで見つめてきていた。
「あ、あの……私は、秋葉澪。この秋葉高の二年生です。あなたの、お名前を聞いてよろしいでしょうか?」
……秋葉?
その語句に、ピクリと耳が反応する。
秋葉、それはこの学校の名称だ。
その学校名と同じ苗字……って……。
思考がいきなり、ばんと爆発的に広がった。
いやいや、今考えるべき事はそれじゃない。
なんでかは知らないが。
俺は今、名前を聞かれているのだ。
「えーと……志摩弥、この秋葉高の一年です。先程はありがとうございました……それではっ!」
俺は、名前を告げた。
そして、次の瞬間には俺は昇降口へと走り出していた。
……次の言葉は待たない、なんか嫌だった。
それに、それは彼女にとっても無駄な時間を浪費させてしまう。
そんな悪い事は、俺には出来ない。
「……っ‼」
カバンをからスマホを取り出して、時刻を確認する。
今のは時刻は────午前七時⁉
ホームルームまで、あと十分しかないというのか⁉
俺は焦って、靴箱に靴を入れて。
上履きに履き替えた。
そして、そのまま急いで秋葉高校の本館三階の奥にある俺が在籍する一年三組の教室へと向かう。
たとえ、再び咳の渦に巻き込まれても。
◇◇◇
一年三組に着いた。
ガヤガヤ、ガヤガヤ、ガヤガヤ。
ホームルームまで、あと八分だというのに、この教室は…………一年三組の教室には騒音がまみれていた。
聞こえてくるのは、女子たちのたわいもないガールズトーク、男子たちの時事ネタ、ふざけ話。実に平和ボケした教室だ。
この学校には、怒らせると死ぬと言われている教頭が徘徊しているという事を……コイツらは知らないのだろうか。
ぜぇぜぇと息を切らしながらも自分の席に向かおうとすると、その途中で俺の肩にのしかかる様に。その男は言った。
「貴様も、ついに悪魔どもの手に堕ちたというのか……WA TA RU」
「……何を言ってるのか、さっぱり分らんのだが」
「……俺のメールを、見てないですよね⁉」
「は?」
その男の名は、土佐学。
容姿としては……身長が高くて、青色髪で、ゴツイ筋肉を持っていて、イケメンといったところだろうか。
勿論だが、この事を学に言う事はない。
なにせ、そんな事を言うと変に調子に乗るからだ。
コイツは。いつもなら、超絶元気なのだが。
今日は、心なしか少し不機嫌そうであった。
「め、メール?」
「ああ、そうだ。メール……だ!!」
「……確か、俺は昨日、返信した気がするけど」
「今日の明け方にな、そのメールにまた返信したんだよ」
いや、知らんわ!
そうツッコミたくなった。
というか、昨夜のメールて。どんな内容だったっけか。
忘れてしまった自分に、ちっとばかし後悔する。
「えーーと、どんな内容?」
「そりゃあ決まってるだろ、アーティファクト・ファンタズムについてだ」
「いや、知らんわ!!」
ツッコミが我慢できず、口からそんな言葉が出てきた。
だが、学はそれを無視する。
……スベったのだ。俺のギャグは。
「分かりやすく言うと……俺の教科書って家に持ち帰った後、どこに仕舞ったか忘れてしまったという事象の呼称だ」
「……⁉」
意味が分からない。
何故、そうなるんだよ。
これだから、コイツの話にはついていけない。
「それでだなアーティファクト・ファンタズムがお前に伝わってなさそうだったからな、今言ったみたいな内容で深夜に返信したのだ……」
「だがしかし! いつまで経っても、お前からの返信は返ってこない⁉ 帰ってこない⁉ ……つまり、だ。俺は今日、全ての教科書や参考書を忘れた」
学の続いたその言葉、俺は思わず言葉が出てこなかった。
それ、俺が返信しててもしてなくても未来変わってないだろ。そんな感じだ。
「まじか……よ」
「そう、マジだ。……ま、別にそんな事はどうでもいいんだ」
「……え? なんでだよ、それってかなりマズイだろ」
「いいや、今日は金曜日だからな。明日は休み。……土日の休みに、探してくるんだよ」
ああ、と声を出して理解する。
だがしかし、コイツ。そんな事言っているけど、大丈夫なんだろうか?
優等生が、全部忘れるとか珍しいにも程がある。
……優等生?
心に、少しばかりの疑問がよぎるがそれはスルーする。
「というか、そんな事はって……どういう意味だ?」
でも、しかし。次の瞬間に俺は、もっとスルーすべきであろうことを。
無邪気な志摩弥は、そんな事を聞いてしまった。
すると土佐学の表情はニヤリと笑った。
……こんな顔して街中を歩いていたら、女性に通報されるんじゃないかという。なんとも絶妙な表情である。
「────そりゃあ、弥(笑)が、先程駐輪場で学校一の天才美少女とコソコソ恋バナをしてたってクラス中で噂ですからねぇ⁉」
「は────?」
最初、意味が分からなかった。
だがしかし、一秒後の俺は漠然とだが理解していた。
……俺が今朝、駐輪場で、学校一の天才美少女。
思い当たる節は勿論、ただ一つ。
というか今日、俺が駐輪場で話をした相手はただ一人。
この学校の先輩である、秋葉澪。あの人だけだった。
あの人は今朝、周りに迷惑が掛からない様に小さな声で、眩暈に酔う俺を心配してくれた。だというのに、コイツは……コイツらは…………。
「お前ら…………」
「ん? どうした? ばれてびっくりしちゃったか?」
「どんな勘違いしてるんだぁああああああああこの厨二病共!!!!!」
その日の朝。
この秋葉高等学校の、一年三組のクラスに学校中全部に聞こえる様な怒号が響いたらしい。ああ、それは間違いなく俺の声だろう。
席に着いた時に、ひたすら日葵に例の事を追及されたのは、また別のお話。
◇◇◇
「……はぁ、疲れた」
四時間の授業が終わり、昼休みになった。
俺は特に買ってきたもんもないし、学食でちゃちゃっと済ませちゃおう。近くのコンビニに行くのも、面倒くさいからな。
そう決めて、俺は重い体を起こす。
しかし、ふと途中で止まった。
「よ、腹ペコワタル。俺の買い過ぎたパンの一つをやろう」
「腹ペコワタルて……語呂悪すぎないか?」
「そんなのはどうでもいいだろ」
「まぁそうだな……」
土佐学。彼は俺の見つけたら一目散に、俺の席へと突っ走ってきた。
右手に、白い袋を携えて。
「ほれこれ」
「……ん、なんだこれ」
「お前、まだ昼飯食ってないだろ? だからな、俺の買い過ぎたパンを一つだけくれてやるって言ってんだ」
「おお、ありがたいな」
まさか、学がそんな優しい子だなんてと感動しながら、俺は学から一つパンを受け取った。パンが入ったビニール袋には、コーンマヨネーズパンと記載されたシールが付いている。
「コーンマヨネーズ、俺の好物だ……」
「そうだったのか、なら良かった」
「ありがとうな」
「……感謝には及ばん。俺も、この席で食わせてもらうぞ」
コーンマヨネーズは俺の、大好物なのだ。
だって、美味しいじゃないか。こう、香味があるというか、病みつきになる味付けとうか、あれだ。言語化出来ない美味しさの秘訣があるのだ。
コーンの甘さと、マヨネーズの酸味が丁度よくマッチするのだ。
人間の嗜好性というものを完璧に理解しているのだ。
取り敢えず、美味しいのだ。
学はわざわざ自分の席からイスを持ってきて、俺と対面する位置に座る。
ごそごそと白い袋から、学は自分が食べるようであろうパンを取り出す。
いい匂いが、ほんのりと伝わってきた。
ビリビリとパンを覆うビニール袋を破いて、学はパンにかじりつく。
「はっ、このパン。味変わったな」
そして。この感想である。
「……そうなのか?」
「ああ、パンの質が落ちたなこりゃあ。ま、この俺だから分かる事かもしれないがな────何と言おうか、俺SUGEEEEか?」
「さて、じゃあ俺も有難く頂こうとしようかな」
コイツの馬鹿な妄言は、華麗に回避する。
俺も学と同様に袋をやぶいて、一目散にパンへとかぶりつく。
それは本能が剝き出しの獣の様に、勢い良く。
「はむっ」
「……弥、お前はハムスターか⁉」
学は、いきなり立ち上がって俺に指先を向けた。
「は? 何を言ってるか分らんし、食事中にいきなり立ち上がるなよ。行儀悪い」
「わ、悪い……」
そしてすぐさま、彼は座る。
全くもってお行儀が悪いですわ、学たんは。
「……はむっ、はむっ……はむっ」
「────っ。…………、……はぁ……」
俺がパンに食らいついている時、何故か、学は不思議とため息ばかりを吐いていた。
何故だろうか、そんな事は考えもしない。今はただ、目の前の食事にかぶりつく。
それが、人間。
それが、獣共の本質だ。
「そういえば、弥。優子先生どこ行ったか、知ってるか?」
「母さん────? いや、知らなけど。この学校を適当に徘徊しているんじゃないか?」
「いや……」
二人共パンを食べ終えて、おしゃべりタイムへと入った。
最初に学が話題に出してきたのは、なんと母さんについてであった。
……厭な予感がする。
だが、話を続ける。
ここで、無理に止めても良かったが、それじゃあ学に悪い。
学には、先程パンを貰った借りがあるというのに。
恩を仇で返す事なんて、そんな事は極力したくない。
「優子先生、今日はまだ学校に来てないらしいとの話を教頭から聞いてだな」
「は? 今、なんて」
「だから、優子先生がまだ学校に来てないとの話を聞いてだな」
「いやいやいや、どういう事だそれ。母さんは今日、普通に元気だったぞ? 学校にも出勤する準備もしていたし」
意味が分からない。
厭な予感。
……考えれない、考えたくもない。
だが確かに、俺の予想は。
厭な予感を示していた。
どういう事だ。
脳裏が困惑に染まる。
「……」
場が、一瞬にして静まり返った。
意味が分からない。
「なぁ、弥。この或間町で起こっている怪奇事件、お前も知っているよな?」
「……」
答えない。
だが、その答えは知っている。
この或間の地で起こっている怪奇事件。それは、この町の至る所でぶよぶよに水で分解されたスライム状の溺死体が発見される事件。
もちろん、俺は把握している。
だけど、答えない。
イヤナヨカンがする。
「もしかして……だけどさ」
「……」
一つ、最悪が思い浮かんだ。
最悪な事実が浮かんだ。否、これはまだ虚像だ。
現実ではなく、自身の、志摩弥の妄想に過ぎない。
だからこそ、まだ口に出さない。
「優子先生。……いや、お前の母さん」
……や、やめろ。
しかし、彼は口に出そうとしていた。
考えたくもない、考えれない。いやだ。
ここで思考を放棄して、すべてを捨てて死んでしまいたい。
そんな思考が、脳を駆け巡る。
「もしかして、通勤途中に」
────や、め……ろ!
思考は放棄出来ない。
サイアクな事など、一度思い浮かんでしまえば。そう簡単に霧散する事などない。
人という生き物は、悪い記憶だけを残したがるものなのだから。
思考を放棄したい。
思考を停めてしまいたい。
思考を忘れてしまいたい。
だけど、そんなのは不可能だ。
現実とは、唐突に訪れる理不尽。
「────その事を、口に出す────な」
そのサイアクは、言語化する。
「その怪奇事件に、巻き込まれたんじゃないか?」